第五話
蕾の膨らみは日に日に大きくなり、赤く色づいてきた。このとき、3月の終盤に差し掛かっていた。まさに桜のシーズンが到来しようとしていたのである。
会社内でもお花見の話が出る中、当然のごとく私の腕の桜も話題に上った。「わざわざ出かけなくてもお花見が出来るなんて便利」というのが概ねだった。他人事ならそう思うものなのだろう。まあ、私にしても枝が桜であることで幾分、気が楽になったのは事実ではあるが。
やはり日本人は桜が好きなのだろう。腕に生えたのが桜であると気づいたとき、そう思えずにはいられなかった。ピンク色の蕾が愛しく思える。優しく触れると体の中に心地よい刺激が広がる。まるで心を落ち着かせるツボでも押したようだ。
お花見で見るような桜の名所は圧倒的なボリュームで私たちの目を奪う。桜ほど、膨大に咲き誇る花はないかもしれない。風景全てをピンクに染め上げる迫力。しかし、私は気づいた。こうして、ほんのわずかなスケール、たった一本の枝でもその美しさは堪能できるのではないかと。茶室で一輪の花が飾られているように、私の腕一本から一本だけ生える桜の枝。そこにこそ、美の本質がある。芸術家でもないのにその気になってしまう。不思議な気分だ。
それから、私は一層、桜を愛でるようになった。同時に何故、自分の腕に桜が生えることになったのか、考えるようになった。ひょっとしたら、これは桜ではないのだろうかと考えた。
桜という人に好まれる植物になることで、種の存続を目論む新種の生命体ではないか?
人間にとって害になる不要なものを好むのも、宿主となる人間との共生を考えてのことではないだろうか?
人間に害となる脂肪や塩分、糖分は植物にとっても害になるだろうが、人間の都合で環境汚染や森林伐採が続く現代社会においては人に寄生した方がまだマシなのかもしれない。人間は自分に害をなさないモノ、好むモノについては自然の摂理を度外視しても、過剰に擁護してしまう生き物なのだ。
そして、4月になろうというその日、桜の花は咲いた。




