一話「隠り歌」中編
木の隧道となった坂道。
タガネはその前で立ち止まる。
王国南部にも王室御用達の薬草が採れる森があり、そこもまた異様なほど緑の鮮やかな土地ではあるものの、この緑の沼はまた一風変わっていた。
緑が鮮やかというより。
まるで木々が緑に光っている。
そんな印象を抱いていた。
タガネは樹幹に触れて擦ると、木肌はひどく乾いていた。
不思議に思って剣を抜く。
刃で少し切って傷口を確かめた。
そこから樹液ではなく、赤い液体があふれる。
迸る真紅を指で掬って嗅いだ。
「……血、だな」
顔をしかめて払い落とす。
次に足元を見下ろす。
落葉はすべて茶色。タガネは跳躍して、頭上の梢から葉を一枚だけ摘んで取った。
梢から切り離した途端、枯れていく。
一瞬のことだった。
樹幹に耳を寄せる。
人間の耳でも、中に寄生した虫がうごめく音や、水が流れる音を聞き取ることはできる。
確かめてみると。
「……歌だ」
幹から音色が聞こえる。
森の中で聞いた声と酷似していた。
以前よりも内容ははっきりとしていて、女性の声だと判る。
タガネは樹幹から身を離す。
この面妖な木が道先への仄暗い予感を誘った。
剣を鞘に納めるか悩ませる。
逡巡で立ち止まっていると、後ろから砂を蹴る小さな足音を聞き咎める。振り返ると、そこに老婆が立っていた。
老婆は小さく頭を下げて会釈する。
タガネも目礼で返した。
両手に瓶を抱えて持ち、そそくさと隣を過ぎて坂道を進んで行った。
ふと、鼻腔を掠める異臭がする。
タガネは眉をひそめて。
その老婆の後ろに従いて行く。
「もし、そこの婆さん」
「何ですかい?」
「もしかして夜主さんに用なのか」
「ええ」
老婆が瓶を軽く持ち上げてみせる。
タガネは隣に並んでそれを眺めた。
「これ、何だい?」
「『夜伽』だよ」
その返答に。
タガネは驚いて言葉を失った。
夜伽――つまるところ、夜の無聊を慰めるために位の高い人間が寝所で人を侍らせることだが、それは暗喩であって大概が疚しい意味合いである。
真っ先に瓶を睨む。
老婆が『夜伽』と称する物は、きっと瓶自体ではなく中身にある。
ならば、そう称呼する辺り怪しい薬の類が容れられていると想像した。
頭を振って。
タガネは瓶を指差した。
「えーと……夜伽ってのは?」
「夜主様の飲み物だよ」
「飲み物?」
また予想外の言葉に。
タガネは思わず間の抜けた顔になった。
老婆が可笑しそうに笑う。
瓶を揺らすと、中で液が瓶の内面を打つくぐもった音が聞こえた。
老婆に差し出されて受け取ると、思いの外の重量に落としそうになる。
慌てて支えた老婆の助けを得て落ち着いた。
タガネは胸を撫で下ろす。
「この村の税ってことかい?」
「いんや」
「うん?」
「夜主様はね、病なのよ」
タガネは小首を傾げた。
飲み物――やはり中身は薬なのか。
「病、ってのは?」
「夜主様は昔から日中は外に出れない体質でね、陽に出ると身が焼けてしまうのさ」
「……へー」
「その為に必要だとさ」
タガネは口許を手で隠して。
坂道の先に鋭い眼差しを投げかけた。
「吸血鬼みたいだな」
「何なの、それは?」
「ここから南に行った地域で、昔はよくいた鬼仔だそうな」
耳に覚えが無いのか。
老婆は小首をかしげていた。
吸血鬼。
それは三千年も前に大陸西端で大量発生した魔獣と人の混血種である。
すなわち鬼仔。
父性に人の血を好む蝙蝠に似た『ピキュラ』という魔獣を条件とし、人間の女性が彼らによって子を孕まされた場合に発生する。
鬼仔の例に漏れず、人に似た姿。
ただし日の光に耐性が無く、日中は影に潜む。
夜に活動を始め、ピキュラ同様に人の生き血を好物として啜る。
ただし。
ピキュラよりも異質な力があった。
それは、鬼仔の中でも長命であること。
吸血行為による栄養補給を怠らなければ、半永久的に存立する。
加えて。
吸血した相手を、自らの配下として隷属させることが可能である。大量発生した当時は、西端一帯の村などを襲っては、多くの人間を支配し吸血鬼の領土を作った。
その付近に栄えていた王国が聖女ヘルベナと共に騎士団を派遣してまで排除に尽力したほどの脅威である。
その討伐法。
日光に晒し、心臓に銀の杭を打つ。
そして聖女の魔力。
これだけが有効だとされた。
そこまで説明し終えて。
タガネは改めて老婆に夜主のことを質す。
「夜主様は、いつからここに?」
「さあ……私が小さい頃、この村に来てからずっとこの地を治めていたわ」
「その中身……血、なのかい?」
「……ええ、家族で出し合った物よ」
老婆が瓶を取り出す。
タガネは顔をしかめて坂道を進み出す。
「血を吸われたことは?」
「いいや」
「……血を夜主はどうすんだい?」
「薬の調合に使う、とか」
「そもそも、なぜ貢ぐ?」
「私の親の代から、この地は夜主様のおかげで豊かだと聞いてな」
老婆も困惑していた。
タガネは顎に手を当てて黙考する。
夜主が吸血鬼だと仮定して。
なぜ吸血鬼行為によって村人たちを隷属させないのか。その膝下に村を営ませている酔狂の正体も気になった。
吸血鬼せず。
ただ血を貰って生きている。
木々から出た赤い樹液。
夜主の力で豊かな大地。
村人たちからの敬意。
まだタガネは情報が足りないと判断して、坂道の先を急いだ。
「アンタ、夜主様に会ってどうすんだい?」
「ちょいと訊くことがね」
「訊くこと?」
「ああ」
ふと。
老婆が急いで従いていこうとしているのに気付いて、タガネは瓶を持って隣に並ぶ。老婆は礼を言って呼吸を整えながら進んだ。
二人でゆっくりと坂道を上る。
樹影に閉ざされた長い道を辿って数分。
その先に古い館が現れた。
煉瓦式の煙突だが、その大体が木組みでできた風体は、しかし褪せた柱の木目の色味から年季が感じられる。
館を見回すと、異様に窓が多いかった。
特に、通路全体がガラス張りの部分もある。
吸血鬼ならば身に堪える普請だ。
「……変わってんな」
「夜主様は中にいるよ」
「ああ」
老婆が先に進もうとして。
ふと館の戸口の前で足を止めた。
「アンタ、剣士かい?」
「うん、まあ」
「夜主様がもし、その吸血鬼ってのだったら殺す……その為に来たのかい?」
「…………」
タガネは少し黙って。
「俺の仕事は森の奥地の調査だ」
「…………」
「調べるだけで、その夜主様が俺に牙やら爪やら立てなきゃ剣は抜いたりしない」
「そうかい」
少し安心した様子で老婆が戸を叩く。
タガネもその後ろについた。
すると。
『入りなさい』
歌声と同じ声が迎える。
ただ、それは戸の奥からではない。
扉自体から聞こえた。
「木に声を通わせる力でもあんのか」
戸が独りでに開く。
老婆が先に進むが、タガネは驚いて立ち止まっていた。
『あなたもおいでな』
声が催促する。
タガネは深呼吸して敷居を跨いだ。




