小話「慈愛の男神」⑵
三月も経て。
船上の生活には慣れ始めていた。
南の海を泳ぐ船体は、しだいに鋭く尖っていく寒気に堪えて軋む。未だ船底がかき分ける海水は滑らかだが、触れれば凍るほどに冷たい。
皮膚が張り付くほど痛い潮風である。
船頭の進む先。
黒い滄溟には氷塊が浮かんでいる。
それが今まで過ごした環境との違いをありありと語っていた。
金物に触れるときには注意が必要だ。
特に、剣士にとっては。
「あれが南大陸かい」
「旦那も奇特なヤツだぜ」
「なに?」
「いや、悪い意味じゃねえよ?」
振り返ったタガネの剣幕に。
船乗りの男は慌てて手を振って否定した。
白い顔をさらに蒼くして震える。
タガネとしては、南大陸を訪れる者を奇特と称する辺りから不穏な含意を察知して表情を険しくしてしまったが、誤解を生んだと理解して呆れる。
緩やかに首を横へと振った。
「南大陸を訪ねる旅人は少ない」
「なぜ」
「氷以外は港と遺跡しかねえし」
「昔は人が住んでたと聞いたが」
「昔は昔。何たって寒い上にヴリトラに荒らされた所為で人なんて寄り付かなくなったぞ」
「遺跡と聞きゃ、冒険者が集りそうだがな」
「そんな時期もあった」
冒険者の活動域。
それは胎窟に限られない。
まだ解明されない歴史建造物は、遥か以前から魔獣が寄生している場合があるため、調査隊などの護衛として雇われることが多いのだ。
薄暗い洞窟のような遺跡。
加えて、どこから脅威が現れるか。
そんな危地だからこそ、同じような状況である胎窟で経験を積んだ者――すなわち冒険者が恃みとされる。
だが。
「今は来て無いのかい」
「最初は危険だからって雇われてたぜ」
「今は違うのかい」
「ああ。何でも、最奥までの地図は完成してるらしくてな。そこまで余さず調査したが、魔獣どころか鼠や虫の一匹もいねえときた」
「そりゃ、寒いしな」
そう返答して。
しかしタガネは顔を曇らせた。
過去にヴリトラが訪ねた土地である。
種によっては魔獣には生き難い環境ではない。
彼らは、少数派とはいえ出身の胎窟から大きく離れる場合もある。人の少ない土地ならばまだしもヴリトラ来襲時とは異なり、すでに人もいる。
果たして。
そこには何が潜んでいるのか。
「あの爺め」
「どした、旦那」
「いや、別に」
小さく悪態をついて。
タガネはコートの襟に顎を隠す。
武装は魔剣と聖剣のみ。
剣爵領地には、レインの認識阻害の魔法によって偽物を置いてある。仮に引き抜かんとする者がいても、大概は重いと錯覚して為遂げられない絡繰だ。
もっとも。
それは五識を幻惑されたがゆえ。
手元は、引き抜くとは反対に地面に深く突き込もうと働くように仕掛けている。
剣聖の伝説。
死後も魔剣を持ち出して仕事に望んでも生存が露見しないのは、そういった偽装があってだった。
そして、他の武装。
晩鐘のコートは一応の用心である。
「何事も無いことを願うがね」
不安に独り言ちる。
そして。
それから数刻を要して港に停泊した。
曇天の下の銀世界。
タガネは全景を眺め回して苦笑する。
「北国よか殺風景だな」
「旦那」
「うん?」
船乗りがそばに駆け寄る。
「これ、遺跡までの地図だ」
「どうも」
「遺跡前にも宿場はあるから、食糧なんかはそこで買いな。行き道は身軽なのが良い」
「道中に何かいるのかい」
「不用心よりは良いだろ」
「ごもっとも」
互いに手を振って別れた。
タガネは南大陸の銀砂を踏みしめる。
ざくりと深く音を立てた。
過去に訪ねた極北の地は、たしかに同じ凍土ではある。だが面積としては、南大陸には遥かに劣る上に、あちらは中心地が島ほどであって他は厚い流氷なのだ。
風は凪いでいる。
この内に進みたい。
隠居後も任務で旅に出ているので、足腰に関して衰えたことはなかった。進路に不如意を感じたのは、崖や谷などのよほど厳酷な土地でしかない。
歩き始めて数十分。
ふと。
タガネの右が風で吹雪いた。
白く煙る氷霧に顔をしかめ、腕で顔を庇う。
そちらを見ると、霧中にうごめく影があった。
霧がわずかに晴れる。
霧の最中にあった正体が明かされた。
一対の角、背に揺れる鰭と毛先から虹の光子を振りまく豊かな銀毛。
その姿形は――。
「……ケティルノース」
『ガウッ』
一鳴きして。
ケティルノースが銀の丘の影へと隠れた。
タガネは呆然として見つめる。
見紛ったのか。
三大魔獣は数百年周期に一体しか存在できない。つい十数年前にタガネが斃したケティルノースは四体目であり、次の個体の出現までは少なくとも記録からして最低で五百年の猶予がある。
それに。
魔獣のいない土地と聞いていた。
勇者の血筋を求める終焉遺跡もある。
なにやら――。
「焦臭くなってきたな」
タガネはより顔を険しくさせて。
ふたたび南へと歩を進めた。




