巡査 沖田総一
「赤森1から照会センター」
「照会センターです、どうぞ。」
「赤森署、地域、今川。追尾車両につき、盗品車両照会1件願います。」
「どうぞ。」
「ナンバー手岩300、さくらの”さ”5723、ベンツ白色」
「了解。手岩300、さくらの”さ”5723、でよろしいか?」
「そのとおり、どうぞ。」
「ヒット。平成30年3月23日、手岩署から盗難車両にて手配あり。・・・・・」
ウ~ン。寝静まった夜の国道で赤い回転灯とともにサイレンが鳴り響く。
それまで闇に紛れていた白黒ツートンの車が姿を照されると、その前を走っていた白色のベンツは急加速し狂ったように走り出す。
しかし、ツートンの車両は、獲物を見つけたチーターのように追走する。
直線ではベンツがその差を広げるが、ここは田舎の国道。頻繁に現れるカーブでは無駄な抵抗と言わんばかりにパトカーがピタリと追い付く。
「5723、止まりなさい。」
ベンツは、一向に止まる気配を見せない。
カーブをいくつ回っただろうか、ベンツは左にハンドルを切り、脇道に逃げ込んだ。
が、これが命取りとなった。ベンツが入り込んだ道路は工事中で舗装が剥がされているうえ、昼間の雨でぬかるんだ地面でタイヤが滑り、制御を失った。
真夜中のカーチェイスは、僅か10分ほどであえなく決着した。
「よ、沖田。捕まえちゃったよ。」
「やったな。赴任してから1か月で大物捕まえるなんて凄いじゃないか。」
「凄いじゃないか、じゃなくて、凄いじゃないですか。だろ。」
「すいません。凄いじゃないですか。」
「ベンツ盗むような奴だからなぁ。いろいろやってるよ、きっと。こんな田舎でも、こんな大物捕まえることができるんだ。やっぱり、持ってるねぇ俺は。ま、お前もせいぜい、がんばれよっ。駐在さん。」と言い残すと、今川は2階の刑事課に姿を消した。
沖田総一と今川賢四郎は、共に5年前、県内の高校を卒業後、警察官を拝命した警察学校の同期生だ。
二人は、10か月間にわたる採用時教養の初任科を無事終えたが、今川は首席で卒業。一方の沖田は泣かず飛ばずの成績だった。
今川は、昨年、はじめて受験した巡査部長昇任試験を一発で合格し、今年4月の定期異動で、沖田がいる赤森警察署に異動してきた。
警察学校を首席で卒業し、巡査部長昇任試験を一発で合格した今川は、赴任後、同期の沖田に対してなにかと鼻に掛け、沖田を小馬鹿にする態度を取ってきた。
今川巡査部長は地域課自動車警ら隊、通称自ら隊の主任で、昼夜、管内をパトカーに乗ってパトロールする勤務。
一方、沖田は同じ地域課だが、駐在所勤務。
決して駐在所勤務が悪いわけではないが、交番と違って駐在所に住み込み活動する勤務は、なにかと人気がない。休みはあるが、休みでも住民はおかまいなしに「駐在さ~ん。」とやって来る。
駐在所は夫婦一緒に赴任するのが原則だが、今どき、30歳を過ぎると、みんな警察本部のある市内に家を建てているから、単身赴任する警察官が多い。
駐在所勤務員は年配者が多いというイメージがあるが、近頃は、年配者といえどもプライベートのない駐在所を希望する者は少なく、なにかと理由をつけて駐在所勤務になるのを避けようとする。したがって、独身の若い警察官が駐在所勤務になることも少なくない。
沖田もその一人。1年前、赤森署に異動が決まった際、駐在所勤務を拒否する理由などなく、署長から駐在所勤務を言い渡された。署長もできることなら若い警察官は駐在所よりも自動車警ら隊に配属したいが、年配者から駐在所に赴任できない理由を並べ立てられたらどうしようもない。
「はぁ、俺も自ら隊で泥棒捕まえたいな。」
沖田は、毒つく今川に対する悔しさから、駐在所勤務を嘆いた。
赤森署は、県境を管轄する小規模警察署で交番はなく、もっぱら自動車警ら隊と駐在所でパトロールを行い地域住民の安全を守っている。
その中でも沖田が勤務する山富駐在所は、警察署からも離れた農村地域にある。
駐在所の管轄区域のことを”所管区”という。
山富駐在所の所管区は、見渡す限り田んぼと畑。
農家が一番多く、高齢者率は45パーセント。コンビニは、国道沿いにある1軒のみ。
そんな駐在所勤務にも自ら隊勤務にはない魅力がある。
パトカーを走らせながら、交通違反を検挙したり、不審者を職務質問する自動車警ら隊には受け持ち住民がいない。
一方、駐在所は、一住民としてそこに住み着くわけだから、通い勤務の交番以上に地域住民との密着度が高い。
受け持ちを一軒一軒回って住民の困りごとを聞いたり、住民と一緒に通学中の小学生の見守り活動や特殊詐欺被害防止活動を行ったりする。
地域の寄り合いに呼ばれ、一緒に酒を飲むことも少なくない。当然、相手はおじいちゃん、おばあちゃんが中心だ。
農家が多い山富駐在所では、近所の住民が採れたての野菜を持ってきてくれる。
家で採れた梨、柿、イチゴなどの果物も。こと食べ物には困らない。
先日も、パトロールから戻ると、駐在所の玄関にほうれん草が置いてあった。近所の70歳になる田中タエというおばあちゃんだ。
田中さんの畑では、ほうれん草、キャベツ、玉ねぎ、ナス、じゃがいも、大根と一年を通じていろいろな野菜を作っている。
子供がみんな県外に出てしまった田中さんは独り暮らしで。孫ほど年の違う沖田をなにかにつけ可愛がってくれる。
そんな平和な地域でも年間2~3件、犯罪が発生する。県外からやってきた窃盗団が空き巣を働いたり、自動販売機を壊して現金を盗む。
では、地元のごろつきが犯す犯罪はないのか。確かに統計上は皆無に等しい。
畑の野菜が盗まれたとか、近所との揉めごとでガラスを割られたとか、本来であれば被害届が出されるような事件はあるが、相手が近隣住民であるが故に被害届が出されることはなく、そのほとんどが無届で終わったり、パトロール要望という種の相談で終わる。
じめじめした梅雨がやってきそうな6月3日、赤森警察署では月に1回開催される全体会議が行われ、その冒頭に、4月末に今川巡査部長が検挙した自動車盗事件の表彰が行われた。
「賞、南森警察署 巡査部長 今川賢四郎、君は警ら中に不審車両を発見するや鋭敏な捜査感覚により自動車盗事件被疑者を検挙した・・・・。」「よくやってくれた。引き続き頑張ってくれ。」
署長から、警察本部刑事部長の表彰が伝達授与された。山間部の平和な小規模署で刑事部長から表彰状が出るのなんてそうそうあることではない。署長もご満悦だ。
「刑事部長から表彰状をもらうなんて俺には無縁だな。」
沖田は、署長から表彰状を授与される今川を見て、ため息しか出てこない。
全体会議が終了すると、今川が廊下を歩いている沖田に駆け寄ってきた。
「刑事部長表彰もらっちゃたぜぇ。」
「凄いじゃぁないですか。」
「ベンツ盗んでるから、もっといろんなもの盗んでると思ったんだけどなぁ。余罪が沢山あったら本部長表彰だったかもしれねぇのに。ちゃんと捜査したのかねぇ、刑事さんは。せっかっく捕まえても・・・・・。」
地域課員が検挙した被疑者は、原則、刑事課などの専門部署が引き継ぎ、取調べや裏付け、余罪捜査を行う。当然、余罪が沢山出れば、重要事件の検挙となり、表彰のランクも上がる。
被疑者とは、いわゆる犯人のことで、法律上、検察官に起訴され裁判にかけられて被告人となるまでは、犯人のことを被疑者という。
今川が検挙した窃盗被疑者は、キーつきのベンツを盗んで遊び回っていた輩で、車上狙いも多数自供したらしいが、ほとんど被害届が出ておらず裏づけがとれなかった。事件を検察庁に送検するには、犯罪を犯した日時、場所はもちろんのこと、被害者も特定しなければならない。車上狙いの場合、被害届が出ていなければ、被疑者がナンバーをメモしていたり、被害者を特定できるような盗品を後生大事に保管していない限り特定のしようがない。
今川が検挙した被疑者は、決して小さい玉ではなかったが、運が悪かった。今川はそれを知っているから、毒づいてみせたのだ。
「次は、本部長表彰狙ってやるぜぇ。まずは、昼飯だ。腹が減っちゃ、戦はできねぇ。てな。」
今川は一方的に捲くし立て沖田の方をポンと叩くと、自ら隊の部屋に消えて行った。
(なに言ってんだ。パトロール中に前を走ってた県外車両の盗難照会をしたら、たまたまヒットしただけじゃないか。あんだけ、朝から晩まで走ってりゃ、ヒットもするさ。偉そうに。)
そんな簡単なもんじゃないことくらい分かってはいたが、駐在所で勤務している自分には到底チャンスなんて回ってこないと思うと、沖田は心の中で吐かずにはいられなかった。
「沖田ぁ。」
後方から、沖田を呼ぶ声が聞こえた。地域課長の木下藤吉警部だ。
「はい。」
「ちょっと来てくれ。」
「分かりました。」
沖田が木下課長のデスクに行くと、木下課長は
「おう。ご苦労さん。同期の今川が刑事部長賞もらったなぁ。4月に赴任してきたばかりなのに凄いなぁ。ところでお前はどうなんだ。同期だろ。」
「はぁ。」
「お前、去年の4月に赴任して以来、刑法犯の検挙あったかぁ?」
(ちぇ、またその話かよ。)
「1件だけですけど。」
「あぁ、去年の夏、コンビニから通報のあった万引きな。あれ1件だよな。しかも通報だ。」
「すみません。」
「九つある駐在所でも最低の成績だ。アディショナルタイムに入った退職前の駐在所員でも、もうちょっと捕まえてるぞ。」
(よく言うよ。一番奥のなんもない駐在所に赴任させといて。)
「なんとかしろ。ねずみを獲らない猫はいらん。」
「はい。」
はいと言ってはみたものの、年間2~3件しか発生のない駐在所で、どうしろと言うんだ、やれるものならお前がやってみろ、と沖田は心の中で毒づいた。
木下課長は、次々と昇任試験に合格してきたエリート警察官だ。30代という若さで警部に昇任し、昨年の春、この赤森警察署に地域課長として赴任してきた。あまりにも出世が早く、警察本部や大規模署の警備部門ばかりを歩んできたせいで、犯罪検挙や地域住民との関わりの経験が極端に乏しい。
成績の上がらない課員に「どうにかしろ。」とは言うが、その具体策を指示したり指導することはない。
そんなモヤモヤを抱えている沖田に、木下課長は追い討ちを掛けるように「おい。次長が一緒に来いってさ。」と言って、沖田を次長のデスクに連れて行った。
(かぁ、今度は次長かよ。)
次長は、木下ほどエリートではないが、40歳で警部に昇任した刑事経験豊富なこてこての警察官だ。管理職の次長になってからも、こと犯罪検挙にはうるさい。若いときから根性と粘り強さに長け、頭もきれる。部下にも厳しいが自分にも厳しい。刑事課だけでなく交通課もその厳しさに舌を巻いている。
「次長、沖田を連れた来ました。」
「おう、ごくろうさん。まぁ、座れや。」
次長は笑顔で二人を迎えると、デスク脇のソファーを勧め、先に座った。
「失礼します。」
次長が座るのを見届けてから二人も座る。
「早速だけど、沖田君、去年の4月に赴任してから犯罪検挙がないな。」
(またその話か。)
「いえ、1件ありますけど。」と木下課長が言う。
「その1件って、万引きの通報だろ。通報じゃぁなぁ。」
すでに店員が捕まえている万引きの被疑者など、警察官の検挙実績とはいわないと言わんばかりの口激だ。
二人は、刑事魂の塊のような次長に反論もできない。
「ところで、山富駐在所の管内では、今年の3月以降、畑から野菜が盗まれる被害が例年以上に多いらしいじゃないか。」
「確かに、そういう話は聞いています。」
と沖田が言うと、続けて木下課長が
「次長、パトロール要望の相談を数件受理しています。駐在所だけでなく自ら隊でもパトロールをしていますが、なにせ夜間の犯行ですし。」と返答した。
「確かにパトロール要望の相談の書類は何件か見た。本当にパトロールするだけでいいのか?」
次長からの追及に対し、沖田が「被害届が出ているわけではありませんし。」と答える。
すると次長は「被害届が出ていなければ、捕まえても何の実績にもならないからやる価値がないということか。」「住民は、本当に捕まえて欲しいと思っていないのか?」と若干、強面の表情に変わった。
この様子を察知した木下課長が「被害額もせいぜい数百円の事件ですから、捕まえて欲しいと思っているとは・・・・。」
これを聞いた次長の目尻が吊り上った。
「お前たちは、誰のために犯罪を検挙するんだ。その価値観は金額の大小が全てなのか?」「住民が被害届を出さないのは、犯人が近所の者だからじゃないのか。」「野菜を盗むような奴は日々の生活に困ってる可能性が高い。犯罪で生計を立てているそんな奴を許していいのかぁ。」「被害届が出てるとか、出てないとか、被害額が数百円だからって言ってないで、とっとと捕まえてこい!」
次長の檄が飛んだ。
やっかいな人を怒らしてしまった。
次長は、その場の成り行きだけで檄を飛ばしたりはしない。本当に捕まえろと思っているからそう言ったに違いない。だから、結果が出るまで何度も進捗状況を確認してくる。いや、結果以上にその取り組み状況や姿勢にこだわるところがある。
(こりゃぁ、本当に捕まえるまで、しつこいぞ。)
木下課長もそう思ったに違いない。
二人は、「はい。」と返事しただけで、決裁を待っている刑事課長とすれ違うようにソファーを後にし、地域課に戻った。
「数百円の野荒らしなんか、お前一人でなんとかしろ。」
木下課長は吐き捨てるように言った。
畑の野菜や果物を盗む手口を野荒らしという。
(でた、なんとかしろ。しかも一人で。どうすればいいんだ・・・)
「返事はぁ!」
「はい。分かりました。」
とてつもない難題を突きつけられ、途方に暮れた。
駐在所に帰り、これまで受理した野荒らしの相談を確認する。相談は全部で6件。例年この時期だと2~3件だ。なぜか、今年の3月以降、頻発している。たぶん、相談すら受けていない被害もあるはずだ。
確かにこのまま野放しにしておけば、これから夏場に入り被害は増える。
相談の内容は全てパトロール要望だが、被害が予想される静かな夜間に、パトカーの走行音やライトが光る中、堂々と犯行を打つ奴はいない。それでも被害が止まればいいが、パトカーを見ても茂みに潜んでパトカーをやり過ごしさえすれば、畑の野菜を二つや三つ盗むことは造作もないことだ。
この被害を食い止めるには、犯人を捕まえるしかない。だから、次長は、すべこべ言わずに捕まえてこいと言ったのか。
本来なら、次長に言われるまでもなく、所管区責任として自分が関心を持たなければならなかったのではないか。
俺たち警察官は、誰のために犯罪を検挙するのか?次長の言葉が重く圧し掛かった。
でも、一人でどうやって。課長からは何も指示がないし、次長も捕まえてこいというだけで、具体的な指示はない。
(なんだかんだ言って、幹部は何とかしろとしか言わないじゃないか。くそぉ。)
駐在所の事務室で途方に暮れていると、デスクの電話が鳴った。
「はい。山富駐在所、沖田です。」
「沖田か。もっと気落ちしてるかと思えば、元気そうじゃないか。」
この声は、上杉刑事課長。
上杉刑事課長は、沖田や今川が初任科生のときの教官だ。当時、犯罪捜査の授業を担当していたが、昨年、警部試験に合格し、春の定期異動で赤森署に刑事課長として赴任してきた。
上杉教官は厳しいが、決して口先だけではなく学生と一緒に汗を流すタイプの教官だった。
学生には”熱い教官”として慕われ、卒業してからも上杉教官を頼る学生は少なくない。
「今川が刑事部長表彰を受けて、いじけてんじゃないかと思ったが、そうでもなさそうだなぁ。」
「そんなに元気じゃありまえんよ。馬鹿な私でも悩みぐらいあります。」
「なんだ、また、今川に嫌味でも言われたか?」
「それは慣れてます。」
「そうか。それはそうと、お前、駐在所で一人、いつも食事どうしてんだ。」
「近所からもらった野菜とスーパーから買ってきた肉を炒めたり煮込んだりして、なんとか自炊してます。近所に食べる所ないし。」
「よし、じゃぁ、今日、署の近くにある蕎麦屋で一杯やらないか。俺も単身赴任だし、たまにはいいだろう。どうだ。」
「いいですけど、私は飲めませんよ。帰りの足がありませんから。」
赤森警察署の管内では、夜になるとバスも走っていなければ、タクシーもない。
「そんなこと心配すんな。俺の官舎に泊めてやるから。明日、公休日なんだろ。」
「休みまで調べてるんですか。さすが詰めがしっかりしてるっていうか。でも・・・。」
「外泊届か。俺が地域課長と当直にはちゃんと言っといてやるから。とりあえず出て来い。」
警察官は、不測の事態に備えて、遠出したり外泊するときは届け出て所在を明確にしておかなければならない。携帯電話が普及し、以前に比べれば緩和されたが、それでも重大事件が発生した際、連絡が取れなかったり、登署するのに何時間も掛かる所へ届出もせずに行っているなんてことは許されない。
「わかりました。では、行かせていただきます。」
あいかわらず強引だなぁと思ったが、上杉教官だとなぜか腹が立たない。あの熱量に包まれるのが心地よいとさえ感じる。これがみんなから慕われる由縁だ。
約束の時間に、そば処「吉宗」に行くと、若い女性の店員が出迎えた。
「あのぉ、上杉ぃ」
「はい、赤森署の方ですね。上杉課長さんから伺っています。どうぞこちらへ。」
沖田は、奥の和室に通された。
酒を飲むと、どうしても仕事の話になる。警察の仕事には秘密事項が多い。
だから、警察官が来ると、この店では奥の和室に通すのが慣例となっている。
しばらくすると、上杉課長が一人でやってきた。
「おう、待たせたなぁ。」
「いえ、私も先ほど来たところです。」
「そうか。なんか恋人の会話みたいだけど、気楽にやろうぜ。」
「今日は、二人ですか。」
「そうだけど、ダメか。」
「いいえ、久しぶりなんで、二人だけだと緊張するというか。もう教官じゃなく刑事課長さんですから。」
「なに言ってんだ。肝心の俺自身、刑事課長っていう自覚がなくて、課長って呼ばれても自分が呼ばれてるって気づかないこともあるんだ。だから気にすんな。」
「ご注文は?」二人の会話が一段落するのを待って店員が声を掛けた。
「ビールでいいか。」
「はい。」
「何か、嫌いなものあるか?」
「いいえ、ありません。」
「じゃぁ、生中二つ。どうせ、こいつは魚なんて食ってないだろうから、煮魚二人前。あとはいつもどおり適当に持ってきて。」
「はい。かしこまりました。」
注文したビールが届き乾杯した後、二人は警察学校時代の話や沖田が卒業後赴任した警察署での話で盛り上がった。
ビールを何回かおかわりし、酔いも回ってきたころ、上杉が切り出した。
「今日、次長に呼ばれてたなぁ。」
「所管区内で発生している野荒らしの相談、知ってますよね。被害届が出てないし被害額も数百円なんで放ってたんですが、次長が捕まえろって。」「木下地域課長は、捕まえても実績にならないからお前一人でなんとかしろって言うだけで、具体的な指示もしないんです。」
沖田は、酔いが回ってきたことに加え、相手が上杉であることで、つい、愚痴ってしまった。
「そうか、お前も大変だなぁ。でも、本当に実績にならないのかなぁ。」
上杉がそう言うと
「だって、被害届出てないんですよ。次長は、誰のための犯罪検挙だと言うんですけど、時間掛けて捕まえても実績にならないんじゃねぇ。最終的には実績はどうかっていうことになるじゃないですか。」と沖田が愚痴る。
「俺の経験ていうか、勘だけど、捕まえたら被害届出してくれるんじゃないか。それに数百円の被害でも、丹精込めて作った野菜を盗んだ泥棒捕まえてくれたら被害者はうれしいどろう。それが受け持ちの駐在さんだったら、なおさら。沖田も野菜が盗まれたら、駐在所に来る野菜が減るんじゃないのか。」
上杉が言うには、盗まれている野菜の量からして金に換えるために盗んでるのではなく、自分が食べるためと思われる。
こんな田舎にそんな野菜泥棒が何人もいるとは考えられないから犯人は同一人物。と考えると、その日の生活もままならない近所の者が盗んでいる可能性は極めて高い。
まして、今年の3月から被害が増えたことを考えると、その頃、犯人に何かしら環境の変化があったと考えられる。
「あ、石川。」
沖田が思わず大きな声を上げると、上杉が人差し指を口に当てた。
「でも、課長。あいつの前刑は忍び込みですよ。野荒らしをするようなこそ泥じゃありません。先日、巡回で家を訪問したときも『仕事はしてないけど、役場から生活保護もらってる。』て言ってたし。」
上杉課長は、「被疑者は石川かもしれないし、そうでないかもしれない。でも、やってみなけりゃ分からないだろ。」と沖田をたしなめた。
沖田は、上杉の授業を思い出した。上杉は、被疑者には常人には分からない事情が存在することが多いと教えた。
口癖は漫画のタイトルからパクった「はじめの一歩」だ。
これは、考えることは大切だが、頭だけで判断するな、可能性があるなら、まず第一歩を踏み出せ、一歩踏み出しさえすれば二歩目からは現場が教えてくれるという意味だ。
上杉は若いときこれができず幾たびと失敗したらしい。その教訓からこれを口癖に学生や部下を指導している。
蕎麦屋で2時間ほど飲んだ二人は、上杉の官舎に場所を変え、遅くまで飲み明かした。
「山富駐在所の沖田です。ただいま駐在所に帰りました。」
沖田は、翌朝、駐在所に帰ったことを当直に電話で告げた。
上杉と飲んでいるときに思いついた容疑者「石川五郎」、こいつは前科20犯以上を有する不良徒輩で、刑務所を出てはすぐに盗みを働いてまた刑務所に入る地域の嫌われもので、夜間、人が寝静まっている家に侵入し、鞄や背広のポケットから財布や現金を盗む忍び込みという手口専門の泥棒だ。
人の家に入って物を盗むなら留守宅に入る空き巣の方が安全だが、この忍び込みは一度やるとやめられないという。
昔と違って、今は、給料は銀行振り込み、現金はキャッシュカードでいつでも払い出せる時代だ。
家に現金を置いておく必要がないから、留守宅に現金がある可能性は低い。
特に田舎は、昼間はともかく家にいる夜間は鍵も掛けずに寝る家が多く、侵入するのもたやすい。中には人の寝ている枕元を平気で歩く奴もいるらしい。
しかし、東京オリンピックに向けてキャッシュレスの普及が始まる。
こうなると、夜間、住宅に入っても現金がない時代がやってくる。忍び込みのプロも仕事場を失ってしまう。
とはいえ、盗みのプロが、畑の野菜を盗むだろうかと思いながら、相談を受けている被害者の畑を地図に落としてみた。
あくまで相談を受理している畑に限っての話だが、いずれも石川五郎の家から1キロ以内だ。案外、この推理は当たっているかもしれない。
(このことを教えるために、上杉課長は、昨日、俺を呼び出したのか?)
以前と変わらない、上杉課長の面倒見の良さと火傷しそうな熱さに頭が下がった。
それに引き換え、木下地域課長は・・・。
そう思いながら、地図に目を落とすと、田中タエさんの畑がこのエリアにあるのに気づいた。
去年の今頃、田中さんから沢山の玉ねぎをもらい、毎日、いろいろな玉ねぎ料理をクックパッドで探した。
田中タエさんの畑が危ない。
以前、容疑者の石川五郎がコンビニに酒を買いに行くのに、田中さんの畑の脇の道路を歩いているところを目撃したことがある。
今日は、公休日だったが、木下課長に電話し、しばらくの間、勤務変更を申し出て、毎日午後8時から午前0時まで、田中さんの畑で張り込みをすると告げた。
「分かった。何でもいいから早く捕まえろ。自ら隊には、その時間、張り込み場所に近寄るなと言っておくから。」と木下課長は他人事だ。
田中さんの畑の脇には茂みがあり張り込みやすい上、周りにもいくつか畑があるので、ほかの畑も一緒に見張ることができる。
初日は、午後10時頃に2台ほど車が通過しただけで何の変化もなく終わった。
始める前は、警察官としての血が騒ぎ、意気揚々としていたが、いざ張り込んでみると、蚊に喰われるは、人気もないから時間の経つのが恐ろしく遅い。
沖田は、張り込んだ翌日、野菜が盗まれたという話がでないか気が気でない。
張り込んでいるのに他の畑で盗まれたとなると、本当に田中さんの畑で張り込んでいてよいのかと不安になる。
沖田にとって、野菜を盗まれたという話を聞かないのが、なによりの栄養剤だ。
張り込み2日目は雨だった。合羽を着て前日と同じく茂みの陰に身を潜め、ひたすら犯人が現れるのを待つ。
6月の雨はまだ冷たい。合羽の帽子に当たるピシャ、ピシャという雨音が寒さを増幅させる。顔も雨で濡れてきた。時間を追うごとに全身に寒さを感じる。
前日以上に時間が経たない。
ふと、雨の日は張り込みをやめようかもと思うが、もし、やめて被害が発生したら、と思うとやめる訳にはいかない。2日目にして、正念場だ。
そんな張り込みをしていると、早く犯人現れろという気持ちから、張り込み終了の午前0時まであと何分という感情に変わってくる。
厳しい採用時教養を受けた警察官といえども人の子だ。
ましてや一人での張り込み。忍耐との戦いになってくる。
雨が止んだ午前0時頃、この日の張り込みを終了した。
「なんで、終了する頃に雨がやむんだ。俺は、本当についていない。」
自分の運のなさを嘆く沖田だが、その翌朝、これに追い討ちをかける出来事が。
張りこんでいる田中さんの畑から、500メートル離れた畑でナスが盗まれたらしい。
沖田はショックを隠しきれない。張り込んだ場所以外での発生、加えて、雨の日に盗まれた。
やはり晴れた日だけ張り込むという作戦は通用しない。
しかし、発生した畑は想定のエリア内であったことが唯一の救いだ。
盗まれたのはナス。これまで盗まれたのは、ニンジンやほうれん草、キャベツ・・・。玉ねぎはまだない。
先日、テレビで玉ねぎは長寿に欠かせない野菜だと放送したところ、スーパーで品薄状態が続いているらしい。今、玉ねぎは人気の野菜だ。
沖田は、犯人は絶対に来ると自分に言い聞かせた。
そんな矢先、天敵が現れた。
「沖田。トイレ貸してくれ。」
自ら隊の今川巡査部長だ。トイレから出てきた今川はいきなり毒ついた。
「沖田、例の野荒らし張り込んでるんだって。ご苦労なこったなぁ。パトロール要望の相談のおかげで、こっちも困ってるんだ。実績にもならない泥棒のパトロールなんかしてるより、人が集まる所で不審者見つけて職務質問したいんだよね。」
饒舌な今川の話は続く。
「先日もさぁ、信号が青になっても走り出さない車を職務質問したら飲酒運転だったんだぜぇ。これだけ飲酒運転はダメだって言ってるのに、まだ飲んで乗る奴がいるんだよ。もっと、捕まえて表彰もらっちゃお。今度は交通部長賞なんちゃって。」「沖田も早く野菜泥棒捕まえて、俺たちの貴重な時間返してくれよな。捕まえてもクソにもならないけど、みんなの幸せのためにさ。」
今川は言うだけ言うと、そそくさと駐在所を出てパトカーに乗り込み走っていった。
「やかましい。俺は俺の仕事をするまでだ。」
その後も張り込みは続き、ついに5日目を迎えた。
さすがに、沖田も気が滅入ってきた。今日は、張り込みを休もうかと思ったが、今日は、本署で上杉刑事課長が当直勤務に就いている。
沖田になんとか検挙させてやろうといろいろ話をしてくれた上杉課長が当直をしている日に張り込みを休む訳にはいかない。
いつもどおり、午後7時半に駐在所を出て張り込みについた。
今日は心持ち暖かいが曇っていて月明かりすらない夜だ。
もうしばらくすると本格的な梅雨となり、雨の日が続く。そうなる前に捕まえないと体力が持たない。
「張り込みを始めて5日目、そろそろ現れてもいい頃だ。犯人もナスばかり食べてては飽きるだろう。そろそろ玉ねぎが食べたいと思っているだろう。さあ、盗りに来いよ。田中さんの家の玉ねぎは美味しいぞ。それは俺が実証済みだ。」と呟きながら、犯人が現れるのを待つ。
連日の疲れで睡魔も襲ってきた。
警察学校の法学の授業では、いつも睡魔と闘っていた。初めて耳にする難しい言葉、加えて教えている教官がおもしろくない。法学の授業だから仕方ないと思いつつも、くそ面白くない。
午後いちの授業では、昼食の満腹感も手伝って、授業開始15分で睡魔が押し寄せてくる。それももの凄い勢いで。
そんなときは、足を抓っても叩いても効果がない。
立ったまま授業を受けさせられたり、ペナルティーでグラウンドを走らされたこともあった。
そんなことを思い出していると、午後11時半を回っていた。
あと30分で今日も終わりと思うと、睡魔は消え伏せたが、今日も来なかったかという焦燥感にかられた。
そんなときだった。上手のほうから道路を歩いてくる靴音がした。
これまで車が通ることはあったが、人が歩くことはなかった。
靴音が大きくなってくるにつれ、人影も大きくなってくる。
その人影が、田中さんの畑の前で止まった。
犯人なのか。少なくとも田中タエさんの姿とは違う。
沖田の心臓は、バクバクと鼓動が大きくなる。
警察官になってこんな興奮は初めてだ。
立ち止まって何をしているのか。辺りを確認しているのか?
ポケットに手を入れた。取り出したのは袋?
暗くてよく見えない。
「行け。畑に入れ。」
沖田は心の中で叫んだが、人影は畑に入ろうとしない。
ほんの数秒の出来事なのだが、沖田にはスローモーションのように時間が流れ、何分も人影が動かないように感じられた。
沖田の心の鼓動が時間をゆっくり流れさせているのだ。
人影が、ついに一歩を踏み出した。そして、また一歩、二歩と畑の中を歩いていく。
沖田は言い聞かせた。「まだだ。」
畑の中に入っただけでは、犯罪が成立しない。
野菜を引き抜き自分の支配下に置いて初めて窃盗は既遂になる。
今、出て行っては今までの苦労が水の泡だ。
人影は、玉ねぎが植えられている畝にたどり着くと、玉ねぎの茎に手を掛け、いっきに引き抜いた。ように見えた。
しかし、よく見えない。
複数個盗るはずだ。もう少し我慢だ。
沖田は、人影の動きを今一度観察する。
人影は、同じように玉ねぎを引き抜くような動作を見せた。
もう一度。
その僅か後、沖田は確信した。
「間違いない。引き抜いた。」
その瞬間、沖田は茂みの陰から飛び出したが、あまりの興奮に足を滑らせ前のめりに転んでしまった。
「しまった。」
沖田の動きは、茂みが揺れる音と同時に、犯人の知るところとなった。
犯人は、畑の中を沖田とは反対方向に逃げようとする。
沖田はこれを追いかけようと、直ぐに立ち上がる。
犯人も必死だ。
しかし暗闇の畑。
犯人は抜いた玉ねぎを踏んで足をとられ転んだ。
そこに沖田が飛びついた。
「ぐわぁ!」犯人の悶絶する声が響き渡った。
二人のほか誰もいない畑の中に。
沖田は、犯人に覆い被さったまま、無線を手に取ると、興奮した声で本署を呼んだ。
「赤森212から、赤森。」
「赤森です。どおぞ。」
上杉課長の声だ。
「沖田です。現在、所定の畑で張り込み中、野荒らしの被疑者を補足しました。応援願いたい。」
「了解。すぐに応援を向かわせる。被疑者は誰だ?」
この無線を聞いて、我に返った沖田は、自分の下敷きになっているうつ伏せ状態の犯人の顔を確認した。顔に付いている畑の土を拭うと、間違いない、石川五郎だ。
「石川です。石川五郎です。」
「逮捕しろ、現行犯逮捕しろ。」
「え、数百円の野菜泥ですよ。」
「盗んだところを現認したなら、逮捕しろ。」
「は、はい。」
警察学校で習った無線の通話要領もへったくれもない。
沖田は、腰に付けていた手錠入れから手錠を取り出そうとするが、一人で犯人を取り押さえているので、思うように体を動かせない。
やっとの思いで手錠を取り出し、「窃盗の現行犯で、逮捕する。」と告げ、犯人の両手に後ろ手錠を掛けた。
一件落着。
この捕物が行われた5分後、応援の刑事が現場に到着した。
本署から現場まで、通常は20分以上かかる。緊急走行しても5分では来れない。
沖田が張り込みを始めた以降、上杉課長は、いつでも応援に行けるよう、毎晩、刑事を前身待機させていたのだ。
老いぼれたとはいえ、前歴20件以上の強者だ。
しかも夜間、現場では何が起こるかわからない。
石川五郎が盗んだ玉ねぎは3個、被害額は200円。
被害者の田中さんは、二つ返事で被害届を出してくれた。
立派な窃盗事件検挙1だ。
僅か200円の窃盗事件だと言って、鼻にもかけない署員もいたが、逮捕したのは窃盗常習者の石川五郎。
こそ泥とは訳が違う。
石川五郎は、3月以降の野荒し事件15件に加え、隣の警察署管内で発生した忍び込み事件7件も自供した。
パトロール要望の相談だけで被害届を出していなかった被害者はもちろんのこと、相談すらしていなかった被害者も、刑事が問い合わせると、なんのためらいもなく被害届を出してくれた。よほど、嬉しかったのだろう。
自供した野荒らし、忍び込み22件は全て立件され検察庁に送検された。
起訴された石川五郎は、裁判で懲役3年の実刑判決を受け服役することとなった。
当分戻ってこない。山富駐在所の所管区内に平和な日々が戻った。
「上杉課長、いろいろありがとうございました。」
数日後、沖田が刑事課長を訪ねた。
石川は生活保護を受給などしていなかった。
刑務所を出所した以降、何件か忍び込み事件を敢行したが、今の時代、現金はなかなか手に入らなかった。そこで食うに困り、野菜を盗んで飢えをしのいでいたのだ。
「上杉課長の言われるとおりになりました。被疑者は、あの石川五郎でしたし、捕まえたらみんな被害届を出してくれました。しかも忍び込みの余罪事件までついてくるなんて。課長は、みんな分かってたんですか?」
「ま、経験上な。でも、俺だけじゃないぞ、分かってたのは。」
「え。」
「また、頼むぞ。駐在さん。」
上杉課長は、沖田の肩をポンと叩くと、笑いながらデスクに座り、掛かってきた電話を取った。
刑事課への挨拶が終わると、沖田は1階の地域課に帰った。
その途中、ソファに座り難しそうな顔をして地域課長と話をしている次長の姿を見た。
「そういうことか。」
8月の全体会議の冒頭、署長が立つ演台の前に沖田の姿があった。
「賞。赤森警察署 巡査 沖田総一。君は日頃から犯罪捜査の重要性を認識し、強い信念の下張り込み捜査によって常習窃盗被疑者を検挙した。その功績をたたえこれを賞する。平成30年8月1日、警察本部長・・・・」
終わり