小話「ヴィータの不可能」①
全能とは神の特権である。
人が持って生まれることは決してない。
この世に於ける絶対は無かった。唯一神ですらあった女神が悪魔によって撃退されたことで、この世に全能など無いと知れている。
全能とは。
創世を担った神意より上位の力。
それを仮に人が手にしたとき、この世を如何とするか。
世が滅ぶか。
また新たな神として君臨するか。
すべてが意のままである。
星狩りの四年前。
大陸中央部のアジィク国。
そこは際立って栄えているわけではない。
国力は他の国に見劣りせず、ただ優れない。
だが、この国が誰の耳にも届いたときに想起される特徴は、世界で最も強い一族の名である。
後の『星狩り』。
ケティルノースは魔獣たちを率いていた。
魔神教団の脅威が際立っていたが、決して無視できない危険勢力である。
対抗した軍力の中に少数でありながら、魔神教団より更に奥から迫りくる魔獣を抑えていた者たちがいた。
それがダンスカーの者たち。
魔獣の天敵、魔獣狩りにおける強者。
挙げた戦果はエヴァレスによって霞んだ。
だが。
紛れもなくその戦力は本物だった。
星狩りに参加した者ならば、『征服団』やその他の者たちが功労者として剣聖や剣聖姫以外に名を挙げる数少ない内の一として名を口にする。
アジィク国には彼らが所属していた。
ただ、それは名だけ。
敷地がそこにあるだけの話。
土地に拘りなど一切無い。
魔獣にしか興味関心を見せない。
戦争によって国が消えるたび、ダンスカー家は所在を転々と移動させた。
ただ、それだけのこと。
「やっぱり、つまらないな」
少女は絵本を閉じて嘆息する。
縁側に座っていた体を板張の床に横たえた。
青い瞳は軒先に作られた鳥の巣をじっと眺める。
背後の襖が開いて。
正座をした女性が現れた。
恭しく少女へと一礼して頭を上げない。
「お嬢様、お時間です」
「行かない」
「しかし」
「オレに命令できる立場なわけ?」
少女が放った言葉に女性が閉口する。
それは有無を言わさない威圧的な語調だった。
本来なら立場が違う。
少女は女性へと見向きもしない。
縁側に仰臥したまま億劫そうに応対する。
それでも。
女性はその態度を咎めなかった。
否、咎められなかった。
「…………失礼致しました」
「前払い金でも与えて何処かやりなよ」
「…………」
「返事は?」
「はい、承知しました」
女性は静かに襖を閉ざす。
少女の口が失笑めいた呼気を吹く。
「今日は珍しく口応えしたな」
少女が小さく呟く。
だが関心は鳥の巣で鳴く小鳥のみ。
目の前には美を追求して整えられた庭園が広がるが、それすら少女にとっては退屈に色褪せて見えており、視線を留める価値も無い。
ただ。
鳥の巣を眺める瞳も屈託に淀んでいた。
『呼んでおきながら話を蹴るとは』
『わがままなお嬢様だな』
ふと。
近くで会話する者たちの声を耳が拾う。
少女は小鳥からそちらへと意識を傾けた。
『仕方ねえよ』
『でもよぉ』
『ダンスカーの最高傑作に文句は言えん』
『は?』
『ああ、おまえは最近になってここに務め始めたから知らないのか』
『最高傑作?』
ダンスカーの最高傑作。
それは少女の名より口にされる呼称だ。
少女は思わず眉根を寄せた。
この世に於いて。
最も歴史の古い血は四つある。
日輪ノ国を統べる以外は不明だが、その国の成り立ちから存在する血――切咲家。
北の神獣と古くから親交あるエウソラス王家。
魔神戦線以前の英雄の末裔たるユルヌの民。
そして。
対魔獣専門を生業とするダンスカー家。
それぞれが畏怖や尊敬を向けられる。
大陸有数の名家とされるダンスカーは、四家の内では最も尊敬を受ける一族だった。過去にも三大魔獣討伐や討伐補助で人類に大きく貢献している。
対魔獣における最高戦力。
その血統の歴史で、少女は最も強い力を持って生まれた。
だから家族にも恐れられる。
誰もが平伏する。
最初から少女にとって自分を取り巻く環境は従う者ばかりでつまらなかった。
だから。
気紛れに旅人や名のある戦士を招く。
戦場での武勇譚や遠い地の美観についての話などを聞いた。
『でも、どれもダメなんだと』
『つまらないってことかよ』
『最近じゃ、前払い金をやっておさらばってのが多い』
『金の無駄じゃねえか』
『ダンスカーは金に困らねえよ。ただ、時に断るのが厄介な奴もいるから禍根を残したくないのに』
『面倒くさい嬢さんだな』
少女は舌打ちを鳴らす。
起き上がって声のする方へ手を伸ばした。
広げた五指を、ゆっくり畳んでいくように握り込む。
すると。
通路の先の曲がり角でぐしゃりと音がした。
血が噴いて、床や柱を汚す。
「人で盛り上がるだけ盛り上がりやがって」
払うようにその拳固を解いた。
しばらくして悲鳴が上がり、屋敷務めの使用人が慌ててそちらに集う気配がする。
少女は煩わしげに耳を塞いだ。
つい、頭に血が上って手を出してしまう。
度々こういうことがあった。
だが、人を殺めたことへの反省感など無い。
自分はすべてが許されている。
身に宿った力がそうだったように。
「もし」
「…………」
「もし、そこなお嬢さん」
「…………」
耳を塞いだ手をすり抜けた声。
つい人並み外れた聴覚が音を拾ってしまう。
それも、いま聞きたくない人の声だ。
「おーい」
「…………」
「おまえ、亀のふりなんて楽しいのか?」
「誰が亀だって?」
亀と言われて少女はむっとした。
思わず振り向いて睨む。
そこに銀髪の少年が立っていた。
年の頃は自身と同じほどで、旅装束に剣を佩いている。獰猛な獣のように鋭い目つきは、声に反した印象に少女は少し面食らう。
少年がにやりと笑った。
「どうやら言葉は通じるみたいだ」
「なんだ、オマエ」
「俺は依頼を受けてここに来た傭兵」
「傭兵…………ああ」
少女はすぐに察した。
前払い金だけで帰そうとした人間。
答えに辿り着いて興味が失せる。
「金はやったんだ、用は無いだろ」
「お嬢様を呼びに行った使用人が伝えに行ったっきりなんだよ。どうやらそこで何か起きたみたいで、忙しいようなんで来てみたまでだ」
「ああ、そう」
「よっこいせ」
少年が隣に腰を下ろす。
あっ、と少女が声を上げた。
「勝手に横に座るな」
「お邪魔するよ」
「…………依頼内容は知ってるか?」
「お嬢様の無聊を慰める、だっけ」
「使用人が伝える予定だけど、オマエに興味が無いから帰って良いぞ」
「ああ。ならここでゆっくりする」
「はあ?」
「詳細な依頼内容は、ここで二刻ほどお嬢様の相手だ。その間は屋敷の中を自由に行動して良いらしい」
「だから」
「二刻ほど暇になったし、少し遠くから来たんで休ませてくれ」
「話を聞けよ」
「……………」
「おいっ」
少年が鳥の巣を見上げる。
一顧だにしない様子に少女は苛立ち始めた。
少年の振る舞いは依頼人に対する態度ではなかった。
明らかな非礼である。
――さっきのように潰してしまおうか。
少女は少年へと手を向けた。
ふと銀の瞳がようやく振り向く。
「うん?」
「オマエ、潰すぞ」
「物騒なこって」
「…………良いのか、本当に――――」
「おい、あれ」
「あ?」
「もしかして鈴銅?」
「えっ、あ、アヲル?」
少年が庭園の一画を指差す。
凄んでみせた少女の険相が驚きに解ける。
指し示された方向に視線を向けた。
「…………それがどうかしたのかよ」
「いや、最近だがあれの手入れをやらされたことがあってさ」
「はあ?傭兵なんだろ、オマエ」
「色々あってな」
少年が肩を落としてため息をつく。
疲労の色をた多分に含んだ長嘆だった。
「何があったんだよ」
「おまえに話してもなぁ」
「オレが話せと言ってる、話せ」
「興味無いんじゃなかったのか?」
「はあ?―――あっ」
少年の指摘にどきりとする。
たしかに、つい先刻に言った言葉だった。
少女は視線をさまよわせて、言い訳を考える。
だが。
この時点でますます混乱の坩堝に陥っていた。
誰かに有無など言わせない。
常に自他共に直截的な言葉だけを吐いて生きてきた少女からすれば、目的を達成するために迂遠な言葉などで事を運ぶ能力は養われておらず、嘘をつく経験を損なっている。
少年の苦労に興味が湧いていた。
ところが。
自分の発言で首を絞めている。
「う、えーと、あー」
「面白いほど分かりやすいな」
「く、だ、黙れ!」
「そうかい、なら話さないでおく」
「うっ、うぐぐ…………!」
「ん、なに?」
にやり、と少年が意地悪く笑う。
不愉快――なら、いっそ潰してしまうか。
でも、聞きたい話がある。
興味を引く物が少ない環境で得た新たな刺激を前に、少女はそれを消してしまうことを厭うていた。
聞きたい。
そんな簡単な言葉が出ない。
「い、いいから話せ」
「どうしようかね」
「は、話せ〜!」
「うお、ちょ」
少女が少年の肩をつかんで揺する。
慌てる少年のことなど構わず全力で訴えた。
「わかったから離せ」
「本当か?」
「やれやれ、わがままなお嬢様だ」
駄々を捏ねる彼女に。
少年の方が折れて両手を挙げた。
ぱっと少女は顔を輝かせて手を離す。
わがままなお嬢様。
隠れて使用人や家族が少女を指して使う卑称だったが、少年の口から出た同じ言葉は不快ではなかった。
少年をじっと見つめる。
「まずどこから話したもんか」
少年はそんな内心など知らずに語り始める。
内容は、少年の日常だった。
物語にするのが躊躇われるような、少女が呆れるような話である。
だが、それは今まで招いた人間たちの勇ましい戦話や、絵本に描かれる英雄譚よりも刺激に満ちていた。
それがなぜかは少女も分からない。
ただ、時間も忘れて話に聞き入っていた。
二人のいる縁側に夕日の光が指す。
「む、そろそろ日が暮れるな」
「え、ああ本当だ」
「なら、話はここで終いと」
「えー」
「文句言うな」
「なら明日も話しに来いよ」
「俺は次の仕事があるから、明日にはこの街を発つ」
少年はにべもなく断った。
誰もがその要請には首を縦に振る。
今まで言われたことのない栄誉ある要求に対して、だが少年は報いる気概を微塵たりとも抱えていなかった。
今日で幾度目かの驚愕に少女は固まる。
その様子に少年が笑った。
「案外悪くない仕事だった」
「え?」
「大人というか、人は基本信用ならない。子供の話し相手にしては羽振りが良いから受けたけど、本当は子供の面倒も億劫だ」
「…………」
「またいつか話に来てやるよ」
「っ、い、いつだ?」
「まあ、しばらくは無理だ。半年ほど待て」
「うわ、つまんな」
「じゃあ来ない」
「…………分かった、来いよ」
「金は貰うけどな」
「やるから絶対来いよ」
「了解」
少年が縁側から立ち上がる。
そのまま戸口へ向かって通路を歩いていく。
少女はその後ろを従いて行った。
「なあ、オマエの名前は?」
「うん?」
「名前だよ、名前」
「………そういえば、名告ってなかったな。始まり方が奇妙だったもんだから、すっかり忘れてた」
少年が振り返って微笑む。
「俺はタガネだ」
「そっか、じゃあまた呼ぶぞ」
「人が名告ったら名告り返すのが礼儀だろう。それくらいも弁えてないのか、おまえ」
「オレの名前なら知ってるだろ」
「礼儀ってのはそういうのじゃない」
「…………ヴィータ」
渋々と少女――ヴィータが名告る。
誰かに興味を持ち、誰かの為に妥協した。
今まで消化されることのなかった、人として一般的な経験である物たちを得て奇妙な感慨を抱く。
少年との会話は、あらゆることが多かった。
黙って聞いたり、有り得ないと否定したり、彼が旅の道中に経験した不可解なことについて互いに考察したり。
偏に――楽しかった。
「なら、またな。ヴィータ」
「早く来いよ、タガネ」
「おう、それまで生きてたらな」
多くの初めてをくれた人間。
それは縁起の悪い冗談を言い残して、屋敷を去っていった。




