──After『シュリー』②
初めての世界。
それは価値観の一新に大きな役割を担う。
だが、必ずしもそれが良しとはならない。
何より、誰かに従うことで人に貢献することしか知らないシュリーにとっては混乱の連続で、まだ多感な時期ながら自身を抑制するきらいのある彼女には荷が重かった。
それでも。
従来の性質に流され従い続ける。
将来の皇后――メイの無茶にも身を尽くした。
ただ、慣れない環境と内にある混乱による精神への負荷はかつてないほど大きく、抱えた負担がある日とうとう体を壊すほどに達した。
メイの厚意もあり。
慣れ親しんだ男爵家で養生することとなる。
だが、帰ったシュリーに対する家の反応は、ひたすら苛烈な罵詈雑言を浴びせることだった。
皇后の目に適った好機。
政治的な効果も見込めた紐帯ができた矢先で、体を壊してしまう事故にも、当主は容赦なく『役立たず』と罵った。
このとき。
幼年から蓄積した物が暴発した。
異を唱えず、従順に従う。
誰かの為に、ただひたすら働く。
自身の願望は抑え、流れに身を委ねてきたシュリーの精神は、その傾向に慣れたわけではない。
己を誤魔化して、痛みを錯覚させていた。
ただ。
発散される機会は無く、積み重なって行き場を失って蟠っていただけである。
それが――遂に発露したのだった。
『シュリー?』
『…………皇女様』
体調が回復した後。
専属侍女にふたたび従事していた。
男爵家の名を耳にすると体が拒絶反応を示すほどに心的な負傷を受け、彼女は侍女の仕事に没頭した。
メイがその事情を知ったのは、およそ一年後。
外見に変化は無い。
ただ、時折その顔に垣間見える表情が人形のように何の感情の色すら映さない瞬間があった。
異変の兆しと読み取ったメイが調べさせた結果、シュリーの身の上を知るに至ったのである。
『顔色が悪いわね』
『いえ、そんなことは』
『ねえ、シュリー』
『はい』
『これは提案なんだけど』
『…………?』
『あなたに新たな家名を授けて、代々皇后の専属の使用人となる一族になる気は無い?』
『私が?』
『そうすれば私とずぅっと一緒よ。――どう?』
『し、しかし』
『あんな家のことなんて気にしないで。私のシュリーを貴方たちなんかにあげない、って文を叩き込んでおいたから』
『な、なんてことを』
『私の大好きなシュリーをこんなにしたんだもの。あ、体が不安なときはしっかり言ってね、休みは取らなきゃダメよ?』
『…………どうして』
『ん?』
『どうして、私だったのですか』
シュリーが怯え気味に訊ねた。
あの生誕祭の宴会。
シュリーはメイに近づきすらしなかった。
直接言葉を交わしていないにも関わらず、初見でメイはシュリーを選んだ。
接点はその宴会以外まるで無い。
甚だ選ばれた理由が疑問だった。
『そんなの決まっているわ』
『…………』
『会った瞬間に、こう…………背筋が痺れたの。少し言い換えると、天啓かしら…………この子、私の運命だわ!ぜったい友だちになれるって』
『え゛』
『それだけなの』
シュリーは唖然とした。
理屈らしい理屈など皆無である。
ただ。
理屈ではなく、道具目的ではなく――『シュリーそのもの』を求めた。
シュリーにとっては、幾度目かの初体験。
だが、その衝撃はこれまでで最も大きかった。
『だから、シュリー』
『え?』
『仕事じゃなくて良いの。あなたが話したいこと、あなたがしたいことをして。私、それをやってみたい』
『で、でも………そんなの考えたことが無く…………』
『いずれ、よ。そもそもシュリーは遊びを知らなさ過ぎなの』
『遊ぶ…………』
『だから、先ずすべきことがあるわ』
『すべき、こと』
シュリーがうんと頷く。
『城からの脱出よ!』
『…………………………はい?』
喜色満面の笑みで告げられた内容に、シュリーは初めて――他人に呆れる、ということを体験した。
おまけ「レインはお姉ちゃん」
復活を遂げて四年。
レインは剣爵領地で悠々自適に暮らしていた。
任務帰りともあり。
墓碑の前の剣を抜きに来る者たちに高度な幻惑の魔法で不在を誤魔化し、セインから持たされた弁当を、タガネの膝上でぱくついている。
いわば。
レインとしても久々の休暇だ。
「タガネ」
「何だい」
「レイン、すき?」
「ほれ、口についてるぞ」
「ん」
タガネの手が口元に触れる。
口周りについていた食べかすを落とした。
レインは快く身を委ねている。
やがて。
弁当を感触したレインが再び振り向いた。
「タガネ」
「うん?」
「アヤメより、レインすき?」
「さて、どう思う?」
タガネはレインの頭を撫でた。
明確な答えが貰えず、レインは頬を膨らませる。
――また、はぐらかされた。
タガネの手をつかみ、甘噛する。
「うー」
「おう、痛えいてえ」
タガネが笑いながら痛がってみせた。
剣を振り続けた人生を表すように厚い手の皮は、レインの歯を押し返さんばかりに固い。
恨めしげに水色の瞳がタガネをにらむ。
「レインは、アヤメが好きかい?」
「タガネ盗る、きらい」
「そいつは難儀なこって」
タガネがうん、と唸った。
「レインは俺の妹みてえなもんだ」
「いもうと」
「アヤメは、俺の娘」
「むすめ」
「てことは、レインはアイツの叔母ってことになる」
「おば?」
「つまりは、お姉さんってこった」
タガネの説明に、レインが目を見開く。
お姉さん――その響きは新鮮だった。
レインは魔神教団の巫女で、末妹だったが為に下には誰にもいない。
つまり。
自分は、セインのようになったのだ。
歳上で、落ち着いていて、少しカッコいい。
「レイン、お姉ちゃん?」
「おうとも」
「…………」
「父上、探しましたよ!」
快活な声が背後からかかる。
二人で振り向けば、そこにアヤメが立っていた。
目を輝かせて、タガネを注視する。
それに対して本人――タガネは、にやりと笑って膝上のレインを抱えると、アヤメの前に下ろした。
「今日はレインが遊んでくれるとさ」
「えっ、レイン様が?」
「そう、レイン姉さんがな」
「姉様」
ちら、とアヤメが見やる。
そこには。
セインほどの外見年齢へと肉体を成長させたレインが立っていた。水色の光彩を帯びる艶やかな銀髪を風に靡かせ、黒いドレスの裾が髪とともに揺れる。
アヤメは思わず見惚れて数瞬の間を忘我した。
普段のレインの印象。
それは近寄りがたく、神秘的な存在だった。
何より、外見は自分よりも幼い。
そんな人が、目の前に自分よりも大人びた姿で立っている。
「お、お姉様だ…………!」
「レインはお姉さん、だから遊んであげる」
「い、良いのですか!」
「大丈夫、だってレインはお姉さんだから」
セインが胸を張って告げた。
外見は成長しても、精神年齢まではまだアヤメと同等に思えたことを、タガネは口にせずそっと胸の奥にしまった。
レインがアヤメの手を引いて歩んでいく。
その背中を見送りつつ手を振った。
「こりゃ、比べようがねえな」
この日以降。
時折レインはアヤメと何処かへ遊びに行く日が増えるようになった。




