三話「夜岐の小径」上編
幕間の最後の小話。
その峠は避けて行け。
地図の通りに進めば夜岐に遭うぞ。
峠のふもとの村での古くからの言い伝えだった。
日が沈めば暗くなる。
人を誘う夜が来る。
大陸中央部を通う街道。
山を囲うように迂回するそれは、迂遠な道のりといえども、十日を要して確かに国へ繋がる。それでも、直線で行けば半日で着く距離の延長に、辟易する者は少なからずいた。
その屈託を解消する近道はある。
その捷径ならば半日で着く。
ただ、誰も通らない。
特に危険な魔獣が住んでいるわけでもなく。
況してや盗賊の出る場所でもない。
どうして、避けるのか。
未だに深くは知られていなかった。
そして。
長く急な一峰を登りきって、足を阻む急斜面に堪えた甲斐があったと、自身の膝を叩く少年がその道に立っていた。
銀髪の下の瞳を疲労で曇らせ。
少年は地図を片手に呼吸を整える。
「これなら、間に合うか……!」
万感の思いで。
銀髪の少年タガネが拳を握る。
剣鬼に是非との口上を綴った書状が山の向こう側から届き、タガネはその依頼に応えて依頼主の下へ向かわんとした。
面会の日までは半月余りある。
問題はないと判断し、街道を緩やかに進む方針で依頼主を目指すことにした。
しかし。
その気構えが災いした。
街道が土砂崩れに遭って封鎖されたのである。
雨は止んだものの、土砂の撤去作業は未だに済んでいない。ただでさえ十日を費やす道のりが、半月以上の距離へと化けた。
面会に間に合わない焦慮。
タガネはそれに背中を押されて、誰もが避けて通る『峠の道』を使用した。
実際に通って。
たしかに険路だと痛感した。
急な斜面は馬車が通れる角度ではない。
たびたび登攀じみた進み方でなくては先を望めない地形である。近道といっても力尽くだという感想を飲み込んで道を辿った。
結果として。
わずか数刻で峠に着いた。
あとは同じ距離を降るだけで着く。
タガネは峠の上で立ち止まる。
体からにじんだ汗を拭った。
「やれ、もうひと踏ん張り」
気を引き締めて進む。
これまでと一転して緩やかな傾斜路を歩んだ。
存外、辛いのは前半だけか。
その苦難さえ堪えれば不平声も出ない。
夕暮れの日が遠くに見えた。
タガネは足を止め。
峠を赤く染める光に目を細めて感嘆に耽る。
「美事なもんだ」
眺めている内に。
遂に日は沈んで宵闇が辺りを包む。
タガネは改めて進みだす。
「うん?」
タガネの先方。
そこが二手に分かれていた。
地図と現在地を再確認するが、分かれ道など記されていない。地図は知己から譲り受けた物とあって最新の情報ではない。
足を止めて二つの道先を窺う。
視線が左右へ迷った。
「どっちが正解、かね」
「あれ、もしかしてお客さん!?」
「は」
背後から唐突に快活な声。
気配を感じなかった。
背後を取ったと悟って、タガネは身を翻す。
最大まで高められた警戒心を剥き出しに振り返った先で、小さな赤髪の少女がタガネを見上げていた。
簡素な貫頭衣を、紐で腰元を絞っている。
右のこめかみで、髪留めが光った。
小麦色に焼けた肌に汗が浮かんでいる。
剣呑な予想を覆す相手に。
拍子抜けしてタガネは黙り込んだ。
「お客さん……違った?」
「ここいらに店を構えてんのかい?」
「うん、お兄ちゃんがね!」
「こんな山道に」
「だからこそ、だよ!」
何の憂いも無く。
少女は元気よく返答した。
それに気圧されてタガネは苦笑する。
「どんな店だい」
「旅館だよ」
「本当かい」
タガネは思わず目を見開く。
登山で疲れていたのもあり、途上に憩える場所があると知って思わず食いつく。屈み込んで少女と目線の高さを合わせた。
少女は深くうなずく。
道の一方を指差した。
その方向を改めて見ると、道先に小さな光が灯っている。よく目を凝らせば、それが一軒の屋敷の物であると判った。
タガネは小首を傾げる。
――はて、館なんてあったか?
そんな疑心が湧いて。
しかし、少女がタガネの手を引いた。
「ほら、早くはやく!」
「お、おう」
少女に手を引かれるまま。
タガネは館の灯に導かれて歩いた。




