無題
気が付いたら何もない空間にいた。
何もないというのは、寂しいとか、閑散だとか、そういうものではなく、そもそも部屋というものが無い。もっというと青い空もない。真っ白い世界が広がっている。足元を見てみると、驚いたことに地面と思われるものもなかった。地面に足がついているのか、そもそも地面があるのかわからない。まるで光だけしかない宇宙空間にいるようだった。
こんな状況になったとき、まずとる行動はこれだろう。
「やっぱり痛くない」
夢かどうか確かめるには頬をつねってみる。定番中の定番だ。
痛みを感じないということは今現在自分は夢の中にいるということだ。しかし夢だとわかっても、何か出来事が起こったわけでもない。さて、これからどうするか。
「こんばんは」
後ろの方で呼びかける声がした。振り返ってみると、スーツ姿の人が歩いてこっちに向かっているのが見えた。近づくにつれ、その人の恰好がはっきりわかってきた。白いシャツに、後ろ丈の長い、光沢のある藍黒色の背広をまとっている。しかし、ズボンは上着と合わない白色だった。黒いハットを深く被っていて顔がよくわからなかったが、どうやら赤い仮面をつけているらしい。その様子は怪しいマジシャンにそっくりだった。ズボンの色さえ違えばそれこそ本物の奇術師のようだったが、そのアンバランスさというか、一般的なイメージに縛られない感じは余計マジシャンの雰囲気を醸し出していた。
目の前まで近づいてきた彼は口を開いた。
「最近何かものをなくしたりしていませんか。」
何か知ってそうな口ぶりで言った。そう、私は一昨日大事なものを無くしてしまっているのだ。
私は毎日、この町をジョギングしている。きっかけは3年前、健康診断で医者から『肝脂肪』だといわれたことだ。その病気を改善するためには運動が最適だということで、運動が嫌いでもなかった私はジョギングをやってみることにした。初めは体が思うように動かず、何日かサボったこともあったが、続けていく内にだんだん楽しくなって、距離をのばしたり、ペースを上げたりと、今ではこの小さい町を30分で一周できるようになった。今ではそれが日課になった。
一昨日のことだ。私はいつも通りジョギングしていると、テレビの番組で、腕時計をしたまま走ると足が遅くなる。というのを見たのを思い出したので、いつもつけていた腕時計を外し、ポケットに入れ、ジョギングを続けた。これが失敗だった。
家に帰りつき、流した汗をシャワーで流そうと、服を脱ぎ、腕時計を出そうとポケットに手を突っ込んだ。
あるはずのものが無い……。どうやら腕時計をどこかに落としてしまったようだ。急いで走った道を逆走した。落ちてそうな場所をくまなく探したつもりだったが、無かった。そのときは外せない用事があったのでやむなく捜索を断念した。用事を済ませた後、交番にも行った。もう一度落ちていないか確認した。それでも見つからなかった。
これがごく普通の腕時計であるなら諦めがつくのだが、私がつけていた腕時計は特別なものだった。質屋にだせば、がんばっても300円くらいのものだろうが、この時計は、私が今は亡き親友に初めてもらったプレゼントだった。もらった頃はまだ小さかったが、今まで大切に愛用していた。私はそんな宝物を失ってしまったのだ。
「私は大切なものを無くしてしまった。どうすればいいのやら……」
「ワタクシの願いを聞いてくださるのなら、その落とし物探し当てましょう」
マジシャンは得意げに言った。
「その願いとは。」
「あなたの家の近くに、私の家を建てたいのです。そして私の家を守って欲しいのです。」
もっと悪のこもった回答が来るのかと思ったがそうではなっかた。いや、実際裏があるのかもしれない。というかなんなのかわからない。
「わかった。しかし本当に見つけられる保証はあるのか」
マジシャンは少し黙り、考え込んだ。
しばらくして口を開いた。
「ワタクシはそういう仕事をしていますので見つけるのには自信があります。私の広いネットワークを駆使すれば見つかるでしょう。」
考え込んでいたことが気になるが、話を聞いた感じ探すことには自信があるようだ。
「願いの内容だが、何か隠していることとかはないんだな。守るって言ってもできる範囲でしか対応できないぞ」
「できる限りのことをこなしてくだされば十分です。」
なんだかうますぎる話で怪しむべきだろうが、しかしこれは夢の話。約束も何も関係ない。
「それなら喜んでその願いを聞き入れましょう」
「本当ですか。ありがとうございます」
マジシャンは嬉しそうに言った。なんだか立場が逆転しているような気がする。
このあと、なぜここに家を建てるのか、なぜ引っ越してきたのか、どうしてそんな恰好なのか、そんなことを聞いたが、
「あなたの家を見てここがいいと思った」「以前の隣人が家を壊してしまった」「これは生まれつきなのです」
など、なんだかよくわからない答えがかえってきた。まあ、夢らしいといえば夢らしい。
しばらく話していて、マジシャンは何かを悟ったようだ。
「本日はありがとうございました。それでは明日から我が家を作らさせていただきます。落としものですが、一週間以内に届けますね」
マジシャンがそう言った途端視界がぼやけてきた。そしてだんだん瞼が重くなってきて……。
目を開けると見慣れた空間だった。私の部屋だ。夢の時間は終わってしまったようだ。そういえば名前とか仕事のこととか肝心なことを聞くのを忘れていたな。そんなことを思いながら洗面台に向かった。
正夢とか、そんなことは信じない性格であったが、昨日の夢はなんだか本当に起こる気がした。
しかし、次の日、またその次の日も、近所の空き地全て、工事が始まるような気配はなかった。
近くの空き地に家が建つのか、近所の方々に聞きまわったが、全員がそんなこと初めて聞いたと言った。
しかし、不思議なことに私の腕時計は自宅の郵便受けに置いてあったのだ。あのマジシャンが届けてくれたのだろうか。
結局、あの夢から一週間が経ったが相変わらず空き地は寂しいままだった。まだ、誰が腕時計を置いてったのかわからないが、きっとあのマジシャンの仕業だろう。あのマジシャンに何かお礼の一言でも言えればいいのだが。とにかく、このことは感謝し続けなければならない。そしてもう二度とこの腕時計を無くしてはいけない。そう心に誓った。
不思議な夢で始まった春は、なんだかうまくやっていけそうな気がした。
そういえば……最近ツバメが玄関のドアの上に巣を作った。昔からツバメは縁起のいいものとされている。ラッキーなことが起きたものだ。