第四話 忘れられた食堂 三日目
隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。
だが、その目はいつになく輝いていた。
昨日作った虹色芋のシチューの香りが、まだ鼻の奥に残っているような気がする。
3LDKのマンションの奥にある、物置のような四畳半の部屋。
段ボールとベッド、机、デスクトップPC。ここが、彼の現実。
しかし、その現実は、もはや彼を退屈させることはなかった。
ゴミ集めを終え、コンビニで買ったパンをかじりながら、隼人はPCの画面をちらりと見た。
エリックのアイコンが、早くも隼人を誘っているように見える。
五十五歳にして、こんなにも「待つ」という行為に焦がれる日が来るとは、数ヶ月前の自分には想像もできなかった。
時間は、もはや持て余すものではなく、あの食堂へ向かうための大切なツールとなっていた。
九時四十五分。隼人はPCの前に座り、マウスを握った。
心臓が高鳴る。昨日の成功、アメリアの笑顔、そして自分自身の内側から湧き上がる確かな「渇望」。
全てが、彼の指先に集中している。
《今日の気分はどうですか、隼人さん?》
アイコンが光る。隼人は深く息を吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。
午前十時。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、隼人の指は迷いなく動いた。エリックのアイコンをクリックする。
次の瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。
目を開けると、そこはいつもの公園だった。ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。
水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。
風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。
この光景は、隼人にとって、すでに最も心地よい場所となっていた。
「おはよう、隼人さん」
聞き慣れた声に振り返ると、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を揺らしていた。
いつもの上品な服装だが、その笑顔は隼人の「もうひとつの日常」の一部として、完全に溶け込んでいる。
「おはよう、エリック。今日も会えたな」
隼人は立ち上がり、背筋を伸ばした。全身に漲るエネルギーは、現実世界では感じたことのないものだった。
「もちろん。約束だからね。それに、隼人さんの『心の渇望』は、日に日に強くなっている。もう、ベンチに座ってボーッとするだけでは満足できない顔をしているよ」
エリックはそう言って、食堂のある方角を指差した。
「ああ、その通りだ。早くアメリアさんと、あの食堂に行きたい」
隼人の声には、確かな熱がこもっていた。
二人は再び「忘れられた食堂」へと向かった。道のりは、昨日よりもさらに足取りが軽い。
隼人の心は、これから始まる「再建」への期待で満ちていた。
蔦に覆われた小さな木造の建物が見えてくる。
昨日の掃除で、外壁の蔦も少しだけ刈り取られているように見えた。
軋む扉を開けて中に入ると、食堂の中は昨日よりもさらに整理整頓されていた。
テーブルには清潔な布がかけられ、床は磨かれ、埃っぽさもほとんど感じられない。
厨房からは、微かに調理の準備をするような音が聞こえてくる。
「隼人さん、エリックさん!来てくれたのね!」
厨房の入り口から、アメリアとリリーが顔を覗かせた。
アメリアの顔には、もう疲労の色はなく、生き生きとした希望に満ちている。
リリーもまた、満面の笑みを浮かべている。
「おはよう、アメリアさん、リリー。食堂、すごく綺麗になったな!」
隼人がそう言うと、アメリアは嬉しそうに頷いた。
「ええ!私が寝ている間に、また誰かが手伝ってくれたみたいで。きっと、隼人さんがこの食堂を救いたいと強く願っているからよ!」
隼人は胸が熱くなるのを感じた。自分の「渇望」が、この世界で本当に具体的な影響を与えているのだ。
「それで、今日の予定は?」エリックが尋ねた。
アメリアは、少し真剣な顔になって言った。
「今日は、メニューを正式に決めて、値段を設定したいの。それから、開店の準備として、町の皆さんに『忘れられた食堂』が再開することを知らせないと」
隼人は頷いた。
「開店を知らせるか。それは大事だな。でも、どうやって?」
リリーが元気よく手を挙げた。
「私、コミュニティボードに新しい張り紙を作ってきます!昨日、館長のエドウィンさんから、新しい紙とペンをたくさんもらったんです!」
「それは助かる!ありがとう、リリー」
隼人はリリーの積極性に感心した。
「じゃあ、隼人さん、私と一緒にメニューと値段を考えましょう。貴方の作った虹色芋のシチューは、きっとこの食堂の目玉になるわ!」
アメリアが隼人を見つめた。その目には、彼への信頼がはっきりと宿っている。
隼人は胸を張って答えた。
「任せてください。俺の経験と、アメリアさんの『忘れられた食堂』への思いを込めて、最高のメニューを作りましょう!」
隼人とアメリアは厨房の奥のテーブルに向かい、メニューのアイデアを出し合った。
隼人は居酒屋での経験から、原価計算や客層に合わせた価格設定の知識を持っていた。
アメリアは、この町の特産品や、昔から愛されてきた料理の知識が豊富だった。
二人の知識が合わさり、メニューはあっという間に形になっていく。
「虹色芋のシチューは、この町の新たな名物になるわ!」
アメリアは、完成したメニュー表を見て、感激したように言った。
隼人は、他にも何品か、この町の食材を使ったオリジナル料理を提案した。
昔の居酒屋ではできなかった、新しい料理への挑戦に、隼人の心は躍っていた。
その頃、リリーはコミュニティボードに、新しい張り紙を貼り終えていた。
そこには、カラフルな虹色芋の絵と共に、『忘れられた食堂、まもなく再開!』という文字が踊っていた。
「これで、町の皆さんもきっと喜んでくれるはず!」
リリーは満足そうに微笑んだ。
隼人たちが食堂に戻ってくると、エリックが手を叩いた。
「素晴らしい!これでメニューも決まったし、開店の告知もバッチリだね。あとは、いつオープンするかだ」
アメリアは少し考え、言った。
「そうね……明後日の朝食から、始めてみない?まずは簡単なメニューからでいいから」
「明後日!いいですね、アメリアさん!私もお手伝いします!」
リリーが興奮気味に言った。
隼人は、五十五年間で最も充実した日を過ごしていた。
開店という具体的な目標ができ、そのために自分が役立っているという感覚が、何よりも彼を喜ばせた。
そして、夜。
隼人は、アメリアとリリー、エリックと共に、翌日の仕入れの段取りを話し合っていた。
明後日の開店に向けて、やることが山積している。
しかし、そのどれもが、隼人にとっては楽しい「仕事」だった。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。
手には何も持っていない。メニュー表も、仕入れリストも、全ては消えていた。
ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。
《お疲れさま、隼人さん。いよいよ開店の準備も整ったね》
隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。
「ああ。明後日には、店が開く。楽しみで仕方ないよ」
画面の向こうで、エリックが笑った気がした。
隼人の心の奥では、あの食堂の再開を待ち望む「渇望」が、激しく燃え上がっていた。
今や、その渇望は、単なる退屈からの脱却ではなく、誰かのために尽くしたいという、確かな喜びへと変わっていた。
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