揺れる家
……おっと、また地震だ。しかし、慌てふためくことはない。さすが地震大国と言われるだけあって、免疫がある。もう――
「もう嫌!」
もう、家族全員が地震に慣れていると思っていたが、妻は違うようだ。いや、慣れたからこそ、嫌気が差したのだ。おれはテーブルの上を見渡し、息子の皿の上が空になっていることを確認すると、息子に部屋に行くように目で合図した。
「嫌! 嫌! 嫌あああ!」
また始まった。息子は状況を察したようで、そっと椅子から降りた。無言でリビングを去る息子の背中に向かって、おれは「歯を磨くのを忘れずなよ」と声を掛けた。
妻に視線を向けると、彼女はテーブルに両肘をついて、手で顔を覆っていた。体が震えているように見えるが、それが未だ続く地震のせいかどうかはわからない。
「もう限界よ……こんな家、もう嫌……」
そう言うが、自分がどうしたいのか、いつも具体的なことを言わないのが困ったところだ。そのくせ、こちらが案を出すと遠回しに否定してくる。
「なんで私たちばっかり……こんな目に……」
駅からそう遠く離れていない丘の上に建つ一軒家を購入したおれたちだったが、どうやらこの家はいくつものプレートが折り重なる地点に位置しているらしく、頻繁に地震が起こるのだ。
いや、そんなこと有り得ないだろうと笑えたのは購入前。不動産屋が「そのぉ、よく揺れるんですよ……この家……地震で……」と義務なのだろう、嫌々ながら説明していた時だ。
まったく気にせず、安さと交通の便の良さに引かれて購入した。この家を購入することには妻も賛成していた。妻は前に住んでいた場所の近所付き合いに疲れていた。ここの左右は空き地であり、丘を降りて少し歩かなければ住宅はないから、「気楽に過ごせそうね」と妻は笑っていた。
住み始めると実際に地震が頻発し、驚いた。「まあ、線路沿いの家よりはマシよね」と最初は寛大な心を見せていた妻も、今ではこのようになってしまった。
「私は! 本当は嫌な予感がしてたのよ! でも、あなたが人の忠告も聞かずに、ぐいぐい話を進めるからぁ!」
忠告というのは、購入前に妻がボソッと言った「でも大丈夫かしらぁ」のことだろう。おれがそんな一言を覚えているのは、それが妻のやり口だと知っていたからだ。「だからあの時、私、言ったじゃない」と後から言って、こちらだけが悪いみたいに言うのだ。ただし、それを指摘すると怒るので、口に出すことはないが。まあ、したところで今、妻の耳に届きはしないだろう。
「嫌い! こんな家嫌い! 食器だって自由にできないじゃない!」
妻が皿を壁に向かって投げつけた。木製の皿は軽い音を立てて床に落ち、少し転がりひっくり返った。
震度にはばらつきがあり、強く揺れることは稀だ。しかし、毎日揺れるから壊れやすいものは購入できない。前の家から持ってきた皿は日に日に数を減らしている。
この家に、音を上げ引っ越した前の住人の置き土産なのか、家具はすべて備え付けだ。それぞれに粘着シートや突っ張り棒など転倒防止対策が施されており、苦闘ぶりが窺える。だが、固定されているゆえ、わざわざ新しく買い替える気が起きない。本当もう少し大きなテレビがよかったのだが。
「テレビだって、もっと大きなやつがいいのに……」
妻と意見が一致し、おれはつい、フッと笑ってしまった。だが、妻は相変わらず目を吊り上げているので、慌ててしんみりとした顔に戻した。
「私はあの子が学校に行っている間、ずっと、ずっと家にひとりよ! この家にね!」
なら働きに出ればいいじゃないか、とは言えないな。
「こんな家、売っちゃいたいわ……」
売ろうとしても、なかなか買い手が見つからないだろう。もっとも、ある意味ではこれは貴重な家だ。地震学者なら欲しがるに違いない。しかし、それなら不動産屋がとっくに売り払っているだろうし、案外この国にはこういった家が他にもいくつかあるのかもしれない。もしくは、この件を愚痴った同僚の反応と同じく信じてもらえないか、学者たちに家を買うだけの予算がないのか。いずれにせよ不動なのに揺れ動くこの家には頭を悩まされる。なんて、はははっ、ちょっとうまいこと考えついたな。妻に伝えたいな。
「また揺れたぁぁ……あの子もね、こんな家は嫌だって言ってるのよ!」
それは嘘だな。子供の順応性の高さは侮れない。この前、息子が家の揺れに合わせて器用に動いていた。そうすると酔わなくて済むのだとか。おれも真似して、二人で笑い合ったものだ。ただ――
「学校の先生からねぇ、お宅の子は授業中、貧乏ゆすりがひどいって言われちゃったのよぉ! この家のせいよ!」
それは初耳だ。確かにこの家が原因だろう。ああ、そう言えば以前、珍しく帰り道で会ったとき、ゆらゆらとやたら揺れながら歩いていた。心配だ。
「私もね! 吐き気とそれに頭痛が止まないのよぉ!」
傾いた家で暮らすと体に不調が起きるという話を、以前どこかで聞いたことがある。この家は傾いてはいないが、毎日揺れるとなると影響が出るのは当然と言えるだろう。この家はひょっとしたら政府の実験施設なんじゃないかと時々思うことがある。一般市民を住まわせ、その影響を研究するのだ。まあ、それが何の目的かは知らないが、戦時中、世界の国々が捕虜に対して人体実験を行っていたんだ。無意味とは言い切れない。なんて、どうでもいい話か。
「ねえ、なんとか言ったらどうなのよぉ!」
言えばまた怒るだろう。
「なんとか言ってよぉ……」
でも、言えばよかったなぁ。
「なんで、落ちるのよ……ばか……」
ああ、君が正しい。おれは馬鹿だ、大馬鹿だ。朝、駅のホームでぼーっと立って電車を待っていたら、電車が到着するその振動で、つい体が揺れ動いてしまった。
テーブルに突っ伏し、泣く妻に手を添えるが、やはり気づいてもらえない。
おれはいるぞ。ここにいるぞ。おれは毎日そう伝えようとしているが、一度も伝わったことがない。
「こんな家でも……一緒ならまだ……あの子と二人で、どうやって生きて行ったらいいの……」
前の家はボロい平屋だった。金を貯めて二階建ての一軒家を買えばいい、我慢するからとそう言って、妻は頭のおかしな隣人にも耐えてきた。
連中の騒音に心を病み、ようやく弱音を吐いてくれた。それで引っ越しを決断した。しかし、子供の学校が変わるのはかわいそうだからと、この町を離れることはしなかった。本当はこの町自体から離れたかったはずなのに、欲を出しきれない妻だ。
「あなた……そこにいるんじゃないの……ねえ、いないの……?」
ああ、いる。いるぞ。ほら、おれはここにいる。家が揺れる……また揺れる……。と、今の振動は足音か。おっ。
「ねえ、お母さん! 見て! トントン相撲作ったよ! 自動で戦うんだよ!」
「……あはっ」
……はは、はははははっ! ほら、やっぱり子供はすごい。大した適応力だ。だから大丈夫だ。この家を、この町を離れていいんだ。きっと、二人でやっていける。
「おおぉ、揺れる揺れるぅ。お父さんも笑ってるね!」
「そうねぇ、うふふふ」
ああ、ようやく伝わったのか。ははははは!
「ははは! お父さんもっともっと! もっと揺らして!」
はははははははは! そうかそうか! おれは家どころか町まで揺らすつもりで、大笑いした。
翌朝、雨戸を開け、外の光景を目の当たりにした妻とおれは驚いた。汚泥に覆われた地面。ところどころに空を映す水溜まり。潰れた家屋。狼煙のように黒煙が空に昇っている。
どうやら昨晩、地震が起きたらしい。それも大きな。津波を起こすほどの。と、それもそうだ。プレートとやらはこの辺り一帯にあるはずだ。それに、うちだけが揺れるなんて不公平じゃないか。
妻は口を開けたまま呆然としていた。やがて、その口からは笑い声が漏れた。手で口を覆うがその必要はない。我慢しなくていい、近くに家はないんだ。どうせ聞こえやしないさ。不謹慎だと言われることもない。前の家があった辺りは見る影もない。
地球のくしゃみ。汚い言い方をすれば放屁だ。随分スッキリしたようで、これからはこの家も揺れることはないだろう。そう思うと、意識が朝日と溶け合う感覚がした。おれは妻の笑い声に耳をそばだてながら、その心地良さに身を委ねた。