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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百合っぽい

赤い逃亡

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 初めて沙也の太股に血がつたったのは、喜美子がいなくなってからちょうど一年目の夏だった。

 沙也の母親である喜美子は、一年前、蝉たちが賑やかに歌う暑い日に突然その姿を消した。村人たちが総出で捜索したが、とうとう喜美子は見つからなかった。

 捜索を始めてから一週間目、真っ赤な夕焼けの中で、沙也を含め村の誰もが感じていた。生きているにしろそうでないにしろ、喜美子はもう戻っては来ないだろう、と。

 夫からの絶え間のない暴力により喜美子は、躰にだけでなく心にまで深く傷を負っていた。

 彼女はもう逃げるしか術がなかったのかもしれない。

 喜美子の夫であり、沙也の父親である謙二は定職に就かず、かといって農作業をするでもなく、日がな一日酒ばかり飲んでいた。酒癖が悪く、酒を飲むと容赦なく喜美子に手をあげた。酒を飲んでいないならいないで、酒を持って来い、ないなら金を出せと言っては暴れていた。謙二の怒鳴り声が響き、物が飛び交い、家はいつも悲惨な状態だった。

 喜美子がいなくなると、沙也が喜美子の代わりとなった。今まで喜美子が遮ってくれていた全てが沙也に襲いかかった。そして、沙也の躰の至るところに擦り傷や赤黒い痣が目立つようになったのである。

 しかし、その日、沙也から流れた血は、それらのどれとも種類の違うものだった。

 小学校の帰り、道端の道祖神の隣に座り込む。

 沙也は、その血の意味を知っていた。


――うちもとうとう大人になってしもうた。


 保健室で脱脂綿を分けてもらい、帰路についたはいいが、一向に足が家へ向かない。


――帰りとうない……。


 沙也がそうなったとわかったら、謙二は何をするかわからない。沙也は、それを恐れていた。喜美子が毎晩謙二に強いられていたことを思い出すと吐き気がする。あの時のギラついた顔で、謙二は沙也を殴るのである。


――あいつには、絶対知られとうない。


 せめて喜美子がいてくれたなら、と思う。

 村には、むせかえるような緑の匂いが立ち込めていた。しゃわしゃわという蝉の声を聴いていると、鼻の奥がツンと痛んだ。

 こんな明るい夏の日に、血の赤は似合わない。

 沙也は、溜め息を吐いて赤いランドセルを背負い直した。

「沙也ちゃん、どしたん?」

 声の方を向くと、隣家の野上雪恵が立っていた。

「雪恵ねえちゃん」

 隣といえども田んぼ一枚分くらいには隔たりがあるのだが、雪恵はよく沙也のことを気にかけてくれる。

 沙也は、今まで雪恵以上に美しい人を見たことがない。

 雪恵は、その名のとおり透きとおるような白い肌をしており、公立高校の制服である濃紺のスカートに純白のセーラー服がよく似合っていた。ただ野暮ったいだけの制服も、雪恵が着ると途端に清楚で涼しげな雰囲気になる。雪恵のきつく編んだ長いお下げは沙也の憧れでもあった。

「雪恵ねえちゃん、うちな、初潮きた」

 沙也は小さく呟いた。雪恵は頷いて、沙也の肩を優しく抱き、

「困ったことがあったらいつでもええけえ、言うんよ」

 と言った。沙也はこくりと頷いた。

 首筋の痣が歪む。雪恵は、表情を曇らせた。

「おじさん、まだ酷いん?」

 沙也はまたこくりと頷いた。

「沙也ちゃん。前から言ようるんじゃけど、うちに来ん? うちのお父ちゃんもお母ちゃんも、それがええ言いようる」

 沙也の肩に乗せられた雪恵の手に力が入る。沙也はいつものように首を振る。

「うちは、あの家からよう出ん」

 雪恵は困ったように頭を垂れた。

「でもな、このままじゃいけんよ。絶対いけんよ」

 雪恵の声は震えていた。

 沙也は謙二の所有物である。少なくとも、謙二はそう思っているはずだ。

 その沙也が家を出たらどうなるか。

 謙二は、それこそ血眼になって沙也を探し、連れ戻すだろう。沙也のことが心配だからではない。自分の所有物である沙也が逃げたということが許せないからだ。

 そういう謙二であるから、もし沙也が雪恵の家へ行くなどと言い出せば、沙也だけでなく、きっと雪恵や雪恵の家族にも酷いことをするだろう。そのことを考えると、沙也はどうしても首を縦に振ることができなかった。

 沙也は、逃げ出したかった。謙二などいない世界へ行きたかった。だが、やさしい雪恵たちが酷い目に遭わされるよりは、自分が酷い目に遭わされたほうが幾分かましなのだ。


 土間に入ると濃い酒の臭いがする。いつものことだが、沙也は未だにその臭いを生理的に受け付けない。

「ただいま」

 返事はなかった。

 開け放たれた雨戸から蝉の歌声だけが流れ込む。今まで返事があったためしはないが、ただいまを言わないと謙二に殴られる。殴る理由など、なんでもいいのだ。

 框に座ってぼろぼろのズックを脱いでいると、背後に気配を感じた。

 次の瞬間、後ろから蹴られた沙也の軽い躰は三和土に転がる。躰が叩き付けられた衝撃を感じる前に、ずんと頭を踏みつけられた。

 沙也は悲鳴を飲み込む。声を上げれば、さらにひどい仕打ちが待っているからだ。

 我慢さえしていれば、今日は終わる。そして、明日も我慢する。

 それを繰り返す。毎日、毎日、繰り返す。


――こんなん、いつまで続くんかなあ……。


 沙也はぼんやりとする意識の中、瞼を閉じて永遠にも思える苦痛を静かにやりすごす。




 雪恵が沙也の家に行くと言い出したのは、その翌日のことだった。謙二に沙也を野上家に預けてほしいと直接交渉すると言うのだ。

「雪恵ねえちゃん、いけん。そんなん言うたら、あいつ、雪恵ねえちゃんに何するかわからんもん」

「そんなことなかろう。おじさんだって、ちゃんと話せばわかってくれるじゃろ」

 野上家の縁側で、沙也の擦り剥いたほっぺたにガーゼを貼りながら雪恵は微笑んだ。


――雪恵ねえちゃんは、甘い。


 沙也は唇を結ぶ。


――あいつが、話してわかる相手のわけがない。


「雪恵ねえちゃん、ほんまにやめて。うちなら平気じゃけぇ」

 沙也は必死に雪恵を説得する。

「平気なわけ、ないじゃろ……!」

 沙也は驚いた。雪恵が声を荒げるのを見たのは初めてのことである。

「沙也ちゃん、いっつも怪我しとるじゃないの! せんでもええ痛い思い、しとるじゃないの!」

 雪恵は涙声で叫ぶように言った。

「でもな、雪恵ねえちゃん」

 沙也は、手で顔を覆ってしゃくり上げる雪恵のスカートをきゅっ、と握る。

「うちが我慢すればええだけなんよ。そしたら、おじちゃんにもおばちゃんにも、雪恵ねえちゃんにも、誰にも迷惑かけんで済むんじゃし、簡単なことじゃ」

 沙也が静かに発したその言葉に、雪恵は答えなかった。

 蝉が歌う。

 雪恵は、声を殺して泣き続けた。




 次の日、沙也が小学校から帰ると、三和土に雪恵の靴が揃えて置いてあった。


――あんなに来ちゃいけん言うたのに!


 沙也はそろそろと注意深くズックを脱ぐと居間の襖をそうっと開ける。そして、目にした光景に凍りついた。

 謙二が雪恵の上に重なっているのである。


――なんしよん、あいつ。


 どこか醒めた気持ちで沙也は思う。


――雪恵ねえちゃんに、なんしよん。


 全身が冷たくなっていくのを感じる。

 雪恵を組み敷こうとする謙二。その下でもがく雪恵の姿が、喜美子の姿と重なった。


――あんなん、まるでお母ちゃんにしよったみたいな……。


 沙也は、頭だけがカッと熱くなるのを感じた。

 雪恵と目が合う。雪恵は沙也を見て、顔を歪ませた。

 謙二は沙也に気付いていない。


――逃げんさい。


 雪恵の強い眼差しはそう言っていた。雪恵は沙也に向かって顎だけを微かに動かした。

 雪恵は必死に抵抗していたが、大人の男である謙二の力に敵うはずがない。ひどい目に合わされるのは時間の問題だろうと思えた。誰かを呼びに行く時間は、ない。

 沙也は、足音を忍ばせ土間へと向かった。逃げるためではない。


――雪恵ねえちゃんは、あんなやつに汚されてええ人じゃない。


 沙也は探していた。


――雪恵ねえちゃんは、ちゃんとした男の人とちゃんとした恋をして、ちゃんとした結婚をする人なんじゃ。


 雪恵を助ける方法を。


――雪恵ねえちゃんは、幸せにならんといけんのじゃ。


 あの悪魔の動きを封じる方法を。


――こんなゴミ溜めみたいな家であんなクソ野郎に汚されてええはずがない。


 沙也は、土間に立てかけてあった木製バットを掴んだ。謙二がまだ若い頃にソフトボールで使用していたものである。最近では専ら、沙也を脅すことに用いられていた。

 沙也はバットを構え居間に戻ると、雪恵に覆い被さっている謙二の後頭部に、それを力一杯振り下ろした。

 ごす、という鈍い音と共に謙二の頭にバットがぶつかる。

 雪恵が声にならない悲鳴を上げた。

「ぐう……」

 謙二の喉がくぐもった音を漏らす。


――これじゃ弱い。まだ生きとる……!


 沙也はもう一度、思いきりバットを振り下ろす。

 謙二は雪恵の上に躰をぐにゃりと横たえ、動かなくなった。しかし念のため、沙也は更にバットを振り下ろす。ぐず、と湿った音がして、謙二の後頭部がへこむ。微量の血滴が雪恵の蒼白の頬を汚した。

「さ、沙也、沙也ちゃん……」

 雪恵が謙二の下から出て、肩で息をする沙也に這い寄る。

「沙也ちゃん……」

 雪恵は、バットを握ったままでいる沙也の指を解こうとした。しかし、沙也の指はガチガチに固まっており、なかなか開かない。雪恵はゆっくりと丁寧に沙也の指をバットから剥がしていった。とす、とバットが畳に落ちる。

 雪恵は、そのバットの持ち手を紺サージのスカートでくるむようにして拭った後、自分の手でしっかりと握った。そして、

「大丈夫じゃ。沙也ちゃんは、なんも心配せんでええ」

 きっぱりとした口調で言った。

「うちがなんとかしちゃるけん」

 雪恵はバットを置き、沙也の肩を掴む。

「沙也ちゃん、ええ? これはうちがやったんじゃ。ええね。誰かに訊かれたら、そう言うんよ。これは野上んとこの雪恵がやったんじゃって。うちがやったんじゃけん。な? わかった?」

 雪恵の言葉に、沙也はぶるぶると首を横に振り続けた。




 どのくらいそうしていたかわからない。沙也と雪恵は抱き合ったまま、ぐったりと座り込んでいた。

 日が傾き始めた頃、

「雪恵ぇ、沙也ちゃぁん、おるんかぁ」

 庭の方から声がした。

「お、お父ちゃん……」

 縁側から居間を覗いたのは、雪恵の父、英雄である。雪恵がびくりと肩を震わせる。

「雪恵、どしたんなら」

 英雄は、雪恵の頬に付いた血、ほつれたお下げや乱れたセーラー服を見て、目を吊り上げた。

「だ、大丈夫じゃ、お父ちゃん。うちは、なんもされとらん」

 雪恵は、震える声で言う。

「される前に、こ、殺してしもうたけん。お父ちゃん、う、うち、おじさん殺してしもうた」

「ちがう!」

 沙也は悲鳴にも似た声で否を唱えた。

「おじちゃん、ちがうんじゃ。雪恵ねえちゃんはなんもしとらん。うちをかぼうとるんじゃ。うちが、殺した。うちがあいつを殺したんじゃ」

 沙也と雪恵は、がっちりと抱き合ってお互いをかばっている。

 英雄は、ぎゅう、と目を瞑り、また開く。まるで、瞼を持ち上げると目の前の景色が変わっているのではないかと期待しているように見えた。

「雪恵。なんでひとりで来たんなら。わえが帰ってから行っちゃる言うたろうが」

 英雄が重々しく口にした言葉に、雪恵は、ただ力なく首を振った。

「ごめんなさい」

「謙二は、ほんまに死んだんか」

 言いながら、英雄は縁側から居間へ上がると、謙二の首筋に手を宛行う。

「ああ、止まっとる」

 独り言のように発せられた英雄の言葉が、沙也と雪恵の躰をこわばらせた。

「おまえらのどっちがやったかいうんは、どうでもええことじゃ」

 英雄は淡々と言う。

「埋めるで」

 英雄の言葉の意味がわからず、沙也と雪恵はおどおどと顔を見合わせた。

「謙二を埋める。なかったことにするんじゃ」

 英雄はぎらぎらした目で、吐き捨てるように言った。




 それからすぐに英雄が走り、程なくして村全体に連絡が回った。

 沙也の家に集められた村人たちは、謙二を古い毛布にくるむと、外した雨戸に乗せて運び出した。

 抱き合ったままじっと動かない沙也と雪恵に、誰もなにも言わなかった。


 赤い空の下、村人たちは山道を登る。沙也と雪恵はしっかりと手を繋いで、その行列の後ろを歩いた。

「空、真っ赤じゃね」

 雪恵が、ぽつりと言った。

「うん」

 沙也は頷く。夕焼けの洪水みたいだ、と沙也は空を見上げて思う。

 山の中腹まで来ると、村人たちは妙に手際良く穴を掘り始めた。深く、なるべく深く、ざくざくと土を掘り返して行く。

「もう、ええじゃろ」

 穴が一メートルと少しほどの深さになると、指揮をとっていた村長が静かに言った。雨戸を傾け、村人たちは穴に謙二をずるりと落とす。ぼすん、と乱暴な音を立てて、毛布にくるまれた謙二は穴の中に横たわった。

 謙二は死んでしまった。


――うちが殺した。


 沙也は頭の醒めた部分で、自分のしたことをちゃんと認識していた。それが、決して許されることではないことも。

 しかし、毛布の中でぴくりとも動かない謙二が土で隠されていくのを見つめるうちに、不思議と喜びにも似た甘美な感情が胸に沸き上がってくるのを感じていた。

 もう、謙二に殴られることはない。蹴られることも、ゴミ溜めのような家でゴミのように扱われることもない。そして何より、もう謙二の顔を見なくてもいい。もう謙二の一挙一動に怯えながら暮らすこともない。その事実が、沙也にとって、たまらなく幸せだった。

 ふと、喜美子のことを考える。


――お母ちゃんは、生きとるんじゃろうか。


 死んでしまっているのかもしれない、と忙しく立ち働く村人たちを眺めながら沙也は思った。


――お母ちゃんも、逃げたかったんじゃな。


 沙也は、妙に納得した気持ちになる。喜美子は、死ぬことで謙二から逃げたのかもしれない。


――だって、うちは逃げたかった。


 沙也は、やわらかい雪恵の手を強く握った。雪恵も、強く握り返してくれる。


――でも、よう逃げんかったんじゃ。


 謙二を殺したのは、本当に雪恵を助けるためだったのか。本当は、自分のためだったのではないか。自分が逃げるために、沙也は謙二を殺したのではないか。本当のことは、沙也にもよくわからない。

 蝉の歌が聴こえる。緑の匂いと土の匂い。その中で、沙也の目の前は真っ赤に染まる。

 涙が頬を伝う。うれし涙だ、と沙也は思った。

 夕焼けに照らされ涙を流す沙也の太股には、一筋の血が流れていた。



ありがとうございました。

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