第二話 忘れられた食堂 一日目
隼人はいつもと同じ時間に目を覚ました。
起き上がると、いつものように家中のゴミを集める。
台所、洗面台、各部屋のゴミ箱。今日は燃えないゴミの日。
家族は出勤しており、部屋にいるのは自分だけ。
だが、昨日の夜から、その世界の認識が少しだけ変わっていた。
いつもと変わらない光景なのに、なぜか世界が鮮やかに見える。
頭の中には、エリックと歩いた町並み、噴水の水しぶき、そして白い猫の毛の感触が残っていた。
腹が空いても、いつものカップ麺を手に取る気分にはなれなかった。
昨夜もらったパンとお酒が脳裏をかすめる。
本当に美味しかったのだろうか?
体験は鮮明なのに、五感の一部だけが取り残されたような、奇妙な感覚。
机の上の白い毛をそっと指でなぞる。これは、夢じゃなかった証拠。
「……長いな、十時まで」
壁の時計の針が、普段よりもずっとゆっくり進んでいるように感じられた。
昨日までは、無職の自分にとって時間は無限にあり、持て余すものだった。
だが今は、まるでログイン時間を待つゲーマーのように、時計の針をじっと見つめている自分がいた。
九時半を過ぎた頃から、隼人はPCの前に座り、エリックのアイコンを凝視し始めた。
《今日の気分はどうですか、隼人さん?》
アイコンが光り、いつもの定型文が表示される。
まるで、昨日の続きがすぐに始まるのを促しているようだった。
「気分は最高だよ」
隼人はつぶやきながら、キーボードを叩いた。
午前十時。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、隼人の指が動いた。
マウスを握り、エリックのアイコンをクリックする。
次の瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。
目を開けると、そこは昨日と同じ、見覚えのある公園だった。
ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。
風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。
昨日と同じ光景、同じ場所。それが隼人には、とてつもなく新鮮に感じられた。
「……昨日と…同じとこ?」
隼人は小さく笑った。体が覚えている。ベンチの硬さ、風の匂い、噴水の音。
昨日の経験が確かにここにある。
「おはよう、隼人さん」
背後から、聞き慣れた声が聞こえた。
振り向くと、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を軽く揺らしていた。
昨日と変わらない上品な服装だが、隼人にはそれがなぜか、より自然に見えた。
「おはよう、エリック。まさか本当に、ここから始まるんだな」
「言ったでしょ? アイコンをクリックすれば、隼人さんは必ずここに座ってるって。これ『シフトワールド』の基本的な仕組みの一つだよ」
エリックはにやりと笑った。
「それで、昨日は楽しめた?」
「ああ。楽しかったよ。まさか、あんなことになるなんてな」
隼人はポケットに手を突っ込んだ。昨日入っていたはずの、通貨代わりのコインはなかった。
手ぶらで戻ったのだから当然だ。
「……そういえば、パンと酒はどうなったんだ?」
隼人が尋ねると、エリックは肩をすくめた。
「残念だけど、シフトワールドで手に入れたものは、現実世界には持ち帰れない。逆も同じだ。だから、隼人さんが持っていたはずの財布やスマホも、こっちにはないでしょ?」
隼人はハッとして、自分の服装を確認する。いつもと変わらないTシャツとジーンズ。
財布もスマホも確かに持っていない。
「……じゃあ、あの猫の毛は?」
「あれは、隼人さんが体験したことの『証拠』みたいなもの。シフトワールドの記憶が、少しだけ物質化したものだよ。珍しいケースだけどね」
エリックはそう言って、噴水の水面に目を向けた。
「でも、心配しなくても大丈夫。シフトワールドは、隼人さんの精神活動と連動してる。一度手に入れたものは、たとえ消えても、また手に入れる機会は用意される」
「どういうことだ?」
「まあ、そのうちわかるよ」
エリックは立ち上がり、隼人に向かって手を差し出した。
「さあ、今日はどうする? またベンチでボーッとしててもいいけど、ぼーっとしてると、昨日みたいに誰かが話しかけてくるかもね」
隼人はエリックの手を取り、立ち上がった。昨日の老婆の顔が頭に浮かぶ。
「いや、いいや。今日は、俺から何か探したい。この世界のことをもっと知りたいんだ」
「おお、意欲的になったね。それなら、ちょうどいい」
エリックは、噴水の向こうにある、見慣れない大きな時計台を指差した。
「あの時計台の近くに、この世界の情報を集めている場所があるんだ。まずはそこに行ってみようか」
「情報?」
「そう。ここは常に変化している。過去の出来事や、今起きていることを知っておくのは、隼人さんにとってきっと役に立つ」
隼人は時計台を見上げた。昨日は気づかなかった巨大な建物が、そこに堂々とそびえ立っている。
「変化……か」
少しだけ、背筋が伸びるのを感じた。四畳半にいた自分とは違う自分が、ここにいる。
「じゃあ、行こうか、エリック」
「うん」
二人が歩き出すと、昨日と同じように、風が心地よく頬を撫でていった。
この世界の空気は、いつも隼人の心を軽くするようだった。
時計台へ向かう途中、エリックがふと立ち止まった。
「あ、そうだ、隼人さん。昨日、猫探しを手伝ったお礼、ちゃんと使ってくれたかな?」
「お礼?」
「そう。通貨の入った袋だよ」
隼人は、昨日貰ったはずのコインの袋を思い出した。結局使わずに終わってしまったものだ。
「ああ、あれな……あれ、エリックがくれたよな、何で、猫のお礼なんだ?」
「まあ、いいじゃない、細かい事は」
「使った?」
「いや、戻った時には無くなってたから、使えなかったよ」
「ふーん……」
エリックは少し考える素振りを見せ、再び歩き出した。
「まあ、いっか。どうせまた必要になるから」
その言葉に、隼人は僅かな違和感を覚えた。
(エリックは、本当に全てを知っているのだろうか?彼が語る『シフトワールド』のルールは、一体誰が決めているのだろう?)
そんな疑問が、隼人の心の奥に、小さな波紋を広げ始めた。
時計台の入り口には、古めかしい木製の看板がかかっていた。
そこには、複雑な模様と共に「記録の館」と書かれている。
「ここが、この世界の図書館みたいな場所さ」
エリックが説明する。
重厚な木の扉を開けると、中は薄暗く、天井まで届くほど高い、本棚が何十と並んでいた。
埃っぽい匂いと、古い紙の匂いが混じり合う。
奥の方には、誰かが書き物をしているような、カリカリというペン先が、紙を擦る音が聞こえた。
「ここには、この世界のありとあらゆる情報が詰まってる。町の歴史、人々の暮らし、そして時々、未来に起こるかもしれないことまでね」
エリックは低い声で囁いた。
「未来……?」
隼人は驚いて聞き返す。
「そう。でも、未来の情報はあくまで可能性の一つに過ぎない。現実世界に比べると、ここはまだ不確定な要素が多いから」
エリックは、本棚の間を縫うように奥へ進んでいく。隼人もそれに続いた。
奥のテーブルには、小さなランプの明かりの下で、一人の老人が分厚い本に何事かを書き込んでいた。
白くて長い髭を蓄え、丸い眼鏡の奥の目は、本の文字をじっと追っている。
「館長、こんにちは。今日も熱心だね」
エリックが声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。
「おお、エリックではないか。珍しい客人を連れてきたな」
老人は隼人に目を向けた。その目は、隼人の心の奥まで見透かすような、不思議な光を宿していた。
「この方は……まだ、こちらの世界の香りが薄いな」
老人はそう言うと、静かに微笑んだ。
「私はこの記録の館の館長、エドウィンだ。何か知りたいことがあるかね?」
隼人は、緊張しながら老人の言葉を聞いていた。
「ええと……この『シフトワールド』について、もう少し詳しく知りたいんです」
隼人が答えると、エドウィンはゆっくりと頷いた。
「ほう。それはなかなか、面白い質問だ」
エドウィンは自分の座っていた椅子をもう一つ隼人に勧めた。隼人は促されるままに座った。
エリックは二人の会話を邪魔しないように、少し離れた本棚の陰に立っている。
「この世界はな、隼人。お前さんのような者が、現実世界の日常から『シフト』するために存在する。
現実での心の渇望が、ここに扉を開くのだ」
「心の渇望……」
隼人は、自分がエリックに打ち明けた「退屈で、この生活から抜け出したい」という言葉を思い出した。
「そうじゃ。お前さんは、まだその『渇望』の力が弱い。だから、一日のうちでここにいられる時間も短い。だが、もしお前さんがこの世界での経験を重ね、その渇望を強くしていけば……」
エドウィンは、意味深な目で隼人を見つめた。
「……どうなるんですか?」
隼人は、思わず身を乗り出した。
「さあて。それは、お前さん自身がこの世界で何を見つけ、何を選ぶかによって変わる。この世界は、お前さんの心の写し鏡のようなものだからな」
エドウィンはそう言うと、テーブルの上の小さな鐘をチリンと鳴らした。
すると、どこからともなく、可愛らしいメイド服を着た少女が姿を現した。
「館長、何かご用でしょうか?」
「うむ。この隼人という客人に、この館の仕組みを簡単に説明してやってくれ。そして、この世界の最新の記録も頼む」
「かしこまりました」
少女は一礼すると、隼人とエリックに微笑みかけた。
「隼人さん、エリックさん、ようこそ記録の館へ。私はこの館の案内役、リリーと申します。さあ、私についてきてください」
リリーは、小さな足で軽快に本棚の奥へと進んでいく。
隼人とエリックは顔を見合わせ、その後ろを追った。
新たな情報、新たな出会い。隼人の心臓が、久しぶりに高鳴るのを感じた。
この“シフトワールド”には、自分が知るべきことが、まだまだたくさんある。
そして、エドウィンの「心の渇望を強くしていけば……」という言葉が、隼人の胸の奥で静かに響き続けていた。
リリーは隼人とエリックを連れて、記録の館の奥へと進んでいった。
天井まで届く本棚の合間を抜け、奥まった一角に着くと、そこには壁一面に様々な、紙が貼り付けられた掲示板があった。
「こちらは“コミュニティボード”といって、この町で起きていることや、人々が助けを求めていることが書かれています。シフトワールドの最新の記録、ということでしたら、こちらが一番早く更新されますよ」
リリーはにこやかに説明した。
隼人は掲示板に近づき、貼られた紙の数々を眺めた。
手書きのもの、印刷されたもの、中には絵が描かれたものもある。
「行方不明のペット」という張り紙は、昨日助けた猫のことを思い出させた。
他にも「花祭りの準備手伝い募集」や、「迷子の魂の帰還場所探し」など、現実世界では見かけないような内容も混じっている。
「館長のエドウィンさんが言っていた『心の渇望を強くしていけば……』って、こういうことなのかな」
隼人は独り言のように呟いた。五五年間生きてきて、仕事は失い、日常は退屈に埋もれていた。
そんな自分が、この世界で何を見つけられるのだろう。
昔、居酒屋で働いていた頃は、客と話したり、忙しく動き回ったりして、
確かに「誰かの役に立っている」と感じる瞬間があった。
あの頃の活気が、今の自分にはない。
「隼人さん、何か気になるものはあった?」
エリックが隣で首を傾げた。
隼人は掲示板の端に貼られた、少し古びた一枚の紙に目が留まった。
『ー“忘れられた食堂”再建の手伝い募集ー
この町のはずれにある食堂が、かつての賑わいを失い、忘れ去られようとしています。
腕に自信のある料理人、または人と接するのが好きな方、力を貸してください。
美味しい料理と温かい笑顔で、食堂に再び光を灯しましょう。
詳細は食堂の主人、アメリアまで』
「忘れられた食堂……か」
隼人はその張り紙を指でなぞった。居酒屋で長年働いてきた経験が、微かに疼くのを感じた。
料理の腕には自信があったし、何より人と話すのが好きだった。
あの四畳半に閉じこもっていた自分には、一番欠けていたものだ。
「これ、面白そうじゃない?隼人さん、居酒屋で働いてたんでしょ?」
エリックが隼人の顔を覗き込む。
「ああ、まあな。でも、食堂って……俺は料理人ってわけじゃないんだが」
「きっと、腕に自信がなくても、隼人さんの持ってる『人と接する力』が必要とされるかも。それに、アメリアっていう人がオーナーみたいだし、まずは話を聞きに行ってみるのがいいんじゃないですか?」
リリーもまた、瞳を輝かせながら言った。
隼人は再び張り紙を見つめた。五五歳。
この年齢で、現実世界では新しい仕事を見つけるのも容易ではない。
ましてや、自分のやりたいことなど。
だが、この“シフトワールド”なら、何かが違うかもしれない。
心の奥底に、久しぶりに熱いものが灯るのを感じた。
「……よし。行ってみよう」
隼人は迷いなく答えた。
「やった! じゃあ、案内しますね!」
リリーは嬉しそうに駆け出した。
リリーの案内で、三人は町の外れへと向かった。
石畳の道をしばらく歩くと、町の賑やかさとは裏腹に、人気のない路地へと入っていく。
その先に、確かに忘れ去られたかのような、ひっそりとした建物が見えてきた。
「ここが、『忘れられた食堂』だよ」
リリーが指差した先には、蔦に覆われた小さな木造の建物があった。
窓は埃まみれで、扉は錆びついている。
「本当に、忘れ去られてるな……」
隼人は思わず呟いた。
「でも、奥には微かに明かりが見えるよ」
エリックが指差す。
近づくと、確かに建物の奥から、微かな光が漏れているのが見えた。
軋む扉を開けて中に入ると、そこは薄暗く、埃っぽい空間だった。
テーブルや椅子はひっくり返り、蜘蛛の巣が張っている。
かつて食堂だった面影はかろうじて残っているが、活気は微塵もない。
「誰か、いるの?」
隼人が声をかけると、奥から、ガタッと音がした。
薄暗い厨房の入り口から、一人の女性が姿を現した。年齢は隼人と同じくらいだろうか。
長い髪はまとめられ、エプロン姿。その顔には疲労の色が濃く、目がかすかに赤く腫れている。
「……貴方たちが、来てくれたの?」
女性の声は、か細く震えていた。
「私、アメリアです。『忘れられた食堂』の主人よ。まさか、本当に誰か来てくれるなんて……」
そう言うと、力なくその場に座り込んだ。
隼人は、彼女の様子から、この食堂が抱える問題が想像以上に深刻であることを悟った。
「あの、大丈夫ですか?」
隼人が心配して声をかけると、エリックがアメリアにそっと手を差し伸べた。
「アメリアさん、焦らなくても大丈夫ですよ。まずは、何があったのか、聞かせてもらえますか?」
顔を上げ、涙を拭った。
「ありがとう……実は、この食堂は、少し前までこの町の人たちの憩いの場だったの。でも、新しい『大通り商店街』ができてから、みんなそっちに流れちゃって……お客さんは来なくなり、従業員もみんな辞めてしまって」
彼女は、力なく食堂を見渡した。
「今は、私一人で細々と開けているだけ。でも、もう食材を仕入れるお金も、店を掃除する気力も、ほとんど残ってないの」
アメリアはそう言うと、再び俯いた。
隼人は、アメリアの言葉に胸が締め付けられるような思いがした。
かつて自分が働いていた居酒屋も、もし客足が遠のけば、同じような末路を辿ったかもしれない。
五五歳という年齢で、職を失い、絶望しているアメリアの姿は、今の自分の延長線上にある姿のようにも思えた。
「俺に、何かできることはありませんか?」
隼人は、心の底からそう尋ねた。彼の「渇望」が、ここに来て明確な形を取り始めた。
それは、ただ退屈から逃れるだけでなく、「誰かの役に立ちたい」という、確かな願いだった。
アメリアは隼人を見上げ、その目に微かな希望の光が灯った。
「貴方が……手伝ってくれるの?」
「はい。俺、昔居酒屋で働いてました。料理の腕も、接客の経験もあります。この食堂、もう一度、活気を取り戻しませんか?」
隼人は、力強く言った。自分自身の言葉が、この世界で初めて、確かな重みを持ったように感じられた。
エリックが隼人の肩を叩き、にやりと笑った。
「よし、決まりだね。じゃあ、まずはこの食堂を掃除して、それから仕入れだ。隼人さん、コインの袋、持ってる?」
隼人はハッとして、ポケットに手を入れた。
そこには、昨日までなかったはずの、ずっしりとした金属のコインが入った袋があった。
「……ある。どうして?」
「シフトワールドではね、隼人さんの『心の渇望』が強くなると、必要なものが自然と手に入るんだ。これは、隼人さんがこの食堂を救いたいと強く願った証だよ」
エリックはそう言って、再びにやりと笑った。
隼人はコインの袋を握りしめ、食堂を見渡した。
埃まみれの床も、ひっくり返った椅子も、今はもう絶望の象徴ではなかった。
それは、これから自分が取り戻すべき、未来の光景に思えた。
「じゃあ、さっそく、始めましょうか!」
リリーも張り切って言った。
三人の声が、薄暗い食堂に響き渡る。
アメリアはゆっくりと立ち上がり、その目に、確かな希望の輝きを宿していた。
そして、夜。
食堂の掃除を終え、簡単な食事を済ませた隼人は、充実感とともに空を見上げていた。
今日の仕事は、本当に楽しかった。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。
手には何も持っていない。コインも、食堂の鍵も、アメリアの笑顔も、全ては消えていた。
ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。
《お疲れさま、隼人さん。今日の仕事は、楽しかった?》
隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。
「ああ、最高だったよ」
画面の向こうで、エリックが笑った気がした。
そして、隼人の心の奥では、もう一度、あの食堂に立つことを待ち望む、熱い「渇望」が燃え上がっていた。
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