第三話 忘れられた食堂 二日目
隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む朝日に、昨日の食堂の埃と、アメリアの希望に満ちた顔が重なって見えた。
3LDKのマンションの奥にある、物置のような四畳半の部屋。
今や彼の意識のほとんどは、あの“シフトワールド”にあった。
ゴミ集めを終え、カップ麺を啜りながらも、心はもう遠くの食堂に飛んでいた。
「忘れられた食堂」をもう一度、かつての輝きを取り戻す。
その目標が、五五歳の隼人に、これまでになかった活力を与えていた。
時計の針は、ゆっくりと午前十時へ向かって進んでいく。
昨日長く感じた時間が、今日は更に待ち遠しくて仕方ない。
九時五十分。隼人はPCの前に座り、エリックのアイコンをじっと見つめる。
その瞳には、かつてないほどの期待が宿っていた。
《今日の気分はどうですか、隼人さん?》
アイコンが光る。隼人は深く息を吸い込み、マウスを握りしめた。
午前十時。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、隼人の指は迷いなく動いた。エリックのアイコンをクリックする。
次の瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。
目を開けると、そこはいつもの公園だった。ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。
水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。
この光景が、今は隼人の「日常」になりつつあった。
「おはよう、隼人さん」
聞き慣れた声に振り返ると、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を揺らしていた。
いつもと変わらない上品な服装だが、隼人には彼の笑顔が、まるで旧友のように温かく感じられた。
「おはよう、エリック。今日もここからか」
隼人は立ち上がり、大きく伸びをした。全身にシフトワールドの空気が染み渡るようだ。
「もちろんだよ。アイコンをクリックすれば、隼人さんは必ずここに座ってる。それがこの世界の約束だからね」
エリックはにやりと笑った。
「それにしても、隼人さん、顔つきが変わったね。昨日の仕事、よっぽど楽しかったんだ」
隼人は小さく頷いた。
「ああ。五五年生きてきて、こんなに夢中になったのは久しぶりだ。アメリアさんも、あの食堂も、放っておけない」
「だと思ったよ。君の『心の渇望』は、着実に強くなってる。さあ、今日も食堂へ行こうか」
エリックが立ち上がり、隼人に向かって手を差し伸べた。
二人は再び「忘れられた食堂」へと向かった。
昨日とは違い、道のりは足取り軽く、隼人の心は期待に満ちていた。
蔦に覆われた小さな木造の建物が見えてくる。
近づくと、昨日より少しだけ、扉が綺麗になっているように見えた。
「もしかして、アメリアさんが?」
隼人が尋ねると、エリックは肩をすくめた。
「さあ、どうだろうね。でも、この世界では、強い思いが奇跡を起こすこともあるから」
軋む扉を開けて中に入ると、昨日とは見違えるほど、食堂の中が片付いていた。
ひっくり返っていたテーブルや椅子は元に戻され、床に散乱していたゴミもなくなっている。
まだ埃っぽさは残るが、確かな変化があった。
厨房の入り口から、アメリアとリリーが顔を覗かせた。
その顔には、昨日よりもずっと明るい希望の光が宿っている。
「隼人さん、エリックさん!来てくれたのね!」
アメリアは駆け寄ってきて、隼人の手を両手で握りしめた。
「私が目を覚ますと、食堂がここまで片付いていたの。きっと、昨日の貴方たちの頑張りが、形になったんだわ!」
隼人はアメリアの言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
本当に、自分の「心の渇望」が、この世界に影響を与えているのかもしれない。
「昨日、掃除の続きをしようって言ってたからね。俺たちも、すぐに取り掛かるつもりだったんだ」
隼人はそう言って、アメリアに微笑みかけた。
「ありがとう……本当にありがとう!でも、今日はもっと大事なことをしないと。この食堂の要、厨房の掃除と、食材の確保よ」
アメリアはそう言うと、厨房の奥へと案内した。
厨房は、食堂のホール以上に荒れ果てていた。
油で汚れたコンロ、錆びついたシンク、カビの生えた冷蔵庫。
「うわぁ……これは手強そうだな」
隼人は思わず呟いた。
「でも、やればできるさ。隼人さん、昔の居酒屋ではどんな料理を作ってたんだい?」
エリックが尋ねる。
「焼き鳥とか、刺身とか、煮込み料理だな。和食が得意だった。でも、この食堂は、どんな料理を出してたんだ?」
隼人がアメリアに尋ねると、彼女は少し遠い目をした。
「昔はね、この町の特産品を使った、素朴だけど心温まる料理が人気だったの。特に、この町で採れる『虹色芋』を使ったシチューは、みんな大好きだったわ」
アメリアは懐かしそうに語った。
「虹色芋のシチューか。美味しそうだな」
隼人の頭の中に、昔取った杵柄で料理をするイメージが鮮やかに浮かび上がった。
「よし、決まりだ。まずは厨房をピカピカにして、それから虹色芋を探しに行こう!」
隼人は、まるで昔の自分に戻ったかのように、活き活きと指示を出した。
アメリアは、そんな隼人の姿を見て、再び希望の光を宿した。
「ありがとう、隼人さん!貴方と一緒なら、きっとこの食堂はまた、輝きを取り戻せるわ!」
エリックは、そんな二人を満足そうに見つめ、隼人の肩をポンと叩いた。
「さあ、じゃあ早速、隼人シェフの腕の見せ所だね!」
隼人は、昨日手に入れたコインの袋が、ポケットの中でずっしりと重いことを確認した。
このコインで、掃除道具や、もしかしたら最初の食材も買えるかもしれない。
三人は協力して、厨房の掃除に取り掛かった。油汚れを落とし、錆を磨き、カビを除去する。
隼人の指示は的確で、アメリアもリリーも、その動きに迷いなく従った。
「はぁ、はぁ……だいぶ綺麗になったな」
数時間後、隼人は汗を拭いながら、見違えるように綺麗になった厨房を見渡した。
「ええ、本当に!こんなに綺麗になったの、いつぶりかしら……」
アメリアも、満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、次は虹色芋のシチューの材料集めだね。リリー、この町の特産品が手に入る市場って、どこにあるか知ってるかい?」
隼人が尋ねると、リリーは元気よく手を挙げた。
「はい!町の東にある『恵みの市場』に行けば、きっと手に入ります!でも、虹色芋は、ちょっと珍しいから、いつも置いてあるとは限りませんよ」
「そうか。じゃあ、まずはそこに行ってみよう。アメリアさんは、店に残っててくれるかい? 俺とエリックとリリーで、市場に行ってくる」
隼人はそう提案した。
アメリアは頷き、再び希望に満ちた顔で二人を見送った。
「ありがとう!頼んだわ、隼人さん!」
三人は市場へ向かった。隼人の心は、新しい料理への期待で満ちていた。
五五歳の自分が、また誰かのために料理を作る。
そんな日が来るなんて、現実世界にいた頃は想像もできなかった。
「恵みの市場」は、昨日歩いた公園の近くにあり、活気で溢れていた。
色とりどりの野菜や果物が並び、香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
人々の話し声や、店主の威勢の良い声が飛び交い、隼人はその賑わいに、心地よい高揚感を感じていた。
「すごいな、この市場……」
隼人は感動したように呟いた。
「でしょう? シフトワールドには、いろんな場所があるんだよ。隼人さんが知りたいと思えば、どんな場所でも探せる」
エリックがにやりと笑った。
「さあ、虹色芋を探しましょう!」
リリーが先頭に立って、市場の中を軽快に進んでいく。
隼人は市場を歩きながら、ふと、あることに気づいた。
この町の誰もが、生き生きとして、それぞれが役割を持っているように見える。
そして、自分も今、その中の一員として、目的を持って動いている。
「虹色芋、虹色芋っと……」
リリーが物色している間、隼人はふと、ある店の前で足を止めた。
そこには、見慣れない様々なスパイスが並べられていた。
現実世界では見たことのない色や香りのスパイスに、隼人は興味津々で目を凝らした。
「これは……もし、あのシチューに入れたら、もっと美味しくなるんじゃないか?」
隼人の料理人としての血が、久しぶりに騒ぎ始めた。
「隼人さん、何か気になるものがあった?」
エリックが後ろから声をかける。
「ああ、このスパイスだ。シチューに合うんじゃないかと思って」
隼人がそう言うと、店主がにこやかに話しかけてきた。
「おや、珍しいね。うちの店は、あまり観光客には知られていないんだが。お兄さん、もしかして料理人かい?」
隼人は少し照れながら答えた。
「まあ、昔はね。今、食堂を再建する手伝いをしてるんだ」
「ほう、それは素晴らしい!この町の料理が、また食べられるようになるのは嬉しいね」
店主はそう言うと、いくつかのスパイスを隼人に勧めてきた。
「この『太陽の実』は、どんな料理にも深みと温かさを与えてくれる。そして、『月の葉』は、食材の甘みを引き出す。虹色芋のシチューには、最高に合うだろうね」
隼人は目を輝かせながら、スパイスの説明を聞いた。
コインの袋をポケットから取り出し、躊躇なくいくつか購入した。
「よし、これでシチューがもっと美味しくなるぞ!」
隼人は満足げに微笑んだ。
その後、リリーが無事に虹色芋を見つけ出し、三人はたくさんの食材を抱えて食堂へと戻った。
そして、夜。
食堂の厨房で、隼人は虹色芋のシチューの試作に没頭していた。
アメリアが不安そうに見守る中、隼人は手に入れたスパイスを巧みに使いこなし、煮込みの香りが食堂中に満ちていく。
「すごい香りだわ……!」
アメリアが驚きの声を上げた。
一口味見をすると、アメリアの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「美味しい……!こんなに美味しいシチュー、食べたことないわ……隼人さん、貴方なら、きっとこの食堂を救える!」
隼人も、自分の作った料理を味わい、確かな手応えを感じていた。
五五年間培ってきた経験が、このシフトワールドで、再び花開こうとしている。
その瞬間、カチリ、と時計が音を立てた。
視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。
手には何も持っていない。食堂の香りも、アメリアの涙も、全ては消えていた。
ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。
《お疲れさま、隼人さん。今日の試作、成功したみたいだね》
隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。
「ああ。最高のシチューができたよ。次は、いよいよ開店だな」
画面の向こうで、エリックが笑った気がした。
隼人の心の奥では、あの食堂を再び満席にするという「渇望」が、激しく燃え上がっていた。
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