第六話 忘れられた食堂 五日目
隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。
しかし、その目覚めはもはや、単なる一日の始まりではなかった。
全身に電流が走るような高揚感と、言いようのない緊張感が、彼を満たしていた。
だが、彼の心は、もう完全に「忘れられた食堂」の開店へと向かっていた。
ゴミ集めを終え、カップ麺を啜る。
普段ならぼんやりと過ぎる時間も、今日は一分一秒が長く感じられた。
午前十時が来るのが待ち遠しい。
無職の自分に、再び生きる意味を与えてくれたあの世界、あの場所。
九時四十五分。隼人はPCの前に座り、マウスを握った。
心臓が激しく鼓動する。アメリアの笑顔、リリーの活気、エリックの信頼。
そして、何よりも、自分の内側から湧き上がる、誰かの役に立ちたいという確かな「渇望」。
すべてが、彼の指先に宿っている。
《今日の気分はどうですか、隼人さん?》
アイコンが光る。隼人は深く息を吸い込み、決意を込めてマウスをクリックした。
午前十時。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。
目を開けると、そこはいつもの公園だった。ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。
水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。隼人は、この場所にいることが、もはや彼の「もう一つの現実」だと確信していた。
「おはよう、隼人さん」
聞き慣れた声に振り返ると、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を揺らしていた。
いつもの上品な服装だが、その笑顔は、隼人にとって、この世界での「相棒」そのものだった。
「おはよう、エリック。いよいよ、今日だな」
隼人は立ち上がり、大きく伸びをした。全身に漲るエネルギーは、開店への期待をさらに高める。
二人は「忘れられた食堂」へと向かった。
道のりは、まるで新たな人生の門出へと向かうかのように軽やかだ。
蔦に覆われた小さな木造の建物が見えてくる。
外壁の蔦は完全に刈り取られ、真新しい木の看板には「忘れられた食堂」と、美しい文字で書かれている。
軋む扉を開けて中に入ると、食堂の中は、昨日の夜よりもさらに活気に満ちていた。
厨房からは、すでに香ばしい匂いが漂ってくる。
テーブルには、花瓶に生けられた野の花が飾られ、窓からは柔らかな陽光が差し込んでいる。
「隼人さん、エリックさん!いらっしゃい!」
厨房の入り口から、アメリアとリリーが顔を覗かせた。
二人の顔は、期待と希望に満ち溢れ、まるで別人のようだった。
「おはよう、アメリアさん、リリー!すごいな、開店の準備、完璧じゃないか!」
隼人は感嘆の声を上げた。
「ええ!私が目を覚ますと、食堂の外壁が綺麗になっていたの!きっと、隼人さんがこの食堂を成功させたいと強く願っているからよ!」
アメリアはそう言って、隼人に深々と頭を下げた。
隼人は胸が熱くなるのを感じた。
自分の「渇望」が、単なる個人的な感情ではなく、この世界の誰かの力になっている。
この感覚こそが、彼が五五年間探し求めていたものだった。
「さあ、隼人さん!もうすぐ開店よ!最後の準備をしましょう!」
アメリアが厨房へと促した。
隼人は厨房に入り、エプロンを身につけた。
コンロには火が入り、鍋からは温かい湯気が立ち上っている。
食材は全て準備されており、いつでも調理に取り掛かれる状態だった。
「よし、じゃあ、俺は虹色芋のシチューの最後の仕上げをする。アメリアさんは、ホールで準備を頼む。リリーは、入り口の『OPEN』の看板を立ててくれるかい?」
隼人の指示は的確で、二人は迷いなくそれぞれの持ち場へと向かった。
隼人は、慣れた手つきで虹色芋のシチューを温め始めた。
昨日購入したスパイスを加え、味を調整していく。食堂中に、甘く香ばしい匂いが広がり、隼人の心も満たされていく。
「隼人さん、もうすぐよ!」
アメリアの声がホールから聞こえる。
隼人は鍋の蓋を閉め、深呼吸した。
居酒屋で多くの料理を作ってきた。だが、今日このシチューを作る感覚は、今までとは全く違っていた。これは、単なる料理ではない。
彼自身の、そしてアメリアの、この食堂への「思い」が詰まった、希望の一皿なのだ。
そして、午前十時半。
リリーが「OPEN」の看板を立てた。
食堂の扉が開き、町の人々が次々と入ってきた。
昨日コミュニティボードを見た人々や、噂を聞きつけた人々が、期待に満ちた顔で席に着く。
「いらっしゃいませ!」
アメリアとリリーが、満面の笑顔で客を出迎える。その声には、活気が満ち溢れていた。
厨房から、隼人はその光景を眺めた。満席になった食堂。賑やかな話し声。そして、温かい笑顔。
胸の奥から、じんわりと温かいものが込み上げてくる。
「隼人さん、オーダー入ったわ!虹色芋のシチュー!」
アメリアの声が、厨房に響き渡る。
隼人は、迷いなく鍋を手に取った。
丁寧にシチューを皿に盛り付け、最後に、昨日仕入れたハーブを添える。
「お待たせしました、虹色芋のシチューです!」
アメリアが、熱々のシチューを客のテーブルに運んでいく。
一口食べた客の顔に、驚きと喜びが広がった。
「美味しい!こんなに美味しいシチュー、初めて食べた!」
次々と上がる歓声に、隼人の胸は高鳴った。自分の作った料理が、こんなにも人々に喜んでもらえる。
これ以上の喜びがあるだろうか。
午前中の営業は、大盛況だった。
隼人は厨房で次々と料理を作り、アメリアとリリーはホールを駆け回り、客の注文を捌いた。
エリックは、時折厨房を覗き込み、隼人の手際の良い動きに感心したように微笑んでいた。
「隼人さん、すごいわ!こんなにたくさんの人が来てくれるなんて!」
昼のピークが過ぎ、少し落ち着いた頃、アメリアが汗を拭いながら隼人に言った。
「これも、アメリアさんの食堂への思いと、リリーの頑張り、それにエリックのサポートがあったからこそだ」
隼人は、心からそう言った。彼は、一人では何もできなかったことを知っている。
「それにしても、隼人さん、五五歳とは思えないくらい、フットワークが軽いね」
エリックがからかうように言った。
「そりゃあ、この世界の料理は、俺にとって生きがいだからな」
隼人は、満面の笑みで答えた。
「夜の部も、この調子で頑張りましょう!」
リリーも元気に言った。
隼人は、疲れを感じながらも、充実感で満たされていた。
最も輝かしい一日。この場所で、自分は再び「生きている」と感じることができた。
そして、夜。
食堂の片付けを終え、閉店の準備をしていた隼人は、ふと、あることに気づいた。
時計の針が、午後九時五十分を指している。
いつもなら、この時間は、もう現実世界に戻る準備をしている時間だ。
しかし、今日はまだ、時間切れの兆候が見られない。
「あれ……エリック、今日は、まだ戻らないのか?」
隼人が尋ねると、エリックはにやりと笑った。
「隼人さん、『心の渇望』は、この世界に留まる強さにもなるんだよ。君のこの食堂への思いが、時間を引き伸ばしたのかもしれないね」
隼人は、驚きと喜びで、エリックを見つめた。
「そうか……俺は、まだここにいられるのか!」
「ええ、隼人さん!まだまだこれからよ!『忘れられた食堂』は、始まったばかりだもの!」
アメリアも、満面の笑顔で言った。
隼人の心臓が、再び高鳴る。
この場所で、もっとたくさんの料理を作り、もっとたくさんの人々を笑顔にできる。
彼の「渇望」は、もう止まることを知らなかった。
カチリ、と時計が音を立てた。
視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。
手には何も持っていない。食堂の喧騒も、客の笑顔も、全ては消えていた。
ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。
《お疲れさま、隼人さん。今日の開店、本当に素晴らしかったね》
隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。
「ああ。最高だった。エリック、俺、もっとこの世界でやれることがある気がするんだ」
画面の向こうで、エリックは、今までで一番深い笑みを浮かべた気がした。
隼人の心の奥では、あの食堂を、そしてこの「シフトワールド」を、自分の手で変えていきたいという、新たな「渇望」が、静かに、しかし力強く、燃え上がっていた。
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