表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第三話 忘れられた食堂 二日目

 隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。

 カーテンの隙間から差し込む朝日に、昨日の食堂の埃と、アメリアの希望に満ちた顔が重なって見えた。

3LDKのマンションの奥にある、物置のような四畳半の部屋。

 今や彼の意識のほとんどは、あの“シフトワールド”にあった。


 ゴミ集めを終え、カップ麺を啜りながらも、心はもう遠くの食堂に飛んでいた。


「忘れられた食堂」をもう一度、かつての輝きを取り戻す。

 その目標が、五五歳の隼人に、これまでになかった活力を与えていた。

 時計の針は、ゆっくりと午前十時へ向かって進んでいく。

 昨日長く感じた時間が、今日は更に待ち遠しくて仕方ない。


 九時五十分。隼人はPCの前に座り、エリックのアイコンをじっと見つめる。

 その瞳には、かつてないほどの期待が宿っていた。


 《今日の気分はどうですか、隼人さん?》


 アイコンが光る。隼人は深く息を吸い込み、マウスを握りしめた。


 午前十時。


 カチリ、と時計が音を立てた瞬間、隼人の指は迷いなく動いた。エリックのアイコンをクリックする。


 次の瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。


 目を開けると、そこはいつもの公園だった。ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。

 水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。

 この光景が、今は隼人の「日常」になりつつあった。


「おはよう、隼人さん」


 聞き慣れた声に振り返ると、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を揺らしていた。

 いつもと変わらない上品な服装だが、隼人には彼の笑顔が、まるで旧友のように温かく感じられた。


「おはよう、エリック。今日もここからか」

 隼人は立ち上がり、大きく伸びをした。全身にシフトワールドの空気が染み渡るようだ。


「もちろんだよ。アイコンをクリックすれば、隼人さんは必ずここに座ってる。それがこの世界の約束だからね」

 エリックはにやりと笑った。

「それにしても、隼人さん、顔つきが変わったね。昨日の仕事、よっぽど楽しかったんだ」


 隼人は小さく頷いた。

「ああ。五五年生きてきて、こんなに夢中になったのは久しぶりだ。アメリアさんも、あの食堂も、放っておけない」


「だと思ったよ。君の『心の渇望』は、着実に強くなってる。さあ、今日も食堂へ行こうか」

 エリックが立ち上がり、隼人に向かって手を差し伸べた。


 二人は再び「忘れられた食堂」へと向かった。

 昨日とは違い、道のりは足取り軽く、隼人の心は期待に満ちていた。


 蔦に覆われた小さな木造の建物が見えてくる。

 近づくと、昨日より少しだけ、扉が綺麗になっているように見えた。


「もしかして、アメリアさんが?」

 隼人が尋ねると、エリックは肩をすくめた。


「さあ、どうだろうね。でも、この世界では、強い思いが奇跡を起こすこともあるから」

 軋む扉を開けて中に入ると、昨日とは見違えるほど、食堂の中が片付いていた。

 ひっくり返っていたテーブルや椅子は元に戻され、床に散乱していたゴミもなくなっている。

 まだ埃っぽさは残るが、確かな変化があった。


 厨房の入り口から、アメリアとリリーが顔を覗かせた。

 その顔には、昨日よりもずっと明るい希望の光が宿っている。


「隼人さん、エリックさん!来てくれたのね!」

 アメリアは駆け寄ってきて、隼人の手を両手で握りしめた。


「私が目を覚ますと、食堂がここまで片付いていたの。きっと、昨日の貴方たちの頑張りが、形になったんだわ!」


 隼人はアメリアの言葉に、胸が熱くなるのを感じた。

 本当に、自分の「心の渇望」が、この世界に影響を与えているのかもしれない。


「昨日、掃除の続きをしようって言ってたからね。俺たちも、すぐに取り掛かるつもりだったんだ」

 隼人はそう言って、アメリアに微笑みかけた。


「ありがとう……本当にありがとう!でも、今日はもっと大事なことをしないと。この食堂の要、厨房の掃除と、食材の確保よ」

 アメリアはそう言うと、厨房の奥へと案内した。


 厨房は、食堂のホール以上に荒れ果てていた。

 油で汚れたコンロ、錆びついたシンク、カビの生えた冷蔵庫。


「うわぁ……これは手強そうだな」

 隼人は思わず呟いた。


「でも、やればできるさ。隼人さん、昔の居酒屋ではどんな料理を作ってたんだい?」

 エリックが尋ねる。


「焼き鳥とか、刺身とか、煮込み料理だな。和食が得意だった。でも、この食堂は、どんな料理を出してたんだ?」

 隼人がアメリアに尋ねると、彼女は少し遠い目をした。


「昔はね、この町の特産品を使った、素朴だけど心温まる料理が人気だったの。特に、この町で採れる『虹色芋』を使ったシチューは、みんな大好きだったわ」

 アメリアは懐かしそうに語った。


「虹色芋のシチューか。美味しそうだな」

 隼人の頭の中に、昔取った杵柄で料理をするイメージが鮮やかに浮かび上がった。


「よし、決まりだ。まずは厨房をピカピカにして、それから虹色芋を探しに行こう!」

 隼人は、まるで昔の自分に戻ったかのように、活き活きと指示を出した。


 アメリアは、そんな隼人の姿を見て、再び希望の光を宿した。


「ありがとう、隼人さん!貴方と一緒なら、きっとこの食堂はまた、輝きを取り戻せるわ!」

 エリックは、そんな二人を満足そうに見つめ、隼人の肩をポンと叩いた。


「さあ、じゃあ早速、隼人シェフの腕の見せ所だね!」

 隼人は、昨日手に入れたコインの袋が、ポケットの中でずっしりと重いことを確認した。

 このコインで、掃除道具や、もしかしたら最初の食材も買えるかもしれない。


 三人は協力して、厨房の掃除に取り掛かった。油汚れを落とし、錆を磨き、カビを除去する。

 隼人の指示は的確で、アメリアもリリーも、その動きに迷いなく従った。


「はぁ、はぁ……だいぶ綺麗になったな」

 数時間後、隼人は汗を拭いながら、見違えるように綺麗になった厨房を見渡した。


「ええ、本当に!こんなに綺麗になったの、いつぶりかしら……」

 アメリアも、満足そうに微笑んだ。


「じゃあ、次は虹色芋のシチューの材料集めだね。リリー、この町の特産品が手に入る市場って、どこにあるか知ってるかい?」

 隼人が尋ねると、リリーは元気よく手を挙げた。


「はい!町の東にある『恵みの市場』に行けば、きっと手に入ります!でも、虹色芋は、ちょっと珍しいから、いつも置いてあるとは限りませんよ」


「そうか。じゃあ、まずはそこに行ってみよう。アメリアさんは、店に残っててくれるかい? 俺とエリックとリリーで、市場に行ってくる」

 隼人はそう提案した。


 アメリアは頷き、再び希望に満ちた顔で二人を見送った。

「ありがとう!頼んだわ、隼人さん!」


 三人は市場へ向かった。隼人の心は、新しい料理への期待で満ちていた。

 五五歳の自分が、また誰かのために料理を作る。

 そんな日が来るなんて、現実世界にいた頃は想像もできなかった。


「恵みの市場」は、昨日歩いた公園の近くにあり、活気で溢れていた。

 色とりどりの野菜や果物が並び、香ばしいパンの匂いが漂ってくる。

 人々の話し声や、店主の威勢の良い声が飛び交い、隼人はその賑わいに、心地よい高揚感を感じていた。


「すごいな、この市場……」

 隼人は感動したように呟いた。


「でしょう? シフトワールドには、いろんな場所があるんだよ。隼人さんが知りたいと思えば、どんな場所でも探せる」

 エリックがにやりと笑った。


「さあ、虹色芋を探しましょう!」

 リリーが先頭に立って、市場の中を軽快に進んでいく。


 隼人は市場を歩きながら、ふと、あることに気づいた。

 この町の誰もが、生き生きとして、それぞれが役割を持っているように見える。

 そして、自分も今、その中の一員として、目的を持って動いている。


「虹色芋、虹色芋っと……」

 リリーが物色している間、隼人はふと、ある店の前で足を止めた。

 そこには、見慣れない様々なスパイスが並べられていた。

 現実世界では見たことのない色や香りのスパイスに、隼人は興味津々で目を凝らした。


「これは……もし、あのシチューに入れたら、もっと美味しくなるんじゃないか?」

 隼人の料理人としての血が、久しぶりに騒ぎ始めた。


「隼人さん、何か気になるものがあった?」

 エリックが後ろから声をかける。


「ああ、このスパイスだ。シチューに合うんじゃないかと思って」

 隼人がそう言うと、店主がにこやかに話しかけてきた。

「おや、珍しいね。うちの店は、あまり観光客には知られていないんだが。お兄さん、もしかして料理人かい?」


 隼人は少し照れながら答えた。

「まあ、昔はね。今、食堂を再建する手伝いをしてるんだ」


「ほう、それは素晴らしい!この町の料理が、また食べられるようになるのは嬉しいね」

 店主はそう言うと、いくつかのスパイスを隼人に勧めてきた。


「この『太陽の実』は、どんな料理にも深みと温かさを与えてくれる。そして、『月の葉』は、食材の甘みを引き出す。虹色芋のシチューには、最高に合うだろうね」


 隼人は目を輝かせながら、スパイスの説明を聞いた。

 コインの袋をポケットから取り出し、躊躇なくいくつか購入した。


「よし、これでシチューがもっと美味しくなるぞ!」

 隼人は満足げに微笑んだ。


 その後、リリーが無事に虹色芋を見つけ出し、三人はたくさんの食材を抱えて食堂へと戻った。


 そして、夜。

 食堂の厨房で、隼人は虹色芋のシチューの試作に没頭していた。

 アメリアが不安そうに見守る中、隼人は手に入れたスパイスを巧みに使いこなし、煮込みの香りが食堂中に満ちていく。


「すごい香りだわ……!」

 アメリアが驚きの声を上げた。


 一口味見をすると、アメリアの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「美味しい……!こんなに美味しいシチュー、食べたことないわ……隼人さん、貴方なら、きっとこの食堂を救える!」


 隼人も、自分の作った料理を味わい、確かな手応えを感じていた。

 五五年間培ってきた経験が、このシフトワールドで、再び花開こうとしている。


 その瞬間、カチリ、と時計が音を立てた。

 視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。

 手には何も持っていない。食堂の香りも、アメリアの涙も、全ては消えていた。


 ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。


 《お疲れさま、隼人さん。今日の試作、成功したみたいだね》


 隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。

「ああ。最高のシチューができたよ。次は、いよいよ開店だな」


 画面の向こうで、エリックが笑った気がした。


 隼人の心の奥では、あの食堂を再び満席にするという「渇望」が、激しく燃え上がっていた。

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。


「面白い」「続きが気になる」、と思って頂けたら、


ブックマークや★評価をつけていただけますと大変、嬉しいです。


よろしければ、ご協力頂けると、幸いです。


引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ