小話「冒涜者の宴」①
聖と邪は表裏一体。
どちらも引き裂くことはできない。互いが存在するからこそ、己に意義が生まれる。
否定することで共存が適った。
完全に消滅することはなく、力関係も均衡を保つように作られる。
だが稀に。
対となる者を容易く涜し尽くしてしまう。
それほどに一方が強く膨らむことがある。
聖邪の設けた規定以上の陵辱を働く。
人はそれを――冒涜者と呼んだ。
春はまだ遠い。
凍てつく雪の底に沈む大地は、来るはずもない春風が吹くのを待って息を潜める。中天に日の昇る頃にも、鳥や獣の声は一つもない。
二つの霊峰が向かい合う間に氷河が流れる。
その下は湖となっており、畔に栄える都で営まれる人の生活の音だけが谺する。
聖都トゥパルノート。
聖女ヘルベナが愛した春の無い土地であり、彼女を信奉する聖バリノー教によって築かれたと伝承が残る最古の宗教国の要である。
だが、誰も起源を知らない。
都付近の湖畔の街道で乗合馬車が停まる。
扉を開けて黒コートの男が降車した。
遅れて現れた僧衣の女性の手を取り、ゆっくり下へと導く。二人で路地に立ち、一歩退けば馬車が再発進した。
麋鹿の蹄が戞々と道を叩き鳴らす。
綱が軋んで車輪が巡った。
遠ざかる車体を見送って、二人は湖を見る。小波一つ立てず霊峰の姿を映し出したそれは、静謐の鏡となっていた。
僧衣の女性が聖都へと歩み出す。
黒コートの男はその後に続いた。
遠くに見える巨大な氷壁、山間の谷を占有する大質量――眺める者には圧巻の風景である。北へと登る斜面を遡上する氷河は、また自然の神秘の一つとして数えられるに相応しい偉容だった。
微かな地鳴りのような音。
これが氷河の足音である。
黒コートの男は耳を澄ました。
「ようやく着きますね」
「ああ」
僧衣の女性が振り返った。
「私も来るのは初めてです」
「フィリアも初めてだと?」
「はい」
黒コートの男は息を吐いた。
白く濃い吐息が風で鼻先に跳ね返る。
「巡礼では来なかったのかい?」
「ここは例外なんです」
「例外」
「何たって聖バリノー教で最も神聖ですから」
「そうかい」
僧衣の女性フィリアが微笑む。
世界で現代の聖女と呼ばれる彼女の平生浮かべている慈愛の笑みではなく、困惑めいた感情をにじませたものだった。
その機微を鋭く看取して。
黒コートの男は先方にある都を見遣った。
「来たかったのかい」
「私は一度も来るつもりはありませんでした」
「なら、なぜ」
「あなたと同じです。――タガネさん」
「…………」
その一言に。
黒コートのタガネは押し黙った。
同じ目的となれば考える必要も無い。
懐中から一枚の書状を取り出す。署名欄にベルソートの忌々しい名を記した書面には、タガネに対する依頼について綴られている。
三月前に娘が生まれたばかりで、落ち着いて腰を据えたい時期だった。
ほんの一月。
それしか娘の相手をしてやれていない。
子育てを手伝うと奮起していた出端を挫くベルソートの依頼を、当初は跳ね退けようとしていた。
まだ体が本調子でないマリアを労り、幼い我が子の面倒を見る。剣と旅しか知らない男には、その苦労でさえも幸せの一時に感じた。
ようやく手に入れた穏やかな生活。
芽吹いた平和を噛み締めていた。
ところが。
ベルソートから凶報が届く。
世界各地で多発する異常現象の解決に剣聖姫の助力を乞う各国からの依頼申請がレギュームへと提出されていた。
まだ産後の疲労が癒えていない。
いかに剣聖姫といえど任務遂行は難しい。
世界平和の象徴として戦う。
その任を背負わされている。
結果として。
タガネがそれを代行していた。
この二月で十五件は回っているが、どれも難儀するほどの重大な依頼ばかり。
請け負った数と進行具合から鑑みて、すべて完了するまでに一年以上は要する。
タガネは嘆息した。
「今回は、一等面倒そうだな」
「そうなんですか?」
「ああ」
タガネは書面を睨めつける。
「…………『十ニの死』の討伐」




