小話「底識れず」転
一週間後。
湖畔は例年を超える賑わいである。
雨音すら歓声に淘汰されていた。
降雨の中で大勢の人々が躍動している光景は異質であり、報せを受けて足を運んだタガネは丘の上からそれを目にして唖然とする。
そして、ふと湖の変化に気づいた。
桟橋から。
一つ、二つ、三つ…………綱で結ばれた船が連結し、雨で霞んだ湖の中央へ蜿蜒と続いている。
船による列の終端は見えない。
ただ、一目で理解した。
安定の足場――では無いがその意図を感じる。
おそらく、針がかかった瞬間から格闘と移動を並行して行い、最終的には陸地での対決へと事を運ぶのだろう。
そのために船が繋がれているのだ。
戦場は整っている。
あとは装備――ヌシを相手取れる強靭な釣竿を見繕うだけ。
だが。
尾の一振りで船が四散する膂力がある。
タガネの知識内では、竿一本でやり取りの能う範疇に収まる敵ではない。
先日のダグラの言葉が気懸かりだった。
本当にそんな釣竿があるのか。
「お、銀の小僧だ」
「うん?」
湖畔の周囲を固める人集りの中から声がした。
その途端、一斉に視線がタガネへ殺到する。
嫌な予感を覚えたタガネが後退るや、騎馬の大行進もかくやといった足音を踏み鳴らして、大勢が囲むように募った。
退路を塞がれて足を止める。
「遂に来たぜ、この日が」
「期待しとるよ」
「今日、伝説を打ち立てようぜ!」
「私たちも協力するわ!」
全方位から期待の眼差しが注がれた。
老若男女問わずヌシ釣りへの熱意を燃やしている。
一人で相手取るには心が折れそうな熱量の意思を感じて、タガネは引き攣った笑みを返した。これが平時なら傭兵として練り上げた己の迫力で一蹴――自身の悪評を用いた不本意な手段ではあるが――できたが、出端を挫かれた今では効力の発揮など望むべくもない。
ともあれ。
一見して皆がヌシ釣りの達成を望んでいる。
おそらく舟などを都合したのも彼らであり、一丸となった働きでタガネは戦えるのだ。
――借りは返さんとな。
タガネは自身の持つ最低限の良心に懸けて誓った。
「ダグラはどこにいる?」
「もうすぐ来るぜ」
「ああ、おまえさんか」
背後から声がかかる。
振り返れば、今回のヌシ釣りの発端でもある中年の男性か立っていた。
タガネに対して笑顔で手を振る。
「どうよ、調子は?」
「体調やらについては問題無い」
「体調は、か」
「問題は獲物の力に耐える糸と竿だ」
「それなら心配無用」
「本当かよ」
「それより、逆にタガネの方が心配だぜ?そのまま湖の底まで引きずり込まれないか不安だぞ」
「なに、力なら自信がある」
「本当か?」
男性が挑発的な笑みを浮かべる。
嘆息したタガネが片手を差し出した。
意図がわからず、小首を傾げながら握手かと考えて男性が手を握る。――その瞬間、彼の天地が逆転した。
ふわ、と一度だけ浮遊感。
一瞬、タガネが頭上に立って見えた。
そして次の一瞬に男性は背中を地面に強打する。
鈍痛と衝撃で喘ぐ中で彼は理解した。
投げられた、それも一回転。
タガネを挟んで反対側へ――タガネの上をぐるりと回るように投げられたのだ。
とてつもない腕力。
男性は咳き込みながら手元を見る。
自分より小さい手のどこに、こんな力が…………。
唖然としてタガネの手を注視する。
「理解したかい?」
「お、おう」
「使い手の格は、おまえさんから見て適任か?」
「無い、って言ったらまた投げられそうだから無理」
「よし」
タガネが男性の手を放した。
ちらと後ろの様子を肩越しに窺う。
人を掻き分けて来る偉丈夫の姿が目に留まり、にやりと悪巧みでもしていそうな笑みを浮かべる。
輪の中心にいたタガネの前に、釣竿を携えたダグラが現れた。
目の下の隈や充血した目など、体調不良をうかがわせる特徴を含めながら、一週間前よりも迫力がある。
ダグラが片手の釣竿を差し出した。
「間に合ったぜ」
「こいつが例の?」
「硬くてしなやかなメニュレスの木を芯材にした釣竿だ。あと、糸はちと二日ほどの山にいる蚕の魔獣が作る糸を編んだ物」
「魔獣の生成物ってのは数日で消えるが」
「街の魔法使いなんかと経過観察したが、消えるまであと三日。この一勝負を乗り切るだけの根性はある」
「なるほど」
特製の釣竿、その竿先をタガネは掲げる。
昔からある程度の目利きができた。
だからこそ、一目で――これが名剣ならぬ業物の釣竿と呼ぶに値する逸品だとわかる。
タガネはその釣竿を肩に担いだ。
「その仕事に報いる成果がお代ってことで」
「へっ、小僧が生意気を言いよる」
「さて、あとは餌だが」
タガネはため息を吐いて湖を見やる。
「まずは調達か」
「その必要は無いぜ」
「うん?」
「今日のヌシ釣りを街全体で応援する体制が出来ていた。――おまえの餌も、ばっちり準備している」
「は?」
人集りの一部がうごめく。
タガネがそちらを見ると数人が大きな箱を抱えていた。
蓋が開かれると中で暴れる魚の尾がのぞき、水飛沫が上がる。
タガネが覗けば、それはヌシの好物とされる魚ハレヤンガだった。二匹の蛇が絡み合うような模様が鱗上に浮かんだ魚体をしている。
タガネの隣で男性が自慢気に胸を張った。
「数は充分ある」
「…………」
「おまえが折れるまでやってくれ」
「ぞっとするほどの連携力だな」
タガネは戦々恐々として男性に苦笑した。
餌、釣竿、戦場、天気――必要な条件は整っている。
あとは、己の運と根性のみ。
タガネは箱を受け取り、竿を担いで桟橋から続く船の列の上へと飛び出した。
一隻ずつ、渡っていく。
行く手が霧で霞んだ中央へと続く道。
タガネは転倒に気をつけて進んだ。
背後では自分への声援が響いている。これが後のヌシの警戒心を煽ることにならなければ良いが…………冷静にそんな懸念を懐きながらも、内心では己の高揚を感じ取っていた。
タガネは運が悪いという自覚がある。
怪物や怪異な現象の類との遭遇率は高い。
だが。
このときばかりはその性質に感謝した。
思えば、あの三連続の失敗も己とヌシを結びつけるための機運が育まれていたのかもしれない。
必ず会える、そんな確信があった。
「よっ、と」
最後の一隻に飛び乗る。
船底を中心に静謐の湖面に波紋が広がった。
振り返れば陸は見えない。
タガネ以外が排除された、白い世界である。
針にハレヤンガをかけて、そっと湖面へと投じた。ぐいぐいと多少の抵抗はあるが、元いた湖底付近の深さへと潜っていく。
あとは、待つばかり。
「――――」
竿先に気配は無い。
瞑想して、手元へと意識を注ぐ。
「―――――――」
まだ、来ない。
時間が経過するほど、まだか――という焦慮も消えていく。
「―――――――――――」
雨の音以外はしない。
半時が経ったか、それとも半日か。
時間感覚さえもが薄れていく。
「――――――――――――――――――」
頬を打つ雨滴の冷たさが消える。
手元の感覚に、すべてが塗り潰されていく。
白い孤独な世界に溶けるようだった。
「――――――――――………………っ」
ぎしり、と竿先がしなる。
指が折れるような重圧が手元を苛む。
タガネは目を見開いて立ち上がった。
危うく船底を踏み抜きそうな強さで踏ん張って歯を食いしばる。肩から抜かんとするかのごとき力と勢いに耐えた。
――――来た!
釣竿にハレヤンガ以外の重みを感じた。
その瞬間、体の芯から起きた熱が全身へ伝播する。
待ち望んだ対決開始の合図。
ここを耐え抜いて、相手を弱らせる。
暴れるほどに体力を失い、ヌシの攻勢は衰えていく。その間に移動を開始し、いつか陸で本領を発揮する頃には虫の息かもしれない。
とにかく――いまは耐える。
「ふんぐぐぉあああ――――…………?」
万力のようなヌシの力に抗う。
雄叫びを上げて踏ん張ったタガネの手元から――急に抵抗力が消えた。
逃げられたか?
そんな危惧が脳裏によぎる。
「くそ、なら次の一尾…………を?」
タガネは竿先を見る。
糸が、だんだんと弛んでいく。
引っ張られて、ぴんと張っていた糸がだらしなく湖面にくたびれる。
理由を推し量って――すぐに察した。
タガネは隣の船へと急いで飛び乗る。
「うおッ!?」
背後で一隻が爆散した。
飛沫と木片が舞い、大きな影が湖面を破って伸びており、即座に水中へと戻っていった。
一瞬捉えたその影。
間違いない、巨大な魚の尾だった。
尋常ではない威力と大きさは、間違いなくこの湖の常識すら外れた魚である。
紛れもない――ヌシとしての威厳。
それを尾から感じていた。
まさか、餌にかかって急上昇して船を襲うとは考えてもおらず、タガネは唖然とする。
「うん?…………船を砕くってのは」
このとき。
タガネはダグラの話を想起した。
ダグラとあの男性の祖父は、釣ろうとした際に船を尾の一振りで攻撃されている。
まさか。
糸を辿って、相手そのものを潰す。
魚らしからぬ手である。
知性がある魚など、と考えて頭を振った。
いや、相手はヌシである。
常識で推し量ってはならない。
「小賢しい」
船の横の湖面がふくらむ。
タガネはさらに後ろの船へと飛び退いた。
一瞬だけ遅れて尾が船を飲み込む。
内側にヌシの影を孕んだ波によって、先刻まで乗っていた船が真っ二つに叩き割られた。
飛び散る水を払って。
タガネは戦慄しながらも笑う。
「どっちが先に折れるか、だな」
釣竿を握り直して。
迫り来る尾を躱しながらタガネは再び決意を固めた。




