第五話 忘れられた食堂 四日目
隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。
だが、その目覚めは、もはや「ルーティン」ではなかった。
心臓が高鳴り、全身の細胞が、あの“シフトワールド”へと向かう準備を整えているかのようだ。
しかし、その現実は、あの食堂の温かい灯りの前では、もはや色褪せた背景に過ぎなかった。
ゴミ集めも、カップ麺を啜る時間も、すべてがあの食堂へと繋がる通過点に思えた。
今日は、いよいよ「忘れられた食堂」の開店前日。
明日の朝、あの場所で、自分が再び料理人として立つ。
こんなにも胸を躍らせる日が来るなんて、数ヶ月前の自分には想像もできなかった。
時間は、いつになく早く進む。
早く午前十時にならないかと、隼人は時計の針をじっと見つめていた。
九時四十分。隼人はPCの前に座り、マウスを握った。
心の中には、アメリアとリリー、そしてエリックの顔。彼らの期待に応えたい。
そして、何よりも、自分がこの世界で、もう一度輝きたい。
その確かな「渇望」が、彼の指先を震わせた。
《今日の気分はどうですか、隼人さん?》
アイコンが光る。隼人は深く息を吸い込み、決意を込めてマウスをクリックした。
午前十時。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。
目を開けると、そこはいつもの公園だった。ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。
水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。隼人は、この場所にいることが、もはや自然なことだと感じていた。
「おはよう、隼人さん」
聞き慣れた声に振り返ると、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を揺らしていた。
いつもの上品な服装だが、その笑顔は、隼人にとってかけがえのない存在となっていた。
「おはよう、エリック。いよいよ明日だな」
隼人は立ち上がり、大きく伸びをした。全身に漲る力が、彼をあの食堂へと駆り立てる。
「そうだね。隼人さんの『心の渇望』は、もう最高潮に達しているみたいだ。顔を見ればわかるよ」
エリックはそう言って、満足そうに微笑んだ。
二人は「忘れられた食堂」へと向かった。道のりは、まるで祝祭へと向かうかのように軽やかだ。
蔦に覆われた小さな木造の建物が見えてくる。
外壁の蔦はさらに刈り取られ、昨日よりもずっと明るい印象になっていた。
軋む扉を開けて中に入ると、食堂の中は開店に向けて完璧に整えられていた。
テーブルには花が飾られ、窓ガラスは磨かれ、厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。
「隼人さん、エリックさん!いらっしゃい!」
厨房の入り口から、アメリアとリリーが顔を覗かせた。二人の顔は、期待と興奮で輝いている。
「すごいな、アメリアさん、リリー!完璧じゃないか!」
隼人は感嘆の声を上げた。
「ええ!私が寝ている間に、またたくさんの人が手伝ってくれたのよ。きっと、隼人さんがこの食堂を成功させたいと強く願っているからよ!」
アメリアはそう言って、隼人に深々と頭を下げた。
隼人は胸が熱くなるのを感じた。
自分の「渇望」が、単なる思い込みではなく、実際にこの世界で良い影響を与えている。
この感覚こそが、彼が55年間探し求めていたものだった。
「それで、今日の準備は?」
エリックが尋ねた。
アメリアは、少し緊張した面持ちで言った。
「今日は、最終の食材の仕入れと、明日の開店に向けての最終確認をしたいの。特に、虹色芋のシチューの仕込みは、念入りにしたいわ」
隼人は頷いた。
「了解だ。じゃあ、俺は厨房で仕込みの手順を確認しておく。アメリアさんは、最終の仕入れリストを作ってくれ。リリーは、何か足りないものがないか、店の中をもう一度チェックしてくれ」
隼人の指示は的確で、アメリアもリリーも、迷いなくその動きに従った。
隼人は厨房に入り、コンロや調理器具の最終チェックを行った。
昨日購入したスパイスも、きちんと整理されている。
彼の頭の中では、虹色芋のシチューを作る工程が、完璧なシミュレーションとして再生されていた。
アメリアは、隼人のプロフェッショナルな動きを見て、改めて感銘を受けていた。
彼がこの食堂に来てから、すべてが劇的に好転している。
失いかけていた希望が、今、確かなものとして目の前にある。
「隼人さん、仕入れリストができたわ!」アメリアが厨房にやってきた。
「よし。じゃあ、俺とエリックで市場に行ってくる。リリーは、引き続き店のチェックを頼む」
隼人はそう言って、エリックと共に市場へ向かった。
市場は今日も活気に満ちていた。隼人は必要な食材を次々と選び、コインを払っていく。
彼の判断は迷いがなく、必要なものを素早く見極めていた。
「隼人さん、本当に手慣れてるね。まるで、昔からこの市場を知ってたみたいだ」
エリックが感心したように言った。
「そりゃあ、昔は毎日仕入れに行ってたからな。どんな店に、どんな食材があるか、だいたいわかる」
隼人は少し得意げに答えた。
彼は、現実世界での経験が、このシフトワールドでこれほど役立つとは思ってもみなかった。
食材を全て揃え、食堂に戻ると、リリーが駆け寄ってきた。
「隼人さん!アメリアさん!町の人たちが、食堂の張り紙を見て、たくさん来てくれています!」
隼人とアメリアは顔を見合わせた。食堂の入り口には、数人の町の人々が、期待に満ちた顔で立っている。
「本当に?!」
アメリアは感激のあまり、涙ぐんだ。
隼人は、町の人々の期待の目に、喜びと同時に、確かな責任感を感じていた。
「これは、ちゃんと応えないとな」
隼人はそう言うと、真っ先に厨房へと向かった。
その日の残りの時間は、明日の開店に向けての最終調整に費やされた。
隼人は、虹色芋のシチューの仕込みを始め、食堂中に香ばしい匂いが満ちていく。
アメリアは、来店した町の人々に、明日の開店の挨拶と、メニューの説明を行った。
リリーは、それを手伝いながら、嬉しそうに走り回っている。
隼人は、これほどまでに集中し、充実した時間を過ごしたことはなかった。
午後九時を過ぎた頃、食堂の準備はほぼ完璧に整った。
町の人々も、明日の開店を楽しみにしていると告げ、それぞれの家路についた。
「隼人さん……本当に、ありがとう」
アメリアは、隼人の隣で、心からの感謝を伝えた。
「貴方が来てくれなかったら、この食堂は、きっと本当に忘れ去られていたわ」
隼人は、アメリアの言葉に、胸の奥から温かいものが込み上げてくるのを感じた。
「俺も、アメリアさんや、リリー、エリックがいなかったら、この場所にたどり着けなかった。それに、俺自身が、一番救われたんだ」
エリックが、そんな二人を優しく見つめ、言った。
「さあ、隼人さん。今日はもう時間だ。明日は、いよいよ開店。最高の朝を迎えよう」
隼人は、満面の笑みで頷いた。
「ああ。最高の朝にしよう」
そして、夜。
隼人は、アメリアたちと共に、開店の成功を願っていた。その瞬間、カチリ、と時計が音を立てた。
視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。
手には何も持っていない。食堂の匂いも、町の人々の期待の視線も、全ては消えていた。
ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。
《お疲れさま、隼人さん。明日は、最高の開店になるだろうね》
隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。
「ああ。必ず、そうするさ。俺は、もうあの四畳半には戻れない」
画面の向こうで、エリックが、いつも以上に深く笑った気がした。
隼人の心の奥では、あの食堂を成功させるという「渇望」が、夜空に輝く星のように、強く、美しく燃え上がっていた。
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