小話「妖精攻略戦」下
放課後の時間となって。
チゼルは準備室からそっと顔を出した。
最後の生徒が退室した瞬間であり、物音に気づいたダウルが振り返る。手招きする彼の下へと歩んでいった。
既にそこにエノクとカスミが待っている。
だが、その表情は渋かった。
そこで、あっとする。
机の上には薬湯があった。
湯気を立てる小さな深緑の水面が湯呑みの中で揺れている。
チゼルはまるでもう飲んだように顔に渋面を作りながら、それを手に取った。
薬湯は一種の合図でもある。
主にダウルが真面目な話をするとき、決まって目の前に薬湯が供された。チゼルが度を超えて周囲に迷惑をかけたときなどの説教前には頻出する。
因みに。
これを断ると避けるほど事態に自覚的であると言外に語っているようなものなので、殊更に説教を長くしてしまうのだ。
――これが出てきた、ということは。
ちら、とダウルを見やる。
「ごゆっくり」
「ボク、また何かした?」
「チゼル、逃げてはいけないよ」
「ダウルはボクの味方だろ」
「君に降りかかる理不尽に対して盾になる覚悟はあるけれど、今回はそれではないからね」
「…………?」
「二人とも、後は頼んだよ」
ダウルが静かに去っていく。
チゼルは二人へと向き直った。
やや緊張した面持ちのエノクに対し、変わらなず取り繕わない笑顔のカスミはまるで対比のように、これから話される話の孕む光と影の側面を表しているようである。
少なくとも。
エノクの憚るような姿勢が気懸かりだ。
「ダウルさんと仲良いんですね」
「まあ、一応」
「お二方は恋人なのか?」
「そんなもんじゃない」
チゼルが笑って否定する。
「ダウルとは一年旅した仲」
「へえ」
「奴さんは信頼してる」
「チゼルさんが?」
「ある街の殺人鬼に捕まってな。どちらか一方は生かして、残った方は好きに捌くってなったときに…………ダウルは迷わず自分を差し出した」
「え゛っ」
「後でただの旅仲なのに何故って聞いたら、『チゼルを不幸にはさせたくない』って」
「…………」
「足の小指を切り落とされた後で、骨折やら何やらと救助が来た頃の重傷だったときに言われたんでな。…………信じるしかない」
チゼルは微笑んで過去を回想する。
ダウルの意気込みは本物だった。
チゼルを犠牲とせず、対価とせず、贄としない。
身を賭して守る。
その覚悟があったから信じられた。
「それで?」
「え、あ」
「要件ってのは?」
「実はガディウス殿に頼まれて」
「ちょっと、カスミさん?」
「最近チゼル殿に避けられているかもしれない、とまるで死ぬ前のような落ち込みようだった」
「カスミさん、作戦とは?」
対して。
まったく憚るつもりのないカスミ。
彼らの目論見が一瞬で暴露された。
チゼルは思わず長嘆する。
「別に、特に理由はない」
「本当に?」
「てか、ガキを使ってまで調べることかね。ボクを避けてるのは、どっちだか」
「しかし、ガディウス殿の名を聞いた途端に顔が少し曇ったが」
「…………」
カスミの指摘にチゼルが閉口する。
図星――というわけではない。
ただ、自身がそんな表情をしていたことに驚いていた。まったく自覚が無いし、果たしてそんな感情があったかもわからない。
ガディウスへの後ろめたさ。
チゼルは自身の胸に手を当てて考える。
誕生月を祝う。
それは記憶の奥底に封印した、幸福な家族との思い出である。チゼルにとっては、誰にも触れてほしくない己の宝物だった。
チゼルという人間。
その根源にすら等しい。
「あ――」
そこまで考えて。
ようやくガディウスを彼を避ける理由を理解した。
新たな家族と紡ぐ思い出。
チゼルには、それがかつての記憶すら塗り替えられてしまうようで恐ろしかったのだ。
血の繋がりも無く、まだ月日も浅い。
実の肉親との数少ない記憶が、深い関係でもない人間と強く結びつくことで失われてしまう危機感が心のどこかに強くあった。
だから。
当たり前に誕生月を祝われる他人が嫌い。
同じように今の自分がそれに適用して祝われることも厭わしい。
今が幸せでも、不幸だった過去は変わらない。
ガディウスは、知らない。
『売れば金になる』
『見てくれはいいものね』
『これで冬は越せるだろ。何にしても、あれに居座られちゃ魔獣が来る…………それにあの髪と目、忌々しい』
『あと少しよ、堪えましょう』
幸福がいとも容易く覆されることを。
信じた者の裏側に潜む醜さを見た絶望を。
また裏切られたときの、悲しさを。
ダウルは理解してくれた。
旅の道中で命の瀬戸際に陥ったときでも、チゼルを捨てなかった。ときにはチゼルを庇って瀕死の傷を負ったこともある。
果たして。
同じ人間がどれだけいるだろうか。
「ボクとアイツは家族じゃない」
「…………」
「偶然にも道行の途中で積んだ徳に目を留められて優遇されてるだけだ。家族だなんて思わなくていいし迷惑だ」
「ち、チゼルさん」
「うん?」
「あなたを温かく迎えてくれる家は、あなたの家族になりませんか?」
エノクが遠慮気味に訊ねる。
「家族より平穏が欲しい」
「…………」
「一日を安心して寝られれば良い。飯が少しでも食えれば万々歳。あとは人目を気にせず、落ち着いて過ごせるなら…………そのために剣爵家は避けられなかっただけだ」
チゼルは眉を顰める。
予感があった。
デナテノルズ討伐後、ベルソートが現れた瞬間に自身の平穏が崩れていくのを感じたのだ。信頼できる者――ダウルとの殺伐としてはいたがほどほどに安らいでいて、最も楽しかった日々が終わりを告げる。
あの老人が、何かを企んでいた。
逆らえば、どうなったか知れない。
自分一人なら、今までのこともあるので切り抜けられた。
だが。
ダウルはどうなっていたか。
「ボクがここに来たのはそんな理由だ」
「そう、ですか」
「ガディウスに言っときな」
「ん?」
「ボクは誕生月を祝われることなんて望んでない。温かい寝床があれば、それで充分…………それ以上を望まない」
「チゼルさん…………」
『…………』
膝の上のザグドが揺れる。
チゼルはふ、と微笑んで席を立った。
一思いに薬湯を飲み干して実験室を出た。
その日の晩。
チゼルは帰路の途中にあった。
ガディウスからの行動があった以上、剣爵家の屋敷でも接触と同時に彼は何かを図るかもしれない。
その危険があるので夜に帰宅することにした。
『チゼル』
「うん?」
『君はもっと欲をかいていい。今の君は、本来なら誰もが当たり前に享受している物を幸福としている。周囲から見てしまえば、不憫に思えてしまうのだろう』
「ボクは不幸かい?」
『辿ってきた道はどうであれ、今は君の苦労あってようやく幸せになれる為の足場を確立したのだ。何を不安視している?』
「…………何だろう」
チゼルは自身の胸襟を強くつかむ。
背負ったザグドの剣柄へと振り返った。
「ザグドの言う当たり前の幸福」
『ああ』
「胸の奥で、それが自分には当たり前じゃないって何かが叫んでる気がする。いつだって安心できやしない」
『君のそれは…………来たか』
「うん?」
誰もいないはずの剣爵領地の道。
ふと行く手から砂を擦る足音がした。
チゼルが前を向くと、そこに無精髭の男――ガディウスが立っている。両手で一つの箱を抱えていた。
ぎょっとしてチゼルは飛び退った。
「ずいぶんな反応だな」
「気配もさせず出れば当然だろ」
「…………なあ、チゼル」
ガディウスが前へと進み出た。
「エノクとカスミから聞いたよ」
「…………」
「聞いて、わかったんだ」
「なにが」
「俺はさ、お前の父親にはなれない」
「だろうね」
ガディウスが苦笑する。
それは諦念から溢れた表情だった。
どれほど努力しても、チゼルにとっての父は過去に一人であり、心でなおも記憶の中に生き続けている。
塗り替えることはできない。
もし上書きしようものならチゼルは嫌う。
ガディウスを父と認めないチゼルとの、どうしようもない隔たりを感じたのだ。
その溝は深く、彼女は遠い。
「でもな、チゼル」
「…………」
「父親は無理でも、家族にはなれる」
「はっ?」
「君がダウル君とそうなったように、父やら兄やら…………そんな関係や『配役』、型なんてどうでもいいんだよ」
「配役」
「俺は少しずつでいい、お前の家族になりたい」
「ボクの?」
「どんな過去があろうと俺は幻滅しないし、死ぬときは俺より後だ。絶対にお前を守る、それが家族としての俺の役目だ」
「…………どうせ裏切る」
「なははっ、チゼル」
「なに」
「俺はたしかにお前を裏切るぞ。たぶん飯の約束しても教職やら公務で行けないこともあるし、遊べる時間も限られてるのに予定はころころ変わる」
「そういう裏切りじゃ」
「ただ、俺は数ある裏切りでも…………お前を見捨てるような真似は絶対にしない、弄ばない。ていうか、お前が嫌がっても俺は関わり続けるぞ?」
「うぇ」
「だから、お前も諦めろ。俺は父親になるのは諦めるが家族には絶対なるために付きまとうから、お前は俺を突き放すなんてことは諦めるんだな」
「…………」
チゼルは半目でガディウスを睨む。
「普通に気色悪い」
「だからって媚は売らんぞ」
「へえ」
「これは家族として、対等な人間として贈る物だ。俺がお前に会えたことの感謝だ、受け取らないと逆に恨むぞ」
「…………」
ガディウスが箱を差し出す。
渋々とチゼルはそれを受け取った。
「開けてみろ」
「帰ってからな」
「え、それじゃここで渡した意味が無い」
「この話、帰ってからでも良かったろ」
「逃げそうだし、俺も焦ってたし」
「…………帰ってから見る」
「ふふ、楽しみだ」
「……………?」
ガディウスが含み笑いをする。
チゼルは怪訝な顔でそれを見つめた。
ガディウスの思考は読めない。
どんな人間も窮地に陥れば容易く他人を命の対価として擲つ。救われるためなら他者が犠牲になろうと構わない。
ずっと、そう思っていた。
だが、ダウルは違った。
そうでない人間がいると知った。
なら、信じてみても良いのか。
チゼルは隣を歩く男のこれからに多大な疑念と、芽吹いた一抹の期待を抱えて彼と過ごしていくことを決意した。
きっと裏切る。
そんな予感がまだ大半を占める。
だが、いずれ彼を信用できるときがくれば…………そのとき、ようやく『家族』となれるのだろう。
その後。
ガディウスは居間にて期待を膨らませていた。
チゼルに贈った品。
彼女がそれを開けて、お披露目に来る。
口元には勝利の確信と歓喜で、不気味な笑みが貼り付いていた。
隣では専属侍女のセインが苦笑している。
「気持ち悪いですよ、当主様」
「相変わらず酷いな」
「それで、チゼルには何を贈ったんです?」
「見てのお楽しみだ」
不意に。
居間の扉が開かれた。
ガディウスが椅子から立ち上がる。
「お、おい…………これ」
「おお…………おお!」
そこに。
ワンピースを着たチゼルが立っていた。
耳まで赤くなった彼女は、髪留めや首飾りなどで自身を彩っている。
その姿にセインは唖然とした。
まさか、贈り物って。
「似合ってるぞ、チゼル!」
「前にボクはドレスの類が苦手だって言わなかったか!?」
「お前は可愛いんだから着飾らないと損だぞ」
「…………」
「似合ってますよ、チゼル」
セインの称賛にチゼルが下唇を噛む。
「おまえさん」
「なんだ」
「愉しんでるだろ、今」
「ああ…………可愛い子を着飾ること以上の至福が俺にあると思うか!?」
「弄ばないって言ったくせに…………!」
「ふふふ、やはり俺の見立てに――?」
「う、う、う」
「う?」
「裏切り者――――――!!」
ガディウスの顔に回し蹴りを叩き込んで、ワンピース姿のままチゼルは居間を走り去っていった。
それを見届けて。
セインは床に倒れたガディウスの顔を覗く。
「大丈夫ですか?」
「俺は諦めない」
「はあ」
「セインという初恋も、チゼルとの楽しい家族デートも実現してみせる」
「前者はともかく、先は長そうですね」
その日以来。
チゼルとガディウスの距離は縮まりはしたものの、時折彼が持ち込む装飾品を塵芥を見るような目でチゼルは睨むことが多くなった。
ここまでお付き合い頂き、誠に有り難うございます。
日焼け痛い、超痛いです。
家の雑草抜きしたんですが、これがマジで重労働な上にお日様が容赦ないこと。
シャワー浴びるとツライ、体ひりひりする、肩叩かれると痺れる。。
日焼け止めって大切ですね、うん。




