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約束をした翌日。
それは騎士学校が設けた安息日である。
生徒が寝食を過ごす学生寮を抜け、二人は学園の外へと外出した。
その足先は、北へと向く。
凍岳域を訪ねる者自体が少ないので、変装用に拵えた外套姿が却って目立っていた。いつ見つかるかと肝を冷やしながら、しかし二人は無事に凍岳域への入口となる傾斜路に着く。
心を踊らせた二人だったが。
「なんだ、あの人たち」
「さー?」
ミラが首をすくめる。
傾斜路の前に大勢が集っていた。
人気が無い途中とは異質な緊張感がある。
ライアスはごくり、と唾を呑む。
「みーんな、冒険者だね」
「わかるのか?」
「何となく」
ミラは間食の木の実をかじる。
ふと。
ライアスたちは集団の中に、小柄な影を見出した。樫の長杖を抱き、忙しなく周囲を見回している。
緑の髪を肩口で切り揃えた少年だった。
年の頃は同じに見える。頬のそばかすはわずかに紅潮し、傾斜路から流れ込んで来る凍岳域の冷気か、それとも不安なのか、早くも唇が震えている。
レギューム魔法学園の制服を着用していた。
不用心にすぎる。
学生の立入り禁止区域に制服を着るのは、自らが学生だと旗を振って歩くも同然。
颯爽とライアスはそちらへ歩む。
「おい」
「ひっ、な、何でしょうか……」
「これ着ろよ」
震えている少年へ。
ライアスは外套の残余を与える。
受け取った彼が躊躇うので、強引に着せた。
甲斐甲斐しい様子にミラが笑う。
「お前、何してんだここで」
「え、えーと……」
「威圧しちゃ駄目だよー、ライアス」
「うっせ」
ミラが前に進み出た。
「ワタシはね、ミラ。騎士学校の生徒」
「僕は、ルーク。……魔法学校の生徒」
「俺はライアス。横のこいつと同じだな」
三人で名前を交換した。
緑髪の少年ルークは、幾許か緊張から立ち直って、白い吐息を漏らす。
それから、微かな笑みを浮かべた。
「僕、実は魔獣生態学を研究してて」
「へー」
「生態学」
「こっそり、ここに通って魔獣を観察してるんだ」
ルークの一言に。
ライアスは目を見開いた。
――ここに何度も通っている!?
学生の身分で、凍岳域を往来できることこそ疑わしいが、仮に本当ならば地勢も、そこに生息する魔獣も概ね識っているということ。
二人は、予め地図を用意している。
だが、それでも心許ない。
危険区域への不安を少しでも解消したかった。
そんな中、ルークの存在は一筋の光明に思えた。
同伴すれば、心強い。
「なあ、ルーク」
「はい?」
「一緒に行かねえか?」
「か、構いませんけど……」
ルークが後ろを顧みる。
傾斜路の入口に大勢が入っていく。
武装している姿が一所に集まれば物々しい雰囲気が醸し出される。それだけでも尋常一様ではないが、我先にと競うように駆け込む姿がさらに怪しい。
ライアスは眉根を寄せた。
「あれ、何なんだよ」
「冒険者です」
「ほーら、ワタシの言った通り」
「黙ってろ」
ルークは苦笑した。
「強力な魔獣が発見されたんです」
「強力な?」
「はい、それがですね――」
ライアスは真剣に耳を傾ける。
その隣で。
ミラは通路の方を眺めていた。
前を占めていた冒険者たちがいなくなり、静寂が訪れる。
そこへ。
黒衣の男が進んで行く。
吹き付ける寒風に銀髪をなびかせ、涼しげな眼差しを投げかけている。黒革の鞘に納めた剣を腰に帯びた以外の武装は見受けられない。
そのまま傾斜路へと消えて行った。
ミラはこてん、と首を傾げる。
「討伐依頼が出てるんです」
「へえ」
「新種なので人伝で聞いた話なのですが……」
「どんなやつ?」
「黒くて巨大な蟷螂だとか」
「弱そうだな」
「僕はそれが見たくて」
ライアスがうん、と唸った。
本来の目的は、剣聖の亡霊である。
新種の魔獣は、全く関係無い。同伴者にすれば心強くても、目的が違えば同行させても無意味だ。
不意に。
ミラがその袖を引いた。
「早く行こーよ」
「急かすなよ」
ライアスを傾斜路へと引きずる。
ミラは彼の思案も知らず、楽しげに笑っていた。学生寮を出るまで不安そうにしていたが、今は平生の緊張感の無さが取り戻されている。
仕方なし、と諦観してミラに従った。
ルークへと手を振った。
「すまん、俺らはやっぱ別で行くぜ」
「あ、うん。気をつけて」
「おう、悪いな」
二人で傾斜路を進む。
内部は氷山を削って作られた隧道となっていた。足下は岩だが、表面が凍りついているので、ときおりミラが滑りそうになる。
緩やかな曲路に。
一分と経たず、出口が先に現れた。
ミラが燥ぎながら駆け込む。
慌ててライアスが続いた。
「見て、すごいよ!」
「ああ?何が――」
通路を出て。
二人は崖の上に立っていた。
眼下には、幾つもの氷の角柱が屹立する雪原が広がっている。そこで冒険者と、ルークの話にあった黒い魔獣が戦闘中だった。
さらに下へと続く誘導路がある。
二人はその道を辿りながらも景色を眺めた。
峻険たる氷山の頂が連なり、見渡す限り体が底冷えする光景である。騎士学校は常春の地域にあるため、季節感が鈍っていた。
厳冬に閉ざされた土地だからこその風情。
後ろでミラが感嘆の声を上げる。
「剣聖の亡霊が見れなくても」
「あ?」
「これだけで凄いよねー」
「……かもな」
初めて気が合った。
ライアスは嘆息して前に視線を戻す。
足を止めて、ミラを腕で制止した。
「止まれ」
「なーに?……あ」
「剣、持ってきたな?」
「もちろん」
二人で剣を抜き放つ。
誘導路の先に、魔獣が立っている。
黒い蟷螂――その伝聞とは両腕に鎌のような形状の刃を有している以外は、全く異なる外観をしていた。
頭部は単眼の狼、首から下は馬の体であり、蹄でしっかと地面に掴んでいる。
醜怪な異形。
その姿を目の当たりにして呼吸が震える。
ライアスは緊張していた。
対人以外の戦闘、それも実際に刃を交えるのは初めてである。何より、魔獣などは以っての外だった。
その様子を見咎めて。
ミラの顔から笑みが消えた。
「ライアスは右から」
「え」
「ワタシが左から攻める」
「……何処を狙う?」
「一番の脅威は腕だから、刃の付け根になってる肘の辺りをやろう」
「了解。……って命令すんな!」
ミラが飛び出した。
ライアスも後続し、誘導路を駆け下りる。
対岸から、魔獣も前進して来た。
鎌を唐竹割りに振り下ろす。飛び退いたミラの外套の裾を切り裂き、誘導路の地面に突き立つ。
彼女と入れ替わるライアスが飛びかかった。
地面に突き立てた前足を斬りつける。
狙い通り、細い肘に鋼を叩き込む。
――が。
『キュルキュルキュル!』
「かてっ!?」
剣が弾かれた。
その瞬間、もう片腕が横薙ぎに振るわれる。
二人の胸裏が戦慄で凍った。
ミラが前に出て、剣で受け止める。
途轍もない重圧が体を襲う。子供に受け止められる膂力ではなかった。咄嗟にそれを察知したライアスが、ミラの後ろから剣を突き出す。
鎌が弾かれた。
「大丈夫かっ!?」
「ライアス、次が来る!」
「げっ」
また鎌が振り下ろされた。
ライアスは魔獣の股下を転がって潜る。
ミラも、その後に滑り込んだ。
誘導路を転がり落ちるように背後へ回った。
魔獣が振り返る。
「まずいぞ……」
「…………」
一歩ずつ踏みしめて。
獲物を捕らえた愉悦に魔獣が白く吐息する。
二人は立ち上がって剣を構えた。
次手はどうする、どう動く。
混乱して、体が動かない。
『キュルキュルキュル!』
魔獣が鎌を振り上げる。
二人は死を覚悟して、目を閉じた。
そのとき。
「これで――三十四」
誰かの声がする。
二人は、はっとして面を上げた。
眼前で魔獣が停止している。
ゆっくりと、左右に半身が分かれて倒れた。雪が墨汁を垂らしたように、赤黒く染まる。
魔獣の背後に男が立っていた。
「無事かい?」
「は、はい」
「い、生きてまーす」
唖然とする二人の前で。
銀髪の男が剣を振って血を払った。




