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馴染みの剣鬼  作者: スタミナ0
幕間
970/1102

小話「幸の山」⑨




 その晩、二人は小屋を後にした。

 扉を閉める際、イグルは躊躇うように止まる。

 取手から離した手は、名残を残すようにその形のまま腿の横に垂れる。

 その手をヨゾラが隣から握った。

 悲愴な表情のイグルに、微笑みかけて進む。

 雪とあって足音は消せない。

 遠のく小屋に、だが掌に伝わる体温が振り返ることを制止する。決めた以上はしばらく戻らない、覚悟を決めたのだ。

 十数年振りに、山を出る。

「ヨゾラ」

「なに?」

「君は故郷を離れるとき、どうだった?」

「そうだね」

 そのときのことを思い返す。

 ヨゾラの横顔には憂いの類は一切ない。

「体が軽くなったかな」

「軽く?」

「過酷だと知っているけど、何だか自分を縛り付けている物からも解放された気分だった」

「自分を、縛る…………か」

 イグルは感じ入るように復唱する。

 繰り返したのは、己にも共通した部分だ。

 父の言い付けが全てだった。

 それさえ守っていれば、苦悩は無く過ごしていけた――父への後悔のみを除いて。

 ずっと独りだったなら。

 この先も悩まず山に居れただろう。

 だが、ヨゾラによって世界は変わった。

 最低限という線引をして人を敬遠し、外界と己を遮断していたイグルの常態は、呆気なく崩れ去る。

 興味を持ったなら無視はできない。

 人の世に、人の輪に入りたい。

「イグル」

「右に見える峠の下を回り込む」

「雪崩とか」

「心配ないよ、念入りに確認したから」

 尽きない迷いを断ち切って。

 イグルはヨゾラの手を引いて前へと歩んだ。

 その足取りがやや強引さを孕んでいたのは、少しでも気を緩めれば小屋へと戻ろうとする己を自制するためだろう。

 ヨゾラはその心境を察して押し黙る。

 幸いにも月明かりがあった。

 二人の進む先は照らされている。

 夜目が利かないヨゾラでも、樹影の深い場所まで入らなければ問題なく目視できた。

「止まって」

「…………」

「あれが魔獣…………だよな?」

「ふふ、他の何に見えるの?」

「いや、あれ以外を見たことも無いしな」

「魔獣というのも大きな括りで、本当はさらに多種多様なの。あれよりも大きい種族もいるわ」

「なん、と…………」

 戦慄にイグルが顔を強張らせる。

 世界中に存在する怪物という認識のこともあり、イグルはこれから向かう外界こそ山より過酷なのだと当たらずも遠くない偏見が生まれた。

 ただ、それに勝る好奇心がある。

 一月で育まれた欲求は、もはや恐怖だけで竦んでしまうほど細やかな物ではなくなっていた。

 惜しむらくは長く暮らした小屋。

 イグルにとっての唯一の思い出である。

 ただ、これから何があろうと帰ることが出来ると思えば足は軽くなった。

 指し示した峠に近づいて。

 なおさらイグルは歩調を緩める気は無い。

「ヨゾラ、大丈夫かい」

「ええ、問題ないわ」

「追手は南側を中心にしているから、峠の下を回り込んで北に逃げれば、見られずに抜けられる」

「魔獣は?」

「ここを抜ければ、一体もいないはずだ」

 イグルは的確に指示を出す。

 足下の注意すべき場所や、姿勢など。

 この一月で入念に確認したのは経路だけでなく脱出までの所要時間、歩き方、ヨゾラへの負担、危険度のすべてを加味した最善手だった。

 あの頃は、別れが惜しくなかった。

 イグルは自身を客観的に見て判断する。

 おそらく。

 ――俺たちに一月は長すぎた。

 互いにあの生活を楽しんでいた。

 終わりを告げたとき。

 ヨゾラが一瞬見せた表情は印象的だった。

 心苦しいのは、自分だけではない。

 彼女も山での思い出を大切にしている。

「――――」

 会話は一切無い。

 雪を踏む足は、深く沈む。

 その事実に、気を抜けば足が重くなる。

 あれだけ前へと背中を押していた強い意思が、途端に翳って足枷に変わっていく。

 不意に郷愁の念が起きた。

 独りのときは決して無かったことだ。

 惜しむも何も、この山を出る思考は皆無だった。

 振り返れば、夜の帳に沈む山の峰々。

 枯れた木々がか細く吐いたような風が吹く。

 ――ここには、父が眠っている。

 彼の最期の顔を思い出す。

「…………」

「イグル?」

「いや、何でもない」

 イグルは険しい面持ちで進む。

 そして。

「ヨゾラ」

「ん?」

「ここから先は一人で行くんだ」

「…………」

 二色の真剣な眼差しが交わる。

 濃い樹影の最中、二人は互いを明確に捉えていた。

 ヨゾラの顔からも余裕が消える。

 了解していた作戦事項――イグルの殿という段階に事態が突入したことを、静かに告げていた。

 ここから先に魔獣はいない。

 追手の包囲網も北側は疎らになる。

 ただし。

 南側がヨゾラたちの脱出を察するのは時間の問題なのだ。

 彼らが気付いた頃には手の届かない位置に辿り着くのが理想だが、現実的に考えても不可能だ。

 必ず囮が必要になる。

 無論、敏い敵ならばヨゾラの別行動も察知できるだろう。

 だが、イグルを無視はできない。

 ヨゾラはいずれ捕まえられる。

 ヨゾラの故国は、目撃者を第一に殺害する。一月で正体を知ったかもしれないイグルの口封じが最優先になる。

 その確信があって。

 ヨゾラもそれが己の生存率が最も高い作戦と理解していた。

「相手は人間相手の狩りが上手いわ」

「ああ、潜み方なんて正にそうだ」

「殺されるのよ」

「そうならない為の作戦だろう」

「…………」

「これから最低限ではなく、人として生きていくんだ。

 なら、ケジメを付けないと」

「ケジメ?」

「うん――人でなしとしての」

 イグルはヨゾラに背を向ける。

 来た道を歩き始めた。

 ざわり。

 一陣の風が辺りへと吹いた。

 過ぎ去った風の名残も消えた後、周囲が霧に包まれ始めていることにヨゾラは気づく。

 イグルの背中はその中に消えつつあった。

「イグルっ」

 呼びかける声に、霧の向こうの足音が止まる。

 霧中に浮かぶ薄い影が、振り返った気がした。

「行くんだ」

 声だけは、真っ直ぐに伝わる。

 なのに、どんどん遠くなっていく。

「どうか幸せに、ヨゾラ」

「…………」

「縁があれば、また何処かで」

「うん」

「ははっ」

 霧の中で彼が笑う。

 もう姿は見えない。

「イグル?」

「誰かにまた、って言えることがこんなに嬉しいことなんて気付かなかった」

「イグル!」

「ありがとう――こんな俺を、純真なんて言ってくれて」

 その声を最後に、イグルは霞のように儚い気配すら絶った。







 そのとき、森全体を風が駆ける。

 潜伏していた黒装束の追手たちは、闇に潜んでいた体を反射的にその場から飛び出させた。

 心の中が異様に騒ぐ。

 途轍もない不安感が急激に神経を尖らせる。

 何事かは分からない。

 ただ――逃げろ、と本能が叫んでいた。

 そして。

「え?」

 追手の一人の目前に霧がかかる。

 辺り一帯の景色がすべて白く包まれた後、霧の一部が蠢いて――そこに巨大な(アギト)を作り出す。

 中空に浮かんだのは、自身を睨む無数の灰色の眼光。

 目の前の顎がゆっくりと動き出す。

 開けられた口腔から冷たい微風が吹いた。

『―――――』

「あ゛、う――――?」

 風が体の中を透き通る感覚。

 骨身に伝わる寒さを感じて――――黒装束もろとも、塵となって崩れていく。

 服も、肉も、骨も。

 風に吹かれれば何も関係ない。

 為す術もなく極小の砂となって砕けた。


「ひぃッ、助け―――ぁああ゛ッ」

「ごめんなさ、許しししじじじじじ!?」

「待て、許しで―――――ぁ」

「うわぁぁぁああ!?」

「来るな、こっち来んなよ頼むからぃ゛ぐゔぇぁッ」


 森のそこかしこで上がる断末魔の声。

 同時に。

 むしゃ、むしゃ、むしゃ。

 人を狩る霧の咀嚼音がその裏で鳴る。

 止まらず、絶えず、或いは同時に別の箇所から悲鳴を奏でて、獣は森に潜んだ獲物を容赦なく、山の主としての最後の晩餐を味わっていく。

 森の中を駆けるヨゾラは、一時だけ後ろを振り返った。

 そこに。

「ぎゃああああああ!!」

 月に重なる、舞い上がった人影。

 そして。

『あーーーーーーむ』

 巨大な狼の形に束ねられた霧が、その哀れな命を呑み込む。

 ばり、ばり、むしゃ、むしゃ。

 遠くにいるヨゾラも、己の体内から響いてすらいると錯覚する怪音が鳴った。

 あれが、山のヌシ。

 小屋での会話で、ヨゾラは悟っていた。

 父に縄張り争いの敵と認識された彼は、おそらく、きっと……………父すらも殺したのだろう。

 山の摂理として。

 父の言葉以前に、敵として肉親を認識して。

「―――ッ!」

 一瞬だけ。

 月を背にした霧の狼がヨゾラを見る。

 ヨゾラは足が竦む迫力に立ち止まり、その眼前で狼は音もなく霧散した。

 間もなく、また別の場所で悲鳴と食事。

 ヨゾラは黙って、前に進み出す。

「あれ…………?」

 ふと、ヨゾラは疑問に思った。

 父を山の摂理に従って降した。

 なら。

 どうして――父の話になると、彼は辛そうな顔をするのだろう。

「………そう、よね」

 いや、そこには思考の余地すら無い。

 人と、異形の獣の間に生じた子。

 彼は人でも、また完全な獣でもない。

 どちらにも偏れない。

 だから。

「父を殺したことを、後悔してるのね」

 冷徹になりきれない。

 当然と弁える獣の本能。

 それを罪と紛糾する人の理性。

 二つの葛藤が、あの表情に表れていたのだ。

『ありがとう――こんな俺を、純真なんて言ってくれて』

 あの毒のない笑顔の裏。

 それが、この霧の怪物だったのだ。

 人とは相容れない、やはり化け物。ヨゾラは、それを人里に放ったも同然のことをしたのである。

 いつか自身と人の差異に苦しみ、全てを消し去ろうと獣の本能に呑まれるかもしれない。

 そうなれば魔獣以上の災厄だ。

 それでも。

「『またね』」

 ヨゾラはさよならと言えなかった。

 あの笑顔と言葉が、いつか人として彼と会えることを信じる力になる。

 阿鼻叫喚の地獄と化した夜の中、ヨゾラは静かに包囲網を脱していった。








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