8
とある街の宿の夜。
空き部屋が無いとあって二人一室だった。
諸用を済ませたフー爺が部屋に戻る。
すると。
室内のほとんどは暗かった。
唯一の灯は文机の上についている。
机上に前のめりのエルノートが、腕を忙しなく動かしては唸り声を上げていた。背中で隠れて見えない手元からは魔素由来の光反応が見える。
暗い室内を断続的に淡い青色が染めた。
そっと寝台に腰を下ろす。
人の重みに軋りを上げたが、その音にもエルノートは気づかない。
――相当に集中しているな。
フー爺は背後で静観することにした。
何かに熱中する。
この旅の最中で、エルノートがその姿勢を見せたことは少ない。
やるべきことの比重が大きい。
そのため、やりたいことができていない。
この質素な部屋を柔らかい魔素の光で彩り、幻想的な風景に変えるほどの力の持ち主は、だが一度たりとて私欲のために威力を揮ったことがない。
すべては、救国のためにある。
エルノート自身が己を抑制しているのだ。
普段の言動の端々に垣間見えている。
果たして。
この少女における幸福とは何なのか。
共にいたフー爺にもそれはわからない。
だが、いつかは叶って欲しい。
身に帯びた責任の重圧に本心すら潰すことなく、たった一人の『エル』を曝け出して、誰かの意思の介在もなく意のままに一時を過ごす。
――そうでなくては壊れてしまう。
そんな予感があった。
「できた!」
「ほう、なら見せてくれな」
「うきゃあッ!?」
フー爺の声にエルノートが跳ねる。
勢いよく立ち上がった際に踵を椅子の脚に強打し、蹴り飛ばした椅子を治すこともせず、足を抱えてその場にうずくまって呻いた。
低く屈んだ彼女の向こう側が露になる。
机の上には――兜が一つ置いてあった。
「これは?」
「あっ、それは…………!」
「なんだい」
エルノートが真っ赤な顔で狼狽した。
動揺のあまり、その口元は開閉を繰り返したている。
フー爺はただ落ち着くのを待った。
「もう、仕方ないなぁ」
「…………」
「はいっ、フー爺!」
「あん?」
エルノートがフー爺へ兜を差し出す。
意図が読めず、半目でそれを睨んだ。
渋々と受け取って、フー爺は兜に視線を落とす。庇の上には、セルメヤスの紋章が刻まれていた。
兜も、未知だが何処かの風土を感じる形状だった。
一見して、作り込まれていた。
「これは」
「えっへん、私が一から作りました!」
「おまえさんが鍛冶の業に通じてたようには見えなかったが」
「鍛冶じゃないよ」
エルノートが木の杖を握りしめる。
魔法使いとして。
それは彼女自身が自らのために作った物だ。
ふ、と赤紫色の瞳が微光する。
エルノートの手元から山吹色の火が溢れ出し、杖の全体を呑み込んでいく。一瞬だけ烈しく燃え上がった後、火の粉となって散りながら火勢が弱まる。
やがて。
その手元に白い杖が現れた。
先刻までの無骨な木の杖とは異なる洗練された外観である。
エルノートがにやりと笑った。
「これが『火翼の加護』だよ」
「ほう」
「私の魔力で燃えた物を死滅させて、一瞬の内に別の型を与えて蘇らせる」
「…………」
「その兜も、元はただの鉄くず。形とか、詳細な部分は私の想像力とか魔力操作の技量に依っちゃうけど」
「よくできてるな」
「そ、そうかな」
「おまえさんにしては」
「フー爺も燃やしてやろうか!」
「てい」
「いたッ!?」
エルノートが冗談で杖を構える。
しかし。
先んじてフー爺の体が動いた。
足払いの要領でエルノートの踵を蹴る。
先刻、椅子で打った部分だった。
たちまちエルノートが涙目で悶絶する。その痛みのほどを推し量って、だが罪悪感など抱かず嗤って見下ろした。
下から恨みを込めた眼差し。
それを躱してフー爺は腕の中の兜を見遣った。
これも、一度は燃えて変形した物なのだ。
たしかに、鍛冶要らずである。
「これを俺に?」
「うん、日頃の感謝のお礼!もうすぐ一年になるし」
「セルメヤスの紋章が刻まれているが」
「さ、さあ、偶然だよ?」
「…………強かな小娘なこって」
フー爺が呆れて嘆息する。
これを受け取って付ければ立派なセルメヤスの兵士。
すなわち。
先日から執念深くエルノートが求めている『輝く剣』第一席の承認と同断である。
日頃の感謝と繕った陥穽だ。
「受け取れんのだが」
その返答に。
エルノートの顔が凍りつく。
だが、すぐに笑顔に変わって身を乗り出した。
「ひ、人の気持ちは無碍にしちゃダメだよ」
「普通に荷物」
「お、想いの分だけ重いと思って」
「必死だな」
「うぐ」
フー爺は騎士になる気は毛頭無い。
それよりも。
前提として兜を付ける気にもならない。
機動力と危機察知能力を阻害してしまうので甲冑の類は平生身にしないことにしているフー爺の戦法にまず合わない。
そして次に、兜の形である。
顔全体を覆い隠すところまでは許容できた。
ただ頭頂部についた羽飾り。
優雅さを付属したかった意図が感じられる。
「俺に騎士は合わんし」
「…………本当に騎士にならない?」
「ああ」
「…………でも」
エルノートが口を噤む。
フー爺は兜を脇に抱えるよう持ち替えた。
「エル」
「……………」
「叶う、叶わないはどうでもいい。まず、自分の本心を口にしな」
「……………叶わないのに?」
「わがままは口にしとけ、まだおまえさんは大人とは程遠いほどの泣き虫な小童なんだからな」
「…………」
エルノートが顔をうつむかせる。
ぎゅ、とその手元は服の裾を握っていた。
「…………くない」
「ん?」
「離れたくない」
「…………」
「もう、独りになりたくないよ」
絞り出すような、悲哀に満ちた声色。
その細い肩が、小さく震えていた。
ぱたり、ぱたりと床を雫が打つ音がする。
「一人で残るの、本当は怖い」
「ああ」
「お腹空くの嫌、一人で起きるの辛い゛、静かなの無理、おはようって言ってくれないと不安になる、おやすみって言って寝かしつけて欲じい」
「うん」
「私、子供なんだもん…………!」
一つずつ吐露されていく。
新たな王としての期待。
失望された瞬間を予想した未来への恐怖。
その二つの為に身を粉にしなくてはならないことへの不満と、その過程で味わう辛酸の数々がまだ成長しきっていない童心を容赦なく押しつぶそうとしていた。
その苦痛にもずっと堪えていた。
ただ。
投げ出せるものなら投げ出したい。
ただの子供になりたい。
そんな願望が、重圧の分だけ大きく胸中にて成長していたのだ。
誰にも共感はできない。
彼女だけの痛み。
「私、頑張ってるもん」
「ああ」
「でも、できないことだってあるし…………そんな、セルメヤス全部背負えるくらい強くないもん」
「たしかにな」
「もうずっと、エルで良いのにぃ…………!」
エルノートが前に進み出る。
伸ばした手でフー爺の前身頃をつかんだ。
額を彼の胸に押し当てて嗚咽する。
「エル」
「ひぐ、ぅっ」
「たしかに、おまえさんを見ていてもセルメヤスの未来を背負えるほど強いとは思えん」
「うん゛」
「でも、おまえさんは充分に強いよ」
エルノートの体の震えが止まる。
顔は上げないが、当惑している感情だけはフー爺に伝わっていた。
「おまえさんは逃げなかった」
「……………」
「逃げるも良し、立ち向かうも良し。俺が、他人が選択肢として逃げる道を示した…………誰かに認められれば、そりゃ安心して逃げ道に駆け込める」
「……………」
「だが、おまえさんは立ち向かってる。
嫌と言いながら、恐れながらも未来の為の研鑽を積んで、セルメヤスから目を背けていない」
「…………弱いよ」
「エル」
フー爺がエルノートの肩をつかむ。
それから身を屈めて目線の高さを合わせた。
泣き腫らした顔と正面から向き合う。
「おまえさんに剣はあるか?」
「剣?」
「何をやっても曲げない、折れない、貫き通すって志のことだ。それは自分と向き直らない限り、曇りっぱなしで見えやしない」
「…………フー爺の、ひとたび救ったら最後まで責任を持つってやつ?」
「それもそうだが」
「だが?」
「俺の剣は、『誰かを幸せにする剣』だ」
フー爺が指でやさしく涙を拭う。
「幸せにする、剣」
「己だけの剣」
「私には、無い…………かも」
「その様子なら見つかりそうだな」
「そうかな?」
「きっとな」
「見つからなかったら?」
「見つかるまでは俺がおまえさんの剣になってやろう」
「……………え?」
エルノートが戸惑いに小首を傾げた。
フー爺がその反応に微笑む。
「俺は立派な人間じゃねえ」
「……………」
「それでも、どうしようもないときに俺を支えてくれた剣たちがあったように……………自分だけじゃ立てないときに、誰かの姿を、考え方を、思いを己の芯に据えて剣にすることもできる」
「誰かを、剣に」
「おまえさん自身の剣が見つかるまで、見つかった後も危険なときに、俺がおまえさんの剣になろう」
「……………騎士には、ならないのに?」
「ああ」
「独りにする、くせに?」
「そうさな」
フー爺が兜を床に置く。
それからエルノートの頭の上に手を置いた。
「俺は『輝く剣』第一席」
「えっ」
「名ばかりの騎士フラガラッハ――ってな」
「……………」
「身を守る剣にはならずとも、おまえさんが辛いときにも寄り添えないが、名だけでも、俺のおまえさんに対する想いだけでも胸に刻んでくれな」
「胸に、刻む?」
「おうとも」
「……………」
「おまえさんが暴君になろうが、暗君になろうが…………ただの小娘になろうが、俺はおまえさんの心と共にある」
フー爺がエルノートへの宣誓を告げる。
責任を負わない、名だけの都合のいい話。
どこまでも身勝手で、寄り添わないくせに味方であると嘯き、甘い言葉を囁く。
度し難いほど愚かで、怒りたくすらなる。
なのに。
「ふ…………ふはっ」
エルノートは思わず笑みがこぼれた。
責任重大な自分に、責任を持たない騎士。
その味方は、存在そのものが対照的で嫌味のようにする感じる。
けれど。
無責任だけど、そばにいてくれる。
自分に、責任を負わないという逃げ道の形を示してくれる。心に寄り添い、常に余裕を生むためのモノとして在ってくれる。
そんな奇妙な在り方に、笑うしかなかった。
自然と、心が軽くなる。
「フー爺、恨むからね」
「そのための剣だろ」
フー爺が兜を持ち上げる。
「これは受け取っておく」
「……………」
「それが、俺なりの誓いの証だ」
エルノートはその一言に微笑んで、フー爺の首筋に抱きついた。
受け止めた彼の手が、後頭部をあやすように優しく撫でる。
やはり、慣れている。
自分をどこまでも、子供扱いしている。
だからこそ、安心できた。
エルノートは嬉々として身を委ねる。
「フー爺」
「うん?」
「ありがとう。…………あと許さないから」
「まあ、方々に恨みを買いすぎて今さら一つなんぞ些事だ」
「あー、さっそく先刻までの言葉が軽くなるようなこと言ってる。こうなったら末代まで恨んでやる」
「死んだ後までは勘弁してくれな」
エルノートがくすくすと笑う。
その日の夜、彼女は手に人のぬくもりを感じながら、朝まで夢も見ないほど深いふかい眠りについた。




