8
フィリアは高台に到着した。
胸中で渦巻く感情に急かされて来た道中の記憶はおぼろげで、ただここに着いた途端に冷静になった。
肩で息をするミスト。
彼女に振り返って手ぬぐいを渡した。
「す、すみません」
「やっと戻りましたか」
ミストは汗を拭いて胸を撫で下ろす。
杖で軽くフィリアの頭を小突く。
痛くはないが、体の中を巡る微熱を感じて心が安らぐ。杖の先端から、叩いた頭へと淡い光の線がつながっていた。
安心感の正体はミストの魔法。
フィリアはほう、と細く息をつく。
「精神安定の暗示です」
「あ、ありがとうございます」
「……一つ、いいですか?」
「はい?」
ミストの険しい面持ちに。
フィリアは顔が強張って背筋を伸ばした。
「周囲を見て下さい」
ミストに促されて高台を見回す。
銀の首飾りを付けた人間が複数いた。
ただ、誰もが凝然と虚空を見上げており、その瞳に生気の光が窺えない。人形のように突っ立っている。
そして。
この高台に食事会の催しがあると聞いた。
しかし、食卓も無ければ料理も無い。
ただ海を眺望する長椅子が二つ設置されたたけの広い空間だった。
ミストの杖から光が消える。
「この高台」
「はい?」
「奇妙な魔力反応を感じます」
「奇妙な?」
「主に……あちらから」
フィリアは海の方を見る。
間近の海上に頭を高く掲げる積乱雲が立ち上がっていた。夕日に照らされていない半身の黒い様は、禍々しさすら醸し出す。
時折、海に雷光をまたたかせる。
フィリアの体の芯がうずく。
また既視感。
同時に、恐怖が背筋を舐めあげる。
ただの雨雲ではない。
無いはずの既視感――否、記憶が警告している。
一刻も早く逃げろ、と。
不穏な予感が胸を騒がせる。
「食事会というのが怪しい」
「ミスト、さん」
「首飾りからも魔力反応が……」
「ミストさん!」
思索するミストを必死に呼ぶ。
その声から切迫感を覚えて、彼女が思考を中断して顔を向ける。
「何ですか?」
「早く逃げ――」
そのとき。
海上で雷鳴が轟いた。
高台に集まっていた人間たちが、一斉に両手を広げて空を振り仰ぐ。その挙動を不審に思って、ミストもまた頭上を鋭くにらんだ。
胸騒ぎがする。
ついで耳鳴りまでもが聞こえてきた。
全身が警告を発している。
フィリアも、ゆっくりと空を見上げて。
「――あ」
空を覆う巨大な影を見た。
その背後で雷光が炸裂して目がくらむ。
瞬間の後。
フィリアの意識が暗転した。
遠くから音がする。
ごとん、ごとん。
音がする都度、体が下から衝撃を感じた。
フィリアは瞼を開ける。
そこは、荷物が積まれた幌の中だった。見回してみれば馬車なのだと察する。
積まれた荷物の隙間から這い出る。
車内にこもっていた湿気で、褐色の肌に浮いた汗を手ぬぐいで拭いていき、乱れた短い黒髪を指で梳いた。寝ぼけ眼を手で擦り、改めて翡翠の眼差しで周囲を見回す。
なんだか既視感がある。
――何故だろう?
フィリアは疑念に小首を傾げる。
肩を回して凝った体をほぐした。
「もう、大街道ですか?」
「ああ、そーだな」
荷馬車を走らせる男に問う。
彼は気だるげに応えてた。
「港町まで、もうすぐだぞ」
「そうですか」
フィリアは肩にかかる髪を払った。
その下で耳飾りが光を反射する。
男がそれに目を眇めて、視線にきづいたフィリアは慌てて手で隠した。誤魔化すように車体の後方へと振り向く。
「はあ、全く」
先頭から男のため息。
「やっぱ、そういう時期か」
「…………すみません」
「もう良いよ」
フィリアは神妙な面持ちでうつむく。
そのとき。
荷馬車が緩やかに停止した。
先頭で男が誰かと話している。フィリアは身を乗り出して耳を澄ました。
そして。
思わず息を止めた。
「何だ、小僧」
「この先にある港町に行きたいんだが、この日差しで困ってる。どうか俺も運んでくれんか」
「何用で」
「人探しでね」
荷馬車の横に少年が立っていた。
光る銀髪に、剣を帯びた風采である。精悍な顔立ちの奥に、どこか剣のような冷たさを湛えていた。
不思議な雰囲気の持ち主。
嘘だと思った。
「金は払う」
「なら、構わんが」
「どうも、助かるよ」
そう言って。
少年は荷馬車の横から退くと、回り込んで後部から身軽に車体へと飛んで荷台へと乗り込む。車体が大きく揺れて、フィリアは小さな悲鳴を上げた。
それに気付いて。
少年がフィリアの方を見た。
「いけねぇ、すまんな」
少年が小さく面前に手を挙げて謝る。
フィリアも頭を下げた。
「いえ」
「悪いが同車させてもらうよ」
「ええ」
銀髪の少年がその場に腰を下ろす。
「おまえさん、どちらへ」
「この先の港町です」
「へえ、奇偶だね」
少年が意外そうに目を見開く。
胡座をかいた膝の上に剣を乗せて、灰色の瞳がフィリアを真っ直ぐに映した。この視線も懐かしく感じる。
獰猛な獣に見つめられたような緊張感を覚えて、彼女は思わず背筋を伸ばす。
少年はそれに構わず。
「俺はタガネ、傭兵をしてる」
「あ、フィリアです」
お互いに名乗る。
初めて交わした名なのに、聞いた記憶があった。
フィリアは、ちらと彼を盗み見る。
剣士タガネもまた、フィリアを見つめていた。
「何だい?」
「いえ……その」
「うん?」
しばしの逡巡の後。
まなじりを決して口を開いた。
「お会いしたよね?」
タガネが片眉をつり上げる。
顎に手を当てて考える仕草をし、黙り込んだ。深く考えなければならないほど思い当たる節が無い。それが既に回答だった。
やがて。
タガネが首を横に振る。
「薄情かもしれんが、恐らく初対面だ」
「………そんな」
「……?」
訝るタガネの眼差しをかわし。
フィリアは荷馬車の前へと体を向けた。
まさか。そんな、まさか。
そうして。
馬車は大街道をふたたび進み出した。




