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朝露に濡れる谷間の薄闇。
洗練された河原の石を蹄が叩く。
楚々と流れる清流のそばの木陰には、水を飲みにきた鹿の群れが集まっていた。水面を食むように流水で口をすすぐ。
水分補給を終えると、葉肉に露をつけた草へ殺到する。
ふと。
一頭の雄鹿が首をもたげた。立派な角は大樹の枝のように手を広げている。
その体躯もまた大きい。
集団を率いるに相応しい威厳を備えていた。
周囲を眺め回すその雄鹿の動きが固まる。
近くの河岸の岩影に目を細めた。
警戒にわずかに毛が逆立つ。
河原から前足が一瞬だけ浮いて。
転瞬。
岩影に微かな光の閃き。
それを視認した雄鹿の頭が矢に射抜かれた。
「獲った!」
「へえ。こりゃ美事」
歓喜と感嘆の声。
河原に雄鹿が倒れ、それを合図に鹿の群が一斉に散った。
岩影から二人が顔を出す。
一人は弓を掲げたマダリ。
もう一人は、剣を手にしたタガネだった。
そそくさと河原に飛び出す。
マダリは雄鹿に寄るなり、その腹を短剣で捌き始める。たいがいの獣肉は獲ってすぐに処理を済ませないと臭みが出る。
臓物を取り出し、肉を水で洗う。
河が近いのは好都合だった。
流れるような手際でマダリは肉を片していく。
「手慣れてるな」
「そりゃ元山賊だもんな!」
「ふうん」
タガネはそれを隣で観察した。
まだ断末魔の痙攣も無い鹿の肢体。
マダリの鮮やかな一射で苦悶もなく息絶えたらしく、その顔は穏やかだった。
これが山賊の狩猟の手練か。
「これで今晩は困らないだろ」
「ベル爺は胃もたれするかもな」
「えぇ、よわ……」
マダリが顔を引き攣らせた。
そして、その話題に呼応したように。
「おお、何か捕れたかのぅ」
対岸の河原で老人が手を振った。
大魔法使いベルソートである。杖に股がって、河の上を横断してそばに着地した。
ふわり、とそよ風が起きる。
「鹿肉が獲れたぞ」
「ワシ、羊肉の方が好きじゃ」
「そんなこと言ってくれるな。マダリが頑張って仕留めたんだぞ」
タガネはそう言って。
マダリの頭にやさしく手を置く。
すると、マダリが含み笑いを漏らした。誇らしげに鹿の脚を持ち上げてみせる。
ベルソートがむう、と小さく唸った。
「我慢するしかないのう」
「おまえさん何様だよ」
「年長者は敬うのは世の礼節じゃ」
「爺の文句に付き合ってられんよ」
悄然とベルソートがうなだれる。
タガネはマダリから受け取った肉を汀に持ち運んで、一つずつ水で洗った。
血で清水に赤い靄がにじむ。
手元を真っ赤にしたマダリが顔を上げた。
「ベル爺、今晩は鍋だよ」
「な、何じゃとぅ!?」
「胃に優しいから食べてくれよ」
「おうおう。善き子じゃ、善き子じゃ」
「お調子者め」
ベルソートが歓喜する。
マダリの顔を手ではさむように撫でた。
戯れる二人を肩越しに見て。
タガネは嘆息混じりに悪態をついた。
灰色の瞳が頭上を振りあおぐ。河原に手を伸ばす梢には、おびただしい蜘蛛の巣が張られていた。
放射状に広がる銀の糸。
その網の目を、赤黒い異形の影が這う。
タガネは苦笑した。
この谷に来て、はや六日が経つ。
毒虫の活動が活発化している。
六日前、鐘の音を遠くに聞きつつ、マダリを連れて村から脱出した。その後は、対岸の山の置くにある山賊の小屋に身を潜めている。
現在は誰も使っていない。
元は、マダリの属していた山賊の住処である。
好都合なので利用していた。
「ほら、帰ろうぜ」
「そうじゃのぅ」
マダリが肉を麻袋に入れて立つ。
ベルソートは浮遊した長杖に乗り、その端に鹿の皮をくくり付けていた。
何とも器用。
感心しつつ、タガネも彼らと共に河を渡る。
「なあ、おっさん」
「あん?」
「こわ」
おっさん呼ばわりに。
タガネが険相で振り返った。
「本当に、デュークは……」
「ああ、かなりの悪人だ」
「そっ、か」
マダリが顔を暗くする。
タガネはかける言葉が出ず、その煩悶をごまかすように後頭部を掻いた。
山頂の実態を伝えた。
デュークは魔神教団司教であり、彫像たちは彼が崇める魔獣によって石化した人間たち。その中には、マダリのいた山賊もいる。
マダリが小さく失笑した。
「おいら、捨てられたと思ってた」
「……」
「どっかの戦争に参加するらしくて、みんな俺を小屋に置いて行ったんだ。最初は待ってたけど、日が空いてく内に不安になった」
マダリの目が虚ろに空を見上げた。
「そん時、デュークと姉ちゃんが拾ってくれたんだ。河で狩りしてるときに」
「そうか」
「でも、親父やみんなは魔獣の餌になってたんだな」
包み隠せない悲嘆。
それが幼いマダリの声音を染めていた。
ベルソートが後ろの山を振り仰ぐ。
「様子からして、蛹まであと七日じゃのぅ」
「それまでに」
「ああ」
タガネは隣を見た。
マダリの瞳の奥で、ほの暗い感情の焔が滾っている。危険な色を孕んでいた。
仲間の仇討ちだろう。そのために、デュークと戦う。
その覚悟する姿が痛々しく見えて。
タガネはマダリから視線を外す。
「ヤツを討つ」
「だが戦力が足りんぞ」
「ベル爺も参加してくれな」
「魔神とは縁があるんでのぅ……」
ベルソートが腕を組む。
首を横に傾けて苦しそうに顔を険しくした。
「今回だけじゃぞ」
「助かる」
「だとしても戦力が足りんぞい」
「……まあ、確かに」
ベルソートが加勢する。
これだけでも破格の好条件だが、さらに障害があった。
大魔法使いは、実力的にも魔獣デナテノルズを担当する。そうなれば、その間にデュークなどの露払いをする人員が必要だった。
ベルソート曰く。
「村人と偽装しとるが、あやつらも信者。一人ひとりが手練れじゃ」
村人全員が戦の達者な連中。
タガネだけで抑えられるかは微妙だった。
対抗するには、同時に相手取ってくれる協力者が必須。しかし、そんな物を補給する宛はタガネにも無い。
村人は二十人。
せめて十人ほどは欲しい。
しかし、七日以内に集まる保証すらなかった。
やはり。
決死の覚悟で闇討ちを敢行するか。
タガネが剣呑な決意を固めようとする。
その横で。
「おいらに任せろ」
「うん?」
「何じゃと?」
意外にもマダリが胸を叩いた。
二人は怪訝に眉をひそめる。
「宛は、あるのかい?」
「もちろん!」
それでもマダリは揺らがない。
自信満々の相で。
「とっておきさ!」
自らの妙案を叩き出す所存だった。




