10
タガネが血を噴いて膝を屈する。
斬りつけた人物の黒衣の裾が風に靡いた。
一瞬の静寂。
愕然としていたベルソートは我に返った。
目の前にした黒フードの男から感じる魔力の波長に覚えがある。いや、親しみすらあったのが却って恐怖を抱かせた。
三人を背に庇うように前へと出る。
ベルソートは長杖を突き出した。
「――『時空の固定』ッ!」
放たれた一声。
ベルソートの魔力が世界を掌握する。
彼以外のすべての時が奪われる。――タガネを除いて。
時間の停止した世界。
固まった黒フードの男の隣を通過してベルソートはタガネへと駆け寄る。
一目で傷は深いと判った。
あれでは臓腑がこぼれ落ちる。
即座に治癒魔法を施して傷口を塞ぐ。
「タガネや、大丈夫かのぅ」
「すまんな」
「いや、これくら――」
「無視すんなよ、爺ぃイイ!」
「はっ?」
タガネとベルソート。
二つだけの声色が響く世界のはずだった。
背後からの狂気に震えた叫びを聞く。
振り返った瞬間に、ベルソートの脇腹に鉄塊じみた歪で大きく成長した包丁が叩き込まれる。轟音を打ち鳴らし、タガネの眼前から吹き飛ばされた。
血を振り撒いて地面を跳ね転がる。
止まっていた世界が時間の流れを取り戻す。
ベルソートは驚怖に混乱していた。
「なぜ……動ける……?」
戸惑う視線の先。
黒フードの男は笑っていた。
「久すぃ振るぅりだなぁ、爺!いんや、御前がオレ様を目にするのは初めてかぁ!?」
「なん、じゃと……」
「三千年前は、妹を魔神にしてくれた件で世話になりやしたってなあ!!!!」
「…………なに?」
ベルソートの脳内が白く染められる。
――妹を、魔神に……妹?
だが。
言葉を理解するより先に、ベルソートの意識が闇の中へと沈んでいく。
杞憂ではなかった。
切り離せない因縁だったのだ。
「『哭く墓』……そういう、わけじゃったか……」
一つの事実を確信して。
ベルソートは顔を悲痛に歪めたまま気を失った。
それを見たミシェルも素早く構える。
タガネとベルソート。
立て続けに最高戦力が失われた。
黒フードの動機や正体は不明だが、逃げの一手以外の有効策がわからない。今は全力で回避のための策を練る時間を稼ぐ。
周囲に認識阻害の魔法を展開する。
広範囲の幻惑。
これにより、相手は正確にミシェルたちの位置を把握して攻撃できない。
「アカツキくん、今の内に逃げるっスよ!」
「し、しかしお二人が……」
「今は生き残る道を――」
「幻覚って面白えなあ」
「へ?」
ミシェルの頭の上に手が乗る。
湧き上がる戦慄が全身を縛った。
五識を狂わせ、正確な位置を把握させない魔法の効果はどんな生物にも及ぶ。そこに物体を視認してもすべてが錯覚であり、触れることなど叶わない。
にも拘らず。
この男はミシェルに触れていた。
輪郭を確かめるように撫でる。
「俺は『肉体』じゃねえんだよ」
「え?」
「マコトに全てが注がれちまった所為で、オレ様は『魂』でしか存在できねえんだ」
「どういう――」
「ふはっ。笑ってる顔は不細工なのに、怖がってると美人ンンンンンン!」
男が包丁を振り上げた。
ミシェルの顎を下から撃ち抜く。
顔の前面が縦に両断され、衝撃で後ろへと転倒した。その頭部から垂れ流される流血が石畳の隙間を走る。
ナギとアカツキは恐怖で硬直していた。
何者なのか、この男。
「あーとは切咲とぉ、切咲っ!」
「何なの、あなた」
男が肩をすくめる。
先刻から変色した空や反転した影、世界そのものが異変を現した中で、混乱せず愉しむその姿勢は、彼がこの異常事態の発端であるとはナギにも容易く理解できた。
だからこそ。
その規格外さが知れる。
「何者なの」
「まだわかんねえかー……」
男はくつくつと笑って自身を指差す。
「オレ様は『哭く墓』」
「…………!」
「うーん、いや名前で名乗るか!」
男の厚い唇が弧を描く。
「オレ様はリョウ、石動涼だ」




