小話「戸紛い」⑴
他者からの心遣い。
それは人の心から心へと伝わる。
だが。
ときに煩わしく思うときがある。
ときに恐ろしく思うときがある。
そんなとき、人は戸を立てる。
塞ぎ込み、欺き、偽り、隠すために。
そうしてひっそり、本心は窮屈に息づく。
雪解けの水が大地を洗う。
風に晒された土から芽が頭を覗かせた。
大地も獣も。
いまだし微睡むほど空気は温かい。
刺すようだった寒気が和らぎ、穏やかさで包むような陽光が楚々と地上を照らす。
息を吹き返していく自然。
その気配を感じ取る季節となった。
少年は、春の到来を悟りながら森を歩む。
泥濘んだ土で滑らないよう注意を払う足運びで、険しい山道の道行きに堪えた。
痩せた梢から差す陽。
まぶしそうに銀の瞳を細める。
「やっと、ここか」
襟巻きを解いて。
風を受けた頬を引き攣らせる。
懐中から取り出した地図を眺めた。
現在地を探して道を指でなぞる。
「予定を遅れたな」
嘆息混じりに呟く。
少年は地図をしまって前を見た。
一峰を降りた先に集落がある。
段を重ねるように耕された田畑と、合掌造りの家屋が立ち並んだ長閑な風景が広がっていた。まだ景色のそこかしこに雪が残っている。
少年は村を眺め回す。
「依頼人の家は、あれかね」
目を凝らして。
遠くの一軒を見据える。
少年は傭兵だった。
この村を訪ねたのも依頼があってのこと。
依頼人との期限には既に遅れているとあり、やや幸先は悪い。傭兵稼業は信頼が最たる物なので、期限内に対面による相談などが行えない場合の信用の度合は低下し、報酬料の減額、最悪は帳消しにされることもしばしばある。
今回は間に合わなかった。
半ば仕事は無くなったと諦観している。
それでも。
「良い村だな」
安穏とした村の空気。
少年は観光にすでに気が向いていた。
緩やかな斜面の坂道を進む。
少し滑る靴がじゃり、と砂を噛んだ。
「おい、アンタ旅人か」
「うん?いや、傭兵だ」
薪木を運んでいた農夫とすれ違う。
彼は振り返って少年に声をかけた。
襟巻きを指で引いて口を出す。
「ってえことは、あの家に用か」
「察しが良いな」
「方々に依頼の文をよく出してんだよ」
「ほう」
「だが、どいつもこいつもお手上げってかえってくんだ。村の連中も事情を知ってるが、アンタも手に負えん厄介事になるぞ」
「厄介事」
「ああ」
少年はうん、と少し黙考する。
「忠告、感謝するよ」
「オレは言ったからな、後悔すんなよ?」
「どうもお世話様」
農夫に手を振って歩み出す。
それから間もなく。
目的の家の戸口へと辿り着いた。
引戸の横の柱を叩く。
「もし」
沈黙。
しばらく待つことにした。
周囲を眺める。
すると、隣に小さな庵が建っていた。
タガネは小首を傾げる。
山からの方角では隠れていたので、見えなかったのだろう。
だが。
「何か、怪しい」
「……………ぁーい」
そのとき、屋内から声がした。
「どちら様?」
「ちと期限を過ぎてしまったが、依頼の文を受けた傭兵のタガネという」
「ゃっと来てくれたか」
戸が開かれた。
薄暗い屋内に青白い顔が現れる。
長身痩躯の男性の笑顔だった。
薄い無精髭を生やした口元から、潰れかけて掠れた声を出す。
少年タガネは怪訝に見つめた。
「おまえさんが依頼人?」
「ぁあ、そうだよ」
「改めて、傭兵のタガネ」
「私はギマ、旅芸人だ」
「旅芸人?」
タガネは目を眇めた。
旅芸人の職能を有する人間。
それが一箇所に留まるのは珍しい。
「失礼だが、この村に住んでるのかい」
「ぁあ、妻と…………娘がいる」
「なるほど」
「私は仕事で家を空けることがぁるんだが、つい一年前に亡くなって、それから娘が…………ぁあ、依頼といぅのはぁ娘のことなんだが」
「すまない、依頼を受けるかは話を聞いてからでも良いかい」
「そ、そぅだよな」
男ギマが意気消沈する。
「ま、まずは中へ」
「ああ」
タガネも顔を苦くした。
依頼の期限を遅れての来訪。
そんな者でも、受注するか否か曖昧な態度を見せると落胆していた。その反応に、先刻の農夫が話していた言葉が脳裏に蘇る。
誰もが諦めた案件。
依頼の難易度の高さが垣間見える。
おそらく数々の敗退していく者たちを見送ってきたあまり、後が無いのだろう。
それでも依頼の文を出すほど。
よほど諦められない理由があるのだ。
――依頼というのは、娘のこと。
その内容が示唆するのは。
「早くも嫌な予感がしてきたな」
小さく呟く。
屋内へと入って行った。
促されて居間の畳の上に腰を下ろす。
勧められた茶を受け取って啜った。
ギマが正面に座る。
「では、内容について」
「娘のこと、だったな」
「……………はい」
「この家にはいないのかい」
「隣の庵にぉります」
「あれか」
タガネは得心する。
「依頼とぃうのは、庵から娘を連れ出して欲しぃのです」
「連れ出す?」
「はい」
ギマは苦しそうに頷いた。




