小話「王と鬼」後
星天の下で。
国王は一人、大地の上に立つ。
背後に見える王都の防壁を顧みた。
その周囲は、白い僧衣の集団に包囲されている。体の節々に刺さる刃物の激痛に堪えて直立していた。
普段は着装しない甲冑。
その隙間から真紅の血が迸る。
「噂は耳にしていたが……」
額から流れる血。
赤く染まった右の視界に魔獣の影が映る。
遠くに地鳴りのような足音を立てて揺れた。
その手前には、夥しい死屍が累々と積み重なっている。宝剣の一太刀で斬り払った末に生まれた凄惨な光景だった。
夥しい数。
眼前の僧衣の集団――魔神教団は手強かった。
その結果。
左はすでに抉り取られた。
閉じた瞼から血涙が流れている。
満身創痍の無様な敵を鑑賞しているのか、教団はただ黙然と立っているだけ。
ふと、一人が短剣を手にする。
「まさか国王一人とはな」
「それも、最後の殿とはな」
「その間に民を逃がすとはな」
「それで我々を六割削るとはな」
国王は不敵な笑みを作った。
ケティルノースの襲来。
この王国にとって未曾有の事態に、まず国民の避難を最優先にさせた。志のある者だけを伴い、国王が殿を務めて前線に向かう。
魔獣に関する事案。
それは国境の柵なく共闘する条例が世界にはあるが、ケティルノースは戦略的に南の小国を壊滅させた後だった。
なお。
同時期に国境での戦争では、帝国軍も謎の事件によって兵士に行方不明者が続出し、両国の関係も相まって共闘の要請が出せなかった。
危急存亡の秋。
もはや玉座に胡座を掻く余裕など無い。
意を決して国王は出動した。
だが。
「こちらこそ意外だ」
「…………」
「よもや魔神教団までお出ましとはな」
魔獣の前に障害が立ち塞がる。
急遽編成された討伐隊は、しかし予想外の奇襲を受けて混乱し、結果として国王を残して全滅となった。
今となっては。
その最後の一命すら風前の灯である。
「いい加減、その宝剣を渡せ」
「それは勇者様の遺品」
魔神教団が迫る。
国王は宝剣を構えた。
「なら、代わりに貴様らの命を頂戴する」
「死に損ないに何かできる?」
たしかに。
すでに致命傷を幾つも抱えている。
この場を凌いでも、ゆっくり息絶える瞬間を待つだけだ。彼らが手を出さずとも直に倒れる。
それでも。
国王は背後を顧みた。
脳裏に蘇る妃や息子たち、王宮の使用人と王都に暮らす人々の顔が想起される。
一歩前に強く踏み込む。
「悪いが、王国も宝剣も渡さん。一応、国王としての誇りがあるのでな。大切な民や、庭や、あと二丁目の高台とか、北の裏路地の惣菜屋の味を貴様らのような悪鬼に蹂躙などさせん」
それに。
「私には約束があるのだ」
国王の潰れた左の視界。
見えるはずがない。
だが、瞼の裏に銀髪の少年の姿が投影された。
面倒だと託ち顔で庭仕事を手伝い、夜は旅の話をして、ぶっきらぼうだが、それとなく体の心配をする。
鮮明な少年との記憶。
血塗られた王家。
羨望を集める玉座。
すべてが苦痛だった。
その中で、国王と知ってなおも自身を一人の人間として対するタガネが、心の寄す処ですらあったのである。
まだ彼から依頼に関して報告を受けていない。
直接王都へと来るだろう。
それを待たなければならない。
誰よりも眩しく。
誰よりも身近な家族のように感じる。
タガネの来訪。
国王にとってこの上ない楽しみだった。
本来なら息子たちに向けるべき感情だ。
国王は内心で薄情者と自嘲する。
「あの子を迎える場所が、また無くなってしまうだろうが!!」
国王が宝剣で周囲を薙ぎ払う。
切っ先が振るわれた虚空に奔る魔素が真空の刃へと変換し、魔神教団へと不可避の凶刃となって疾走する。
瀕死の男が放つ一撃。
もう反撃は不可能と読んでいた魔神教団の油断を衝いて、残る全員を風の凶器が寸断した。
血煙が辺りに立ち込める。
国王は、その場に膝を突いた。
「くっ……これまで、か」
「父上」
その呼称に国王は振り向く。
そこに息子が――ルナートスが立っていた。
ミストと共に避難したはずである。
片手に剣を携えて、近づいていた。
「……ルナートス?」
「私の物になるはずだったのに」
「……何を言っている?」
「この国も、宝剣も、名誉も、何もかもすべて私の物になるはずだったのに!!なのに、あんな魔獣が来たら、すべて台無しじゃないか!!」
「…………!」
国王は目を見開いた。
見慣れたモノがそこにある。
憤慨するルナートスの瞳には、かつて自分の兄弟たちが滾らせていた暗い欲望の焔が燃え盛っていた。
その手に握られた剣が振りかざされる。
寸分違わず。
王の体を袈裟に切り裂いた。
血を噴いて、全身の感覚が薄れていく。
国王はその場に倒れ伏した。
横転した視界で、取り落とした宝剣を手にして去っていくルナートスの後ろ姿が見える。
吐血混じりに失笑した。
「すまぬ、タガネ……」
「いやあ、見事じゃ」
「…………次は、あなたか」
屈み込んだ老爺の顔が覗く。
死に体の人間を前に愉快そうに笑う。
「ヌシの死には意義がある」
「意義……」
「帰る場所になりつつあった所が一つ消える。これで、この逆境にまた剣鬼は成長することじゃろう!」
「……なん、だって?」
「あ、いかん。そろそろ帰らんとワシ疑われちまうわい。今宵も鹿鍋かのぅ?」
ベルソートが視界から消える。
咄嗟に伸ばした国王の手が空をつかむ。
そのまま。
脱力して地面に落ちた。
「タガ、ネ…………」
無意識に口からこぼれる。
霞んでいく景色。
それに代わって明瞭になるあの顔。
最後に彼と交わした会話を思い出す。
『お前も、もう十六か』
『うん?』
『十年ほど旅をして、まだ見つからんか』
『もう秘境しかないかもな』
『やはり王宮に来んか?』
『嫌だね』
『どうして』
『アンタの顔見るのはたまにで良い』
『む、冷たいやつめ』
『次会うときまでに風邪治しときな』
『バレてたか』
『何年の付き合いだと思ってんだ』
タガネが振り返る。
『アンタの下らない趣味に付き合わされたり、弱音聞いたりするの、俺くらいだろ』
『…………』
『気取れて当然だっての』
『……うむ、そうだな』
『迷惑なやつめ』
微笑みを浮かべた。
何の衒いも、屈託も無い。
国王にはそれが眩しかった。
「ああ、遺して逝くのか……」
嫌だな。
国王の右の瞼が下りていく。
意思に関係なく閉ざされる。
自分が死んだ後も困難に晒されるであろう少年のありもしない影に向かって、手を伸ばす。
最後まで言えなかった。
すまない、と。
ヴリトラの案件で酷い心の傷を負わせた。
その謝罪すらできていない。
そして。
「一緒に、暮らしたかったな」
彼の帰る場所になりたかった。
その願望が死に際になってより強くなる。
もし、生まれ変われたなら、家族になりたい。王家の柵も無く、ただ純粋な親子として。
息子のように。
「愛していたぞ、タガネ……」
タガネの微笑が消える。
耳の中で、鼓動の最後の一拍が鳴り響いた。
星狩りから九百年後。
レギューム騎士学校の庭園で一人の少女が軽食をぱくついていた。パンに挟んだ肉野菜との風味を味わう。
暗紫色の髪を風になびかせ、無感動に紫の瞳で景色を眺めた。
空腹に講義を脱け出しての食事。
少女はたっぷり噛み締めてから嚥下する。
その背後にローブ姿の男が立った。
「おう、チゼル」
「…………」
「なはは、無視するな」
「迷惑な野郎め」
「教師であり養父たる私に失礼だぞ」
「ふん」
少女チゼルは最後の一欠片を口に放る。
託ち顔で男を睨め上げた。
「授業に戻れ」
「騎士なんかになる気はない」
「そう言わんでくれよ」
「おまえさんも暇だね、こんな不良生徒に構うなんて。こっちばっかり構ってると、他の連中が贔屓してると誤解生んで面白くない顔されるぞ」
「だってお前、面白いしな」
「……気色悪い」
チゼルは顔をしかめる。
その隣に男が腰を下ろした。
「ま、脱けたのは私の担当授業でないしな」
「…………」
「ちょうど空き時間だ。どれ、お前の旅の話でも聞かせろ」
「どっか行ってくれな」
「まあ、まあ、頼むよ」
男が希う。
チゼルは険相のまま嘆息する。
「つまらないよ」
「ほれ、いいから」
チゼルは渋々と話すことにした。
この男は語るまで消えたりしない。その厄介さは身にしみて知っている。
身にしみて――?
はたと、チゼルは閉口した。
「どうした?」
「……いや、怪態な懐かしさがしてな」
「どこにだ?」
「おまえさんに」
「お、親近感湧いたか?やっと仲良くなれたな、嬉しいぞチゼル!」
「ちょ、やめっ、触るな斬るぞ!」
男がチゼルの頭を撫でる。
抵抗する彼女と彼の小さな争いは、午後を報せる鐘が鳴るまで続いた。
ここまでお付き合い頂き、誠に有り難うございます。
生まれ変わりって夢ありますよね。
国王様にはかなり幸せになって欲しかったのでこんな結末になりました。多分リクエスト通りになってないかも……すみません。。




