小話「夜忘れ」⑺
異界とは正鵠を射たもの。
街の在り方は言葉通りに変異していた。
西より差す黎明の光は冷たく、肌に当たろうと温もりを感じない。まだ街の全体すら照らせない光量にも関わらず、空の暗さに反して街路は昼のように明るく影が薄かった。
光も闇も、風もが歪んでいる。
眼球までもが違和感にきりきりと痛んだ。
五識を侵食され、塗り替わった世界と常識の軋轢に体が敏感に反応している。
気が緩めば倒れそうな感覚だ。
「下らんことしやがって」
タガネは吐気を堪えて歩いた。
精神を蝕む不快感を誤魔化すように愚痴る。
先刻のすれ違った少年といい、他にもタガネと同様の考えに至り、行動に出た者が何人いるか。街中から上がる叫びが、それも僅かだと告げている。
幸か不幸か。
街路は昼のように明るい。
心身には悪くとも、影を捉えやすい。
「む?」
『む?』
タガネは前方に鳥の形の影を見つけた。
視線を感じてか、その影も停止する。
思わず漏れ出た己の声と重なるもう一つの音に、ますますタガネの興味が引かれた。影の形は、タガネを見つめるかのように固まっている。
一歩、踏み出す。
影が一歩、後退る。
一歩、踏み出す。
影が一歩、後退る。
一歩、踏み出す。
一歩、後退る。
「……………」
『……………』
「……………」
『……………』
「おまえさん、何者だ」
『ッ!』
その問を聞くや、影が駆け出した。
躊躇わずタガネは追走する。
せっかく発見した手懸りを、みすみす逃す手は無い。方法は問わず、如何に非道な手を用いても捕えるつもりで影を追い立てる。
街路を奔る影と人。
一方は人、と断言できない形相である。
剣を帯びていながら俊敏に動く体のしなやかさが獣のようであり、殊更彼から人間味を消していた。
片や鳥影だが、背後の怪物から逃げ出す怯えぶりや悲鳴は人間味に溢れているものだった。
慌てる影を、容赦なく鬼が追い詰める。
もはやどちらが被害者か、傍目には判じられない有り様。
次第に距離は縮まっていく。
「さあ、観念しな!」
『――――』
「それはオレの影だぁあ!!」
「なっ!?」
あと一歩の距離。
タガネは影へと手を伸ばして――その瞬間、横合いから塀を越えて大男が現れた。
両手にした小振りな戦斧が迫る。
「くそ」
タガネは脊髄反射で剣を抜き放つ。
加速した体では飛んで躱すこともできない。
――だから、どうした?
影を逃すことはできない。
逃走ぶりから、次に姿を見つけることは困難だと判断した。人目を避けられたら、今度こそセルメヤスの朝への対処法を探すのは夢物語となる。
その未来だけは是が非でも避けたい。
「ちぃッ」
銀の瞳を眇めて。
タガネは体を小さく畳む。
地面を転がりながら、仰向けとなった瞬間に振り下ろされる斧の柄へ刃を滑らせ、影の方向へと背中で滑り抜ける。
柄を断たれて斧の刃が宙を舞った。
驚愕に目を剥く男の横で立ち上がり、影めがけて再び地面を蹴る。
「ま、待ちやがれ!」
「お断りだね」
「ソイツはオレの獲物だぞ!」
「争ってる場合か? 共倒れの可能性があるんだぞ」
「それは我が物!」
「またか!?」
進行方向に角から人影が躍り出る。
影とタガネを阻むように立ち塞がった。
弓矢を構え、その鏃の先――照準をタガネに定めている。
「射抜く!」
「阿呆め」
相手が無い放つ直前。
タガネは外套を脱いで前に払う。
正面を覆うように広がるそれに、射手が一瞬だけ固まった。
しかし、布下から見えた足が位置を示している。真っ直ぐ射れば、何処かは分からずとも命中するだろう。
軽傷だろうと勢いは止まる。
相手は軽装で、硬い防具は無い。
彼我の距離は八歩。
影はその中間地点にいる。
外套で相手には自らの視界を潰していた。
――愚策だったな、哀れなヤツめ。
ほんの刹那の躊躇の後。
弦を弾いて矢がひょうと飛ばされた。
柔らかく広がる外套を突き、その奥に潜むタガネへと鏃は容赦なく向かう。
ところが。
「なに!?」
矢が外套を貫くことはなかった。
布に巻き込まれて勢いを失う。
同時に、影が射手の下を通過していく。
理解が追いつかない。
外套ごと矢を払い落としたタガネが眼前に迫り、射手は身構えるしかなかった。
「軽装っつったってな」
「ひっ」
「用心くらいはしてんだよ!」
回転しながら放たれた突き足が顎を捉える。
射手は吹き飛ばされ、影の行く手を阻むように落ちて跳ね転がった。
彼の敗因は一つ。
タガネは重量の嵩む鉄の防具を好まない。
その代わりに、耐刃性のある素材の布を好む。
技で防ぎ、或いは威力を削いで体に当たっても服で無害にできるよう、一応の守りは日頃から備えていた。
外套は、その一つである。
動きながらなら、槍は無理だとしても硬い皮が小さな刃程度なら貫通を防ぐ。
先刻はその性能を信じての直進だった。
「さて」
『ひっ』
「ようやく止まってくれたかい」
落ちてきた射手に驚いて停止した影。
そのすぐ傍にタガネが立つ。
「逃げるってことは、捕えられる危険があるから、そうしたんだろう」
『…………!』
「つまり触れられるってことだな」
タガネは影に向かって足を上げる。
自身の中である程度の推測は立っていた。
影に直接接触する方法。
それは『影踏み』である。
地面を這うような影を腕で捕えることは不可能であり、これを剣や槍で縫い留めるなど仮に影が負傷して影の主にまで影響を及ぼすのなら策にすらならない。
だから。
「踏んだらどうなるかは知らんが」
『ふふ、くくく』
「…………?」
『くく、こうも追い詰められようとは』
「はあ?」
影から笑い声が溢れる。
訝しんでタガネは足下を睥睨した。
「急にどうした」
『妾の遊びは、これからというもの』
「…………誰なんだ、おまえさんは?」
『これが『影踏み』の遊戯と見抜いたことは、褒めて遣わす。だが、勝者は一人――妾を求めて争うがいい』
「だから、何の話だい」
独り興奮する鳥の影。
タガネはますます深まる疑問に顔を顰めた。
その声を聞きつけたか、否、元より潜み、または追って来ていた者たちが次々と姿を現す。
誰もが武器を構えてタガネを睨んだ。
理解不能な状況だが危険なのは確かだとタガネも剣を構える。
「おい、要するに」
「――――脱出できるのは一人ってことだよ」
「あ?」
頭上から降る声。
全員の視線が一箇所に集中した。
タガネたちのいる道を横から眺めるように建つ家屋の軒先に、昂然と胸を張って立つ者がいる。
その人物がタガネに向けて微笑んだ。
「やあ、さっきぶり」
「…………また面倒なこって」
美しい笑顔の少年に対し、闖入者として最悪の相手を見たタガネは苦い表情を返すしかなかった。




