#006 明日の笑顔のために
予想通り、いや、想定通り、と言うべきだろうか。
リディアはある人物の下に向かう為に屋敷の向こう端が見えないという長い廊下を歩きながら、率直な感想を抱いた。
およそ一〇〇名の隊員が今回の試練で失敗、脱落した。
エリザに配属された小隊は六つ。
一つの小隊に通常、四〇名の隊員が配属されているので、六小隊でおおよそ二四〇人の人間が屋敷で働いている。
現在、第四・第五の二小隊が外部に派遣されているので残りは一六〇名。
その一六〇名の内、一〇〇名という六割以上の損害があり、明日以降の業務に支障が出るという具合だ。回復具合によっては、自分を含めた生き残り全員が休暇無しで働き続けなければならない。
(……損耗率が六割。戦争なら大敗なんてレベルではありませんね。全滅です、全滅)
抜けた二小隊分の穴埋めの為に臨時部隊の三十名余りが配属されているが、彼女たちは研修中の身分であり、正式な侍従隊員ではないので、過度な期待は禁物だろう。
というか、隊を束ねる小隊長が離脱しているので、彼女たちは動かせないだろう。
第三小隊や事務職員は丸ごと残っているが明日からの屋敷の運営を考えれば、ロロット達が何と言おうとも、これ以上、あの試練に投入することは出来ない。
つまり、自分がこれから会いに行く人物が『最後の砦』と言うことになる。
(……現役を引退した人間が『最後の砦』か)
そのことが少しだけ可笑しかった。
別に失敗した彼女達が未熟だったわけではないと信じたい。……ただ、不甲斐ない連中だとは思ってはいる。
もちろん、例外もある。
『自分を笑わせろ』という試練が、『笑い』を職業とする人間でも無理だったのだから、何よりも難しい事は分かっている。というか、それを出された場合は、笑わせる側よりも笑う側である自分自身にも問題があるので、彼女達が失敗してもリディアは相手――アリエルは論外として――を非難する事は出来ない。
確かに、日常の生活においては少し笑えるようになった気もするが、笑えと言われたからといって笑えるものではない。笑えと促されれば、顔の筋肉が強張って、仏頂面になってしまう一方だ。
だから、自分に笑わせろと言われた人間は不幸としか言いようがない。
そして、トモエのような試練を出された者も同じだ。
トラウマを克服するなど容易なことではない。あそこまで精神的負担を強いられれば、半狂乱になるのも無理はない。もしかしたら再起不能になっているかも。
失敗したとはいえ、トモエのように最後まで立っていたこと自体が驚嘆に値する。
……だが、
(……問題は残りです)
《ヒメジ・ルージュ》という自称・人工精霊が出した試練は相手の弱点や苦手な分野を突いてくる、実に嫌らしいものになる。トモエが出されたような試練を弱点の分野だとすれば、残りの人間は苦手な分野という事になるだろう。
苦手と言っても精神的なことではなく、家事や武術などの分野になる。
そして彼が帰ったのは約一年半前。
つまり、一年半よりも以前の情報が試練の元になっている事になる。
そうなると、彼女たちは一年半前の苦手な事を克服していないという事になる。
自分が見たところ、克服できないような試練ではなかった。
ようするに彼女たちは成長して……。
…………。
「私は何を考えているのでしょうか」
リディアはぶんぶんと頭を振った。
(……(一部を除いた)誰もが全力を尽くしていた。それは一部始終、全て見ていた私が認めるものです。だから相手を不必要に咎めるのは駄目です)
失敗した、だからと言って、侍従隊の隊員が悪いわけではない。
遺産を持ち出した、リオとラウラが悪いわけでもない。
それでも……、
「私はとても嫌な人間になっていますね……」
本当に何を考えているんだろうか。
試練に失敗している自分に何かをいう資格なんてものはないのに、どうしてここまで気にしているんだろうか。
そもそも、あのノートに固執している自分が問題なのだ。
侍従隊が失敗しているからといって、ここまで動揺したりしない。普段なら淡々と各人の考課表に×印をつけるだけだろう。
理由は明白。とても簡単なことだ。
リオとラウラがノートを持ってきたときに述べた台詞を引きずっている。
「私は、きっと――」
独白しようと口を開いたところで、
「……様、リディア様」
「……ッ! は、はい!?」
「目的の部屋の前に到着したでござるよ」
「そ、そうですね」
目的地の部屋の前を行き過ぎようとしていたリディアは、お付きをしていたロロットに呼び止められた。
考え事をしている内にかなり時間が過ぎていたようだ。
自分がどれだけ考えていたのかを再確認して、リディアは頭が痛くなってしまう。
「すいません、どうやら考え事に没頭していたようです」
「いえ、拙者たちが不甲斐ないばかりに……」
ロロットはリディアが難しい顔を浮かべていた理由を、自分たちが失敗し続けた挙句、引退した人間を表に出そうとしている、と勘違いしたようだ。
リディアはそれを否定することなく、ドアの前に立つ。
リディアは深呼吸を一度行ってから、一枚の木の隔たりを通した向こう側の相手が驚かないよう、ドアを小さくノックした。
『はい、どなた様でしょうか?』
返事の声がリディアが予想していた相手とは違っていたのだが、誰の声なのかは知っている。特に慌てる事もなく、返答をすることにした。
「コッペリア、私です」
『リディア様ですか。……申し訳ありませんが、アヤコ様はちょっと手が離せませんので、わたくしがドアを開けさせていただきます』
「わかりました。……私が一人で中に入りますので、あなたはここで待機を」
「はい、分かりました」
ロロットがドアから離れていく事を確認すると、リディアは二度目の深呼吸をした。
この部屋に足を踏み入れるには妙な緊張感と必要以上の気合を要する。
(……大丈夫。私はちゃんと出来る子なのですから)
ドアがゆっくりと静かに開かれていき、リディアも静かに足を踏み出すのだった。
足を踏み入れた室内は無人であり、目当ての人物の姿はなかった。
アヤコの部屋は、侍従長を務めていた時よりもかなり広く――具体的には、八帖一間から六〇〇平米超えのスイートルーム――なっているが、部屋に備え付けられている家具は相変わらず質素なレベルと言えるだろう。
一〇〇平米のリビングルームになる部屋の片隅にポツンと置かれたそれらは、本来の意味でのシュールさをリディアに感じさせていた。
最上級の賓客待遇なので、部屋の備品はリディア側で用意すると申し出たのだが、アヤコがそれを頑として拒み、侍従長時代に使用していたものをそのまま使用していた。
……いや、使い古されたシングルベッドの横に置かれた真新しい小さなベッドがその空間に異彩を放っている。
大人や子供が使用するには小さすぎ、特定の年齢時にしか使用されないものだろう。
アヤコは自分の為に滅多な事ではお金を使おうとはしない。
侍従隊で働いていた頃は、日用品などが国から支給されていたものを使用し、支払われるお給料の一部を貯蓄し、残り全てを実家に仕送りしていたからだ。
そんなアヤコが、貯蓄していた金のほぼ全てを放出し、エルフ自治領にいる王室御用達の家具職人に頼んで作らせたものであった。
王室御用達の職人が作ったわりには、簡素な意匠であり、『もっと可愛げのある意匠で注文すればよかったのに』という周囲の意見を『樹齢三〇〇年の木を使用しており……』『シンプルなデザインが一番良いのです』と、露天商の実演販売のような口舌をもって、反論を封じ込めた一品だ。
そして、この小さなベッドこそがリディアに緊張感や気合を抱かせる要因でもあり、面白くない存在でもある。
……面白くない。
もっと言えば、不愉快だ。
しかし、その旨をアヤコに言う心算はないし、周囲に漏らすこともない。
だけど、一人の女としてこのベッドの存在はひどく面白くはなかった。
「いやいや、私は何を言っているのですか……」
我ながら情けない。
精神的には一人前に成長したと思っていたが、どうやらまだまだ子供のようだ。
『……ふんふふんふふ~ん♪』
リディアがそんな事を考えていると、彼女の耳に優しい旋律がどこからか聞こえてきた。歌声というには弱いので、おそらく鼻歌だろう。
「……アヤコ?」
視線を窓側に向ければ、カーテンが揺れていた。
カーテンを揺らす風に乗って、アヤコが奏でる鼻歌が流れてきているらしい。どうやらバルコニーに出ているようだ。
リディアは部屋の中を横断し、バルコニーに出る。
そこは中庭の庭園を一望できる特等席のような場所だ。
「ふんふんふ~ん……ふ~んふ~ん♪」
楽しそうに歌うアヤコの腕の中には新しいベッドの占有者が抱かれていた。
本年度の新年最初の日となる銀月の四日――通例で誕生日は銀月の一日となり、母親と同じ日になる――に生まれた、生後四ヶ月を少し過ぎたアヤコの子供である。
当然、その子供の父親は白鷺紅だ。
「ふんふふんふふ~ん♪」
どうやら赤ん坊に歌を聞かせているようだ。
近くの椅子に座っている、精霊であるイヌの姿もあった。こちらはアヤコが赤ん坊を落としたりしないかと見守っているらしい。
「ふんふんふ~ん……ふ~んふ~ん♪」
赤ん坊がどうなっているかは、リディアの位置から窺うことは出来ないでいるが、そばで覗き込んでいるイヌがソワソワしていないから寝ているのかもしれない。
「おや? リディア様ですか。どうかなされましたか?」
リディアの姿に気づいたアヤコが歌うのを止めて、こちらに声を掛けてきた。
「あなたに頼みがありますので、呼びに来ました」
「わたくしをですか?」
「はい。……しかし、良いのですか? 季節的に暖かくなって来ましたが、時間帯的にも寒くなってきています。赤ちゃんが風邪を引く恐れがありますよ」
エリザの気候は例年よりも気温が低い。
死んでさえいなければどんな大怪我であろうとも魔法で治すことは出来るが、病気の類は魔法では治せない。ましてや体力の少ない赤ん坊が風邪を引けば、大人・子供では何ともなくても、大事になるかもしれない。
「まだまだ母乳の免疫が利いてますから、なかなか風邪などひきませんわ」
そう言ってアヤコは、たゆん、と自分の大きな胸を持ち上げた。
母乳が出る為に乳腺が発達しているわりには、妊娠前とそれほど体型が変わっている様子は見受けられなかった。
「……無残に垂れて縮んでしまえば良いんです」
うんうん、とイヌも同意している。
しかし、リディアからすればイヌも平均的とは言え、大きい部類に入るので敵には変わりなかった。
両者からの恨みがましい視線を受けていたアヤコが肩を竦め、
「それは見えないところで努力をしていますので」
「……無残に垂れて縮んでしまえば良いんです」
「何で二回も言うのですか……」
それだけ恨みや嫉妬があるのだろう。
「まあ、これでもウエストが少しばかり増えたんですよ? 鎧や補正下着を着なくなりましたし、運動は控えめですし……」
アヤコは自分の腰を捻ってみたり、腰から尻へのラインを見ながら感想を述べた。
現在の数値は、現役だった頃に比べればウエストが一〇センチ近く増えている事になるので、彼女は今の自分の体のラインに少しだけ納得がいっていなかった。
しかし、この場に紅が居たならば必ずこう述べるだろう、
『いや、前が細すぎたんだ。今の方が適正で、逆にエロイよ』
――と。出産前の体型を言葉に表すならば『ボン・キュッキュッ・ボン』とウエストが引き締まりすぎて不自然に見えたが、現在は『ボン・キュッ・ボン』と綺麗で自然なラインに見えるのだ。
アヤコは気を取り直し、
「わたくしに用事なら、部屋で伺いましょうか」
そう言って、室内に繋がる窓をくぐっていった。
リディアとイヌも彼女に続き、中に入っていく。
アヤコは抱えていた我が子をコッペリアに渡すと、受け取ったコッペリアは何も言わずに隣にある洗面所へと姿を消していった。
「……?」
コッペリアの行き先に、リディアは首をちょこんと傾げる。
同席しないようにという指示をこちらは出していないし、自主的に避難したというには洗面所という場所がおかしい。コッペリアが向った反対側には彼女の自室があるので、退避するとすればそちら側だろう。
イヌもそちらについて行ってしまったが、彼女の場合は赤ん坊がそちらに行ってしまったからだろう。
仮の契約者のような立場でいた前任者が元の世界に還ってから、しばらくして彼女もリディアたちの前から姿を消し、アヤコの子供が生まれるのとほぼ同時期に姿を現し、それ以来ずっと赤ん坊に張り付いている状態だ。
コッペリアも似たような状態だ。というか、赤ん坊の扱い方を知っている人間が三人しか居ない――産んでいるのはセディアだけ――ので、暇なことが多いコッペリアが専属してアヤコについている状態だ。
「どうかなされましたか?」
リディアの視線を追い、何が不思議なのか、アヤコも首を傾げた。
「いえ、コッペリアがどうして洗面所のほうに向ったのかと……」
「ああ、なるほど」
その問いかけで合点がいったようだ。
「オムツの交換ですよ。抱いていたら少し重くなった感じがしましたので、おそらく『小』の方が漏れたとおもいますわ」
「……泣いていなかったような?」
「あの子、なかなか泣いてくれないんですよね~。お腹が減ってミルクの時間になっているはずなのに余り泣かないし、オムツが濡れて気持ち悪いはずなのに泣かないし……。誰に似たんでしょうか?」
「……さあ」
確実に父親だろうとは思ったが口には出さなかった。
「心配しないんですね」
「いや~……リディア様の時は我が子以上にまったく泣かなかったですからね。その時に比べたらまだましなのかな~、と思いまして」
「……そ、そうですか……」
アヤコの何気ない言葉に、リディアも頷いたが、その胸中は複雑だった。
おおよそ一年前、実母であるエリシアが弟を産み、そのお祝いをしに王都で『初めての家族団らん』とでも称すべき生活を送っていた。
セーラは生まれてきた弟が四人目ということもあってか手馴れた様子であやしていたが、リディアは抱っこすら右往左往する始末だった。むしろ、リディアの方が泣きたくなり、誤って頭がガクッとなった時は泣きかけた赤ん坊以上に絶叫したほどだ。
その時にリディアの時はどうだった、セーラはどうだった、とエリシアから面白半分に聞かされていた――特に夜泣きについて――のだった。
「あの頃のエリス様は情緒不安定と申しますか、赤ん坊だったリディア様が泣かない・笑わない・動かない、という三点セットだった為に色々と凄かったんですよ? 興味を引こうとアレコレ試しては枕を濡らし、我が子を笑わせようと変な顔を作ったりしては無視されて夕食の量が増え、最後は『止めないで、もうこれしかないのよ!』とリディア様を階下に置き、本人は塔の最上階からダイブしようとしたりして……」
「…………」
「最終的には子育てに悶え苦しむエリス様に憐れみでも抱いたのでしょうか、わざわざ女神様が説明をしにご降臨をなされたという話を聞きましたわ。……今から思うと『氷の王女様』は、あの頃から片鱗を見せていたのですね」
「…………」
そんな話は知らない。というか、知りたくなかった。
そう言えば、母親が自分の赤ん坊の頃の話をしていた時に目が虚ろ気味だったのは、自分が原因だったという事になるのか。
(……てっきり、当時はお父様に冷たくされていたから、そのことが原因で暗く思いだしたくない記憶なのだと思っていました)
現実はいつまでも非情だった。
知りたくなかった情報を教えてくれたアヤコに対し、リディアの瞳は睨みつけるような三角形になってしまう。
「そんな風に睨まないで下さいな。んんッ……、それよりもリディア様がわたくしを訪ねた理由を伺ってもよろしいでしょうか」
リディアのジロリとした視線から逃れるように、アヤコが話を正道に戻した。
確かにその通りだが、あとで仕返しをしようと心に誓い、リディアは勧められた椅子に座ることにした。
「話というのはあれです。既に察しがついているのでしょうが、コウさんが残したアレについてです」
「あの娘たちでは御役に立てなかったご様子で」
アヤコも何度か運ばれてくる後輩たちの姿をバルコニーから見ていた。運ばれてくる数が増えるにつれ、この騒動が終れば不甲斐ない後輩たちには特別訓練を実施する必要があるのだと心に決めているのであった。
「結果だけを見てしまうとそうなりますね。簡潔に説明しますと……」
リディアの説明はそれらを裏付けるものであった。どうやら、後輩たちの実力はこの一年で成長しているどころか、後退しているのではないかという疑念しか湧いてこない。
そしてその尻拭いの役目が自分に回ってきたのだと、アヤコはそう解釈した。
「つまり、わたくしも参加すればよろしいのですね?」
「はい。つきましては……」
「報酬などはいりませんわ。ここでの生活を見てもらっておりますし」
「それでは周囲に対して示しがつきません。とりあえず、小隊長の日当分を手付金に、成功報酬は別途という……」
「いえいえ、夫の不始末は妻が解消しませんと! つ・ま! そう、妻の仕事です! イエス! ワイフの仕事なのです!」
「…………」
「……なんですか、その汚いような生き物を見るような瞳は……。リディア様には何かお思いになる不審な点でも?」
「別に……」
アヤコからすればリディアの瞳は、まるで食器棚の裏に隠れてゴソゴソと蠢くGを見るような瞳をしていると感じ取れた。
反対にリディアからすれば、早速、仕返しできる機会が訪れたというワクワクした瞳をしていたのだった。
リディアはアヤコから視線を少しずらし、
「別に……コウさんが残したお金の分配に貴女の名前が載っていなかった、とか」
――と、ボソッと毒を吐いた。
「貴女一人だけ婚約指輪を貰っていないくせに、とか。婚姻届に貴女の名前が記入されていないくせに、とか。貴女だけが仲間ハズレにされている、とか……」
「……ぬグッ……!!」
アヤコは微妙な笑みを浮かべた表情で凍りついた。
それを見たリディアは内心ではくすっと笑いながらも、表向きは表情を変えずに、
「何、自分ひとりで『妻!』とか叫んで悦に入っているんだ、とか。図々しくて、おこがましい年増だなぁ……などと、全・然・思っていませんからね?」
いや、確実にそんな事を思って言っている台詞だろう……と、物影から覗き見をしていたイヌは思った。
「……そ、そんな風に思われていたんですね」
アヤコは悲しそうに顔を歪めた。
リディアが指摘した部分はアヤコが隠していた痛い部分だ。
確かにルツィア・セーラ・セディアの三名のように指輪を貰ったわけでも、婚姻届に名前を記入してもいなかった。
それにはアヤコが元・侍従隊員――部隊全体を統括する『本部長』という身分も関係している――だったのが主な理由になっている。
王族を守護する事が第一の侍従隊員は、機密保護の観点からも簡単には結婚が出来ず、隊員が結婚するには国王と本部長、両名の許可が必要だった。
だが、紅が元の世界に還る頃は、国王であるアルバートの許可はともかく、本部長がアヤコだった為に、侍従隊から許可を出す人間が不在していたのである。
そうした意味から紅はアヤコの身を守る為にも、そうした指輪や書類にサインをしたりしなかった――性交渉は前例があるから不問――のだが、それらの点はアヤコに深い影を落としていたのだった。
痛いところを突かれたアヤコだったが、気を取り直すと反撃に転じるのだった。
「そういうリディア様こそ、シラサギ様に何も渡されなかったと枕を濡らしていたじゃないですか? ルツィアさんたちのように指輪を渡されたわけでも、リオさんやラウラさんの両名のように『らんどせる』などの道具を用意されていなかったじゃないですか!」
「私は枕なんか濡らしていません!」
異議あり! と言わんばかりに机をバシバシと叩く。
「へぇ~……ふぅ~ん……」
「な、なんですか……」
そのうろたえた様子を見ていたアヤコはニマニマと笑みを浮かべながら、戸惑いの表情を浮かべるリディアを負け犬に対して勝者のように見下ろした。
「今回の件に関して、やけに固執しているのは心の中で『あのノートはコウさんが自分宛てに残したものでは』と思っているからでは? そうでなければ、リディア様は聖女の立場を行使し、女神様に封印などの対処方法を教授していただいているはずです」
「あ、あまり瑣末な事で女神様の手を煩わせたくないだけですッ!」
「本当ですか? 実際はリオさんがノートを持ってきた際に言っていた台詞が矢の如く胸に刺さっているだけでは?」
「ッ……!」
アヤコの指摘に、リディアの心は激しく揺さぶられた。
(……落ち着きなさいリディア、ここは相手のテリトリーです。雰囲気に飲まれ、落ち着きを失えば相手は一気に漬け込まれて負けてしまうではありませんか)
『どうすれば勝利条件なのか』という根本的な問題を抱えたまま、リディアは小さく咳払いをすると、思考のスイッチを切り替え……
「確か……『パパが「お金に困った際はこれを使って商売するなりして、と残していたものなの!』でしたっけ? その後に『お金に困っているリディアちゃんに貸してあげるね!』と続きましたね。つまり、リディア様はリオさん達からノートを借りている状態なのですよ」
「……ぬガッ……!?」
……切り替えようとしたが、追撃によりスイッチが元の位置に戻ってしまった。
乙女にあるまじき声を上げてしまったリディアは、ガックリとうな垂れるように椅子に崩れ落ちた。
更なる追撃を入れるどころか、掛ける言葉さえも見失ってしまうリディアの見事なまでの燃え尽きた感に、アヤコは言葉を失ってしまった。
笑うに笑えない状況が九〇秒ほど続いた頃だろうか、落ち込んでいたリディアの口元がモニョモニョと動き始めた。
「……いいんです」
「はい?」
前髪の隙間から見えたリディアの瞳がとても荒んでいた。
なんだろう、見てはいけないものを見てしまった気分だ。例えるなら……そう、大掃除をしていたら過去にかいていた小説ノートを発見したときの気分だ。
「自分でも分かっています。ええ、私はリオやラウラ、セーラ姉様たちに嫉妬していました。良いじゃないですか、あの人たちはコウさんから色々貰っているんだし。貴女にも赤ちゃんがいるじゃないですか……」
「いや、あの……確かに子供は授かり物と言われておりますが、だからと言って、本当に他の誰かから貰ったわけでは……」
「そうですよね~、他の皆さんが妊娠すれば『天からの授かり物』という言葉がピッタリ当てはまりますが、アヤコの場合は貴女自身が色々と画策して奪い取ったようなものですものね」
「な、なんのことやら……」
アヤコの視線が明後日の方向に向いた。リディアの台詞に心当たりが多すぎる。
具体的にはお薬とか、クスリとか、薬物とか……。
それはそうと、何故、目の前に座っている少女はその事を知っているのだろうか? 恐るべし、月の聖女。なるほど、父親が娘を恐れる理由の一端を知った気がした。
「普通、そこまでやりますか? 確かに、不妊に悩んでいる女性や『男子の跡継ぎを産め』と姑から圧力を受けている中年の女性などが『最後の神頼み』という思いで手を伸ばす品という意味では理解できますが、貴女は獣人族、まだ若いでしょ?」
「ちゃ、チャンスを見過ごす方が悪いんですよ。それに種族的に妊娠可能年齢の範囲が広いというだけで、実際はキツイ年齢ですよ? 同じ年齢の女性は子供の四~五人はいてもおかしくないですし」
「そうでしたね、貴女は四じゅ……」
「まだなってません!」
その期限までまだ時間はある。見た目こそ二十代前半で通用するが、実質、アラフォーなのは認める。だが、決して四十の大台には乗っていない。
流石に子供がいるから『三九歳と○○○日』という無駄な悪あがきをする心算はないが、認めない部分は認めるわけにはいかない。
「……と言いますか、お二人の話は正道から横道に逸れすぎのような気がするのですが? あの、お時間の方は大丈夫なのですか?」
赤ん坊を抱えて戻ってきたコッペリアがにらみ合う二人の間に割って入った。
窓の外に目を向けると、夜と称しても差支えがない程度に暗い。空と地平線の境界線上が赤くなっているぐらいで、日が沈んでいるかもしれない。
「完全な日の入りまで残り一〇分と言ったところでしょうか」
「本当ですか? ……不味いですね」
アヤコの部屋から試練会場となっている天幕まで直線距離にして二キロ近くある。最短経路――バルコニーからのダイブ&ダッシュ――を通れば、時間内に到着するはずだが、通常の経路では間に合わないことが確実だろう。
しかし、それには問題がある。
「立場上、私もその場に立ち会わなければならないのですが……」
アヤコのみが走れば余裕で間に合うだろうが、
「普段のリディア様はポンコツですからね~、走れば必ずコケますし~……」
「リディア様は魔法で身体能力の補正を施さねば、引き篭もりで運動不足の十二歳ですから、それは仕方が無いかと……」
「姫様は頭では理想の走り方が分かっていても、実際はギクシャクした動けないポンコツです。真面目に走ればリオちゃんに負けますし……」
――と、容赦ない三者三様の感想が帰ってきた。
十二歳の少女(日本なら中学一年生に相当)が六歳の幼女(小学一年生)に徒競走で負けるのはどうかと思うかもしれないが、リオは身体能力が高くなりがちな獣人族であり、幼いながらも早く走れる適正なランニングフォームを本能で身につけているので、その差が出ているだけである。
それと『必ずこける』云々のくだりにしても、何もない場所で躓いたりするほど致命的ではなく、単に普段から一挙手一投足に周囲の視線が集まるので必要以上に集中してしまい、プライベート――リオとラウラと遊ぶ時間――では気が抜けてしまうのでコケやすいだけだった。
しかし、恥ずかしいものは恥ずかしかった。
指摘されたリディアも三人から言われた内容を自覚しているのか、恥ずかしさから頬を赤らめ、声を上げる。
「う、うるさい! ほら、アヤコ! 貴女はそこのバルコニーから飛び出して、さっさと現場に行きなさい! 時間はそれほど残されていません!」
「はいはい。お姫様のご依頼、不肖、このアヤコが承りました。じゃあ、コッペリア……と、イヌ。その子をよろしくね」
アヤコはそう言い残すと本当にバルコニーへと出て行き、高さ一メートルほどの手摺りをジャンプで飛び越え、三人の視界から消えていった。
アヤコの姿を見送った三人(と赤ん坊)はゆっくりと顔を見合わせる。
全員が、やれやれ、と肩をすくめた。
「……本当にバルコニーから行きましたね」
「表のドアから向えば、時間のロスが大きいですから仕方が無いかと」
コッペリアは赤ん坊をベッドに寝かせながら答える。
それはそうだし、時間制限がある以上、仕方がないのだが、子供の前でそれを肯定するのもどうかという気持ちにさいなまれた。
「運動不足の解消……姫様もやる?」
「やりません。……ところで、貴女たちはあのノートの存在を知っていましたか?」
リディアはまだ『サル顔』と称してもよい赤ん坊の頬をプニプニと指先で押しながら、二人に訊いてみた。
「知らないです」
「わたくしは知っております。わたくし自身、あのノートの作成に関わりましたので」
イヌは首を横に振ったが、コッペリアは縦に頷いた。
「正確にはノートの中に何が記されているのかは存じておりませんが、ノートを守る為のシステム作りには関わりました。他にも何名か関わられましたよ」
「そうですか……しかし、何の意図があって、あの人はあのような防御システムを作ったのでしょうか? ノートの在り処をリオたちに教えていましたし、場所を聞いた限りでは他の者が発見する可能性は皆無に近いですし……」
「旦那様曰く、『人生には「娯楽」という名のスパイスが必要だ! スパイスのない人生は醤油のない刺身と一緒で苦痛だ!』と、声高々に仰られておりましたので……。ラッピングは大陸破壊兵器に見えますが、中身はもっとお茶目な感じのはずです」
「……仮に処理に失敗した場合は?」
「さあ?」
「さあ、って……」
「その部分に関しましては、蜥蜴と旦那様が楽しげに和気藹々といった感じで作成しておりましたので、わたくしは何も存じておりません」
何気なく訊いたつもりだったリディアは、コッペリアの返事に対してどうすれば良いのか分からなくなり、ズボッと強めに指を押し込むことになってしまう。
第一関節が埋まるほど押し付けられたのに、赤ん坊の表情は崩れない。逆に心配になってくるのだが、赤ん坊は眉一つ動かさない。
ちょっとどころか、かなり怖い部類に入るのだが、自分も似たようなことをしているのだとすれば、少しは反省しなければならないのかもしれない。
それにしても、
「スパイスですか……」
リディアは溜息を吐き、肩を落とした。
確かに淡々とした人生は苦痛なのかも知れないが、それは山あり谷ありの人生を知っていればこそであり、今回に限っていれば、そんな冒険活劇に出てくるような試練などはいらなかった。
もしかして、今になって我々に復讐でもしているのだろうか?
確かに彼と言う存在を表すのならば、集団の中の異物のような存在だったので表立った行動は自分の首を絞めることに繋がるので、姿を消してしまえば、こちらが仕返しをしようとしても無理な話になる。
今回の一件にしても、恐らくだが彼は試練に失敗した侍従隊の女性陣から強い憎しみや怨みを売られるに違いない。しかし、怒りの矛先を向ける相手がいないので身変わりの相手が必要になるはずだ。
リオかラウラが標的になるかもしれないが、彼女たちは相応の罰を受けている最中なので、これ以上のお仕置きは不要だ。多くの女性がそれを納得している――無論、中には納得しない一部の暴徒が出てくるだろう――はずだが、そうなると次点として命令を出したリディアに向かってくる事になる。
(……実に腹立たしい)
ぷにぷにぷに。
(……そもそも、あの人は帰ってくる気はあるんでしょうか?)
ぷにぷにぷに。
(……お父様は『まあ、三年が時効だな』と仰られていましたが、既に半分が過ぎているではありませんか!)
ぷにぷにぷに。
「……姫様は何が理由でイラついているのでしょうか? キツネなら失敗する恐れはありませんよ、あんなのでも過去の作戦成功率は一〇〇パーセントでしたし」
「何もアヤコの事を心配しているわけではありません! 彼女の事ですからシュパッと行って、スパッとやり遂げるに決まっています」
「……では、はんこうき、という奴でしょうか?」
イヌの問いかけを否定した台詞に対し、コッペリアはちょこんと小首を傾げながら再度、質問を投げかける。
「……誰に対して反抗するのですか」
「じゃあ、じょうちょふあんてい、という奴ですね。姫様は仕事のやりすぎでストレスが溜まっているのでしょう。お気の毒に……」
「わーかーほりっく、ですか。その年でおいたわしや……」
「ああ、もう! それで良いですッ!」
イヌとコッペリアの両名は『様』付けで呼びはしていても、リディアと主従契約を結んでいるわけではないので言葉に容赦がなかった。
ぷにぷにぷに。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷに…………
「それ以上やりすぎますと、泣きますよ?」
「え? ……………………あ」
某名人のような十六連射を赤ん坊の頬にやっていると、それまで可愛げの欠片もない無表情を保っていた赤ん坊の顔が突如、崩れた。
赤ん坊は口をポカンと開ける。
そして、そのまま数秒ほど経過したのち、
「ぎ……GYAAAAAAAaaaaaaーーーーーっっっっ!?」
天井のシャンデリアを落とさんばかりの勢いで、泣いた。
……いや、吼えた!!
突然の泣き声に驚いて、ガードの手摺りから転げ落ちそうになった。
「滅多に泣かないので、泣いた時は凄いものがあるんですよ」
「誇らしげにしないで、この泣き声を何とかしてください!!」
ドラゴンの遠吠えにも似た全然可愛らしくない泣き声に、リディアは両耳を押さえて『なんとかして!!』と悶えている。
「それは無理です」
「残念な事にキツネが抱き上げるまで泣き止みません。あんなのでも『母は偉大也』という奴です。あきらめしょう」
コッペリアとイヌは開けていた窓を閉め、被害が外に及ばないようにする。そして閉めおえると、二人ともリディアと同じように耳を塞ぐ事にした。
「ちなみに、この部屋には防音魔法が施されてありますので、外に漏れる心配はございません。だからクレームをいれる人間もいません」
「落ち着いていないで、何とかしてください! あ、こら! なんで二人とも私を置いて外に出ようとしているのですか! 待ちなさーーーーい!」
「諦めても、我慢はしません。だから逃げます」
「……右に同じく」
コッペリアとイヌの両名は戸惑うリディアと泣き続ける赤ん坊を残して、それぞれの自室へと退避していった。
リディアの伸ばした腕だけが虚しく残る。
「……どうすれば泣き止むのでしょうか?」
困ったときの神頼み。自分には頼りになる存在がいる。
リディアは知恵袋的な存在でもある女神に助言を求めた。
『知らん』
解答できない場合は相応の理由が添えられたりするのだが、こうも無下に断わられたのは初めてのことだった。
「はい? 赤ん坊の泣きやませ方ですよ!? 世界を簡単に滅ぼす方法とか、別に大それた事を訊いた訳では……ッ!?」
女神の返答に、思わず声が大きくなった。
『いや、知らん』
ばっさりと切り落とされた。
『質問は終わりね? じゃあ、バイバイ』
…………。
………………。
……………………。
……女神からも見捨てられてしまった。これでは聖女を名乗っている意味がない。
ず~ん、とリディアは床に手をつき、四つん這いの姿で落ち込んだ。
「GYAAAAAAAaaaaaaーーーーーっっっっ!!」
相も変わらず泣き続けている。泣き声が衰えるどころか、更に増しているように感じる。正直、知識として赤ん坊の泣き声が苦痛や不快感を呼ぶとは知っていたが、これほどの物とは思ってもいなかった。
この部屋の上の階がリディアの寝室にあたるのだが、壁に施された魔法で構築された防音効果による影響で夜中に鳴き声が聞こえてくる事はないし、三日に一度のペースで会いに来ていたときも静かに過ごしていたので、もうどうしていいのか分からない。
「泣きたいのは私のほうです……」
全員から見捨てられてしまったリディアはベッドの側に椅子を持ってきて、それに座る。そして泣き続ける赤ん坊を見つめた。
赤ん坊は泣くのが仕事だし、赤ん坊が泣いているのには自分に非がある。
「……口を塞げば泣き止みますね」
あまりにも物理的だし、他者に聞かれれば虐待ともとられかねない提案を口にするが、実行に移そうとはしなかった。
まだ、そこまで追い詰められていない。追い込まれたらやるかもしれないが。
「ああ……そういえば、色ガラスを目の前に置けば泣き止むと聞いた覚えが……」
普段と違う景色が見えれば、赤ん坊は何が起こったのかを必死に探ろうとするので、そうなると泣いている場合ではないということで泣き止むと聞いた記憶があった。
手元に色ガラスが無いので、リディアは赤ん坊の目の前に魔法で色ガラスと同じような薄い膜を作り出してみる。
「GYAAAAAAAaaaaaaーーーーーっっっっ!!」
「……泣き止みませんね」
赤ん坊は相変わらず泣いたままである。
リディアの採った行動はある意味では正しいのだが、残念な事に生後一年未満の赤ん坊は周囲を認識する機能が発達していないので効かないのであった。
「確か……ジャスティンの場合は十五分ぐらいは泣いていましたね。あちらはもう少し小さい泣き声でしたが、ジャスティンと同じとなれば、これが十五分も続くというわけですか……」
それは苦痛だ。苦痛すぎる。
滅多に泣かないこの子が特殊な例として、普通の赤ん坊は一日に何度も泣くと聞いている。これが何度ともなると苦痛を通り越して殺意を覚えるかもしれない。
貴族やお金を持っている家は乳母やナースメイドを雇い、その人間が対応するわけだが、なるほど、世の一般家庭の母親――特に一人で面倒見ている場合――たちが育児ノイローゼになるのも頷ける話だ。
とりあえず場を何とかする為に母が弟にやっていた事を色々と試す事にした。
格闘する事、およそ五分。
「ぎゃあああああああああああーーーーーっっっっ!!」
リディアの奮闘振りは賞賛に値するものだったが、努力したからといって必ず結果が伴うわけではない、という見本を見ている感じでもあった。
本人には空しさしか残らない。
手ごわい敵はこれまでに何度も相対してきた。しかし、粘り強い交渉や武力をちらつかせた脅迫も行ってきた。
しかし、赤ん坊という未知の生物にはそれらが通用しない。
「何と言うことでしょうか、わが道を行く点も父親譲りですね……。手刀を首に叩き込めば泣き止むのでしょうか?」
下手にやれば死んだり、鞭打ちの状態になるので素人にはお勧めしないが、達人がやれば確実に相手を気絶させる事が出来る。
しかし、それは相手の首がしっかりしていればの話。相手は首の据わっていない赤ん坊だ。確実に死んでしまうだろう。
ましてや、達人を通り越したリディアが行えば意図せず赤ん坊の首を切り落としてしまう可能性のほうが高い。
リディアは泣き続ける赤ん坊を見下ろして溜息を吐く。
「……もう、お母さんの所に持っていきましょうか」
その手段が一番早かったかもしれない。
リディアは泣き止まない赤ん坊を持ち上げ、落とさないようにしっかりと抱きかかえると、アヤコが通った道――すなわち、バルコニーに顔を向けた。
表から向えば泣き声の被害は屋敷全体に広がってしまう。広い屋敷だが音は隅々まで広がるものだ。ここは『最短距離』こそが重要になるだろう。
リディアは淑女らしからぬ動作――両手が塞がっているので足で窓を開くと、中庭を一望できるポジションまで進んでいく。
視線の先には魔法の光によって照らされた天幕が見える。
「さあ、参りましょうか!」
目的地はすぐそこだ。
リディアは意気揚々と手摺りに足を掛け――ようとしたのだったが、その様子をドアの隙間から窺っていた人形と精霊が飛び出してくると背後からタックルするように止めるのだった。
★ ★ ★
赤ん坊と領主、人形と精霊が格闘を繰り広げる少し前。
物語の舞台となる天幕では新しい展開を見せていた。
『うわはっはっは! 惜しい! 本当に惜しかったぞ! 実に残念だったな魔法戦士・クリスティーナ……いや、唸る拳と輝く魔法で相手を殲滅! マジカルプリンセス、プリティークリス!』
《ヒメジ・ルージュ》が勝ち誇るように胸を張る。
「ど、どうして、その二つ名を知っていますの……ッ!?」
決して誰にも見られてはいけないHDの中を見られてしまった男性のように、限界まで目を見開いたクリスティーナは恐怖の余り後ずさっていく。
その様子を満足そうに見ながら、
『うわはっはっは! 我輩には優秀な情報提供者Kがいるからの。「愛と勇気」と称さずに「拳と魔法」を謳った理由が、「魔法と拳で相手を倒せるけど、愛と勇気では相手を倒せない! それでは世間の皆様から認めてもらえない!」って、七歳児が考えるにしては世間の支持を考えすぎじゃね? ねぇ、プリティークリスさんや』
「そ、そんなまさか……どうしてその理由まで!? そのことを知っていますのは一年前に亡くなったお母様だけなのに……」
『ふっ……秘密になっていると思っているのは自分だけで、存外、外に広まっていたりするんだよね~。……特に知られたくない恥ずかしい過去ってやつはさ』
《ヒメジ・ルージュ》は素の表情――自分もその事を深く理解しているのか、影がさしたような表情で呟いた。
「あぅ……」
クリスティーナはガックリと肩を落とす。
アヤコが天幕に駆けつけてみると、事態は良くなるどころか悪化の道をたどっていたのだった。そして、天井付近には我慢の限界を迎えたリオとラウラの姿もあった。
事の前後が良く分かっていないアヤコからすれば、精霊の前で四つん這いに崩れ落ちていたクリスティーナの姿など敗者というよりも道化のようにしか見えなかった。
「……ナニコレ?」
しかも、クリスティーナとマドレーヌの二人はアヤコが天幕内に入ってきたことに気づいていない。
二人にはリディアから『自分が戻ってくるまで何もするな』という待機命令を出していたはずなのだが、どうやらクリスティーナがその命令を無視して《ヒメジ・ルージュ》の試練を受けていたらしい。
クリスティーナの打ちひしがれる姿を見ると結果は聞かなくても分かってしまった。
ようするに失敗……『負けた』のだ。
別に侍従隊は『常勝不敗』を謳っているわけではないが、任務不達成なのは困る。
『場を取り直して……ふははは! プリティークリスよッ! 魔法少女が敵に敗北した時のバッド・エンディングはたった一つに決まっているのだ!』
「き、決まっていますの……ッ!?」
クリスティーナが言った。
「ま、まさか、民衆に敗者としての姿を晒すのですか!? メイド服をビリビリに破って、磔にし街を一周! 露出と羞恥を覚えさせ、変態の道に堕とすのですかッ!?」
《ヒメジ・ルージュ》は首を横に振る。
「で、では、最近、街に入ってくる浮浪者たちの慰みモノに!? 男を知らない柔肌が代わる代わると快楽に犯され、汚されるのですね!?」
これもまた首を横に振る。
なんかクリスティーナがノリノリだ。
時間に余裕は無いのだが、悲劇のヒロインとして自分に酔っている(?)クリスティーナの台詞が面白そうだからもう少し見学しよう。
「マドレーヌさんも一緒に恥辱にまみれるのですか! マドレーヌさん、申し訳ありません! わたくしが不甲斐ないばかりに、貴女の貞操が……」
「あたしを勝手に巻き込むなッ!! つーか、シラサギ様もさっさと本命を言え!」
マドレーヌに促された《ヒメジ・ルージュ》の目に淫らな色を宿し、
『魔法少女といえば触手! そう、ヌメヌメ&うねうね、CG職人泣かせの「触手陵辱」が定番だとエロい……もとい、偉い人によってに決まってい……イダァッ!?』
《ヒメジ・ルージュ》はノリノリといった様子で敗者であるクリスティーナに指を突きつけていると、いきなり前のめりに倒れ、跨っていたドラゴンの上から転げ落ちた。
「……?」
なんとなく背後から後頭部を叩かれたような感じにも見えるが、突然の事態にアヤコ達は戸惑いを隠せない。
『ひどいな~つばさ嬢。後頭部への攻撃は危険なんだぞ? ……え? なんで「触手」なんだって? そりゃ、エ○ゲーの魔法少女ヒロインの敗北イベントの王道だからさ。全身黒タイツの下級戦闘員とかモンスターなんかとのチョメチョメなんかもありえるんだろうけどそれは俺の趣味じゃないし……。だって、魔法少女へのお仕置きの王道といえば「触手」か「コスチュームが良い感じに破れる」が基本じゃないか?』
ブツブツと呟き、叩かれたであろう後頭部を抑えながら起き上がろうとしている――ように見えなくもない。
『あ~はいはい、そうですね。……ふぅ~、まったく形式美を知らないとはこれだから毛の生えていないお子さ……ふぎゃあッ!? そこは駄目!? そこは男としてだいじにゃ、おい、更紗! のん気にカンペを捲ってないで、この凶暴な後輩を止めろ!』
背中かどこかを踏まれているらしく、涙目になりながらのたうち回っている――ように見えなくもない。
恐らく、御堂更紗や藤枝つばさの両名とやりとりをしているのだろうが、一人でジタバタともがき、ブツブツと呟いている姿は『不気味』の一言だ。
『じゃあ、最近のトレンドらしく頭部をパックンちょで行こうか。呆気なくも凄惨なお仕置き……ふぎゃあッ!? ちょっと、更紗さんまで酷いじゃ、ああああぁぁぁぁーー!!』
今度は背中とお尻の両方をグリグリとやられているように見える。
どうやら目の前で繰り広げられている滑稽な一人コントは、精霊に魂(?)を吹き込んだ時に登録されたものがそのまま再生されているらしい。
「精霊という影像(?)を作り出す魔法は、一言で『凄い技術』としか言い表せないのですが、こういう無駄な部分も多いですわね」
その様子を見ていたクリスティーナが感想を漏らし、
「……しかし、一人一人に対して異なった会話を行うというのはある意味、馬鹿馬鹿しい魔法だな。技術の無駄遣い、魔力の無駄遣い、時間の無駄遣いの三拍子だ。というか、無駄な部分が凄すぎてどう評価すればいいのやら……」
マドレーヌが大仰に溜息を漏らしながら、やれやれ、と首を横に振った。
「……貴女たち余裕があるわねー」
アヤコの声は冷たかった。
「「はうあッ!?」」
突然の声に二人はその場で飛び上がる。
「た、たいちょう……」
「い、何時からそこに?」
奇妙な悲鳴を上げた二人は背中に大量の汗を流しながら、恐る恐るといった様相で背後を振り返るとそこには柔らかな微笑を浮かべたキツネがいた。
「『元』隊長です。今はただの客人ですので隊長ではありません。それとここに到着したのはクリスが敗北し、貴女たちが小芝居を始める直前です」
一番危険な人に一番ヤバイ場面を見られていた!
二人の顔がどんどん青白くなっていく。
これは絶対にハードな訓練を行うに違いない。いや、ハードの上に『スペシャル』、そして『デラックス』や『ウルトラ』の文字が追加されるに違いない。
テメェら、あとで覚えとけよ――という白い目で怯える二人を見ながら、起き上がり、再びドラゴンに跨ろうとしていた《ヒメジ・ルージュ》に声をかける。
「さて、時間がありませんので次はわたくしがお相手します」
『…………』
《ヒメジ・ルージュ》とアヤコの視線が交錯する。
どちらも動かず、静かな空気が支配する。
やがて《ヒメジ・ルージュ》は静かに、しかしハッキリとした口調で告げる。
『化け狐が登場するとは、侍従隊は全滅。リディアもかなり切羽詰った状態なのかな? でも……』
《ヒメジ・ルージュ》の口元に笑みがこぼれ、フライパンを強く握り締める。
『プリティークリスへのお仕置きが先だね!』
飛んでいったのはフライパンではなく、お玉のほうだった。
予備動作なく無挙動で投げられたお玉はすぐさま、ポンッ! カンッ! と小気味の良い金属音を鳴り響かせた。
「イタッ!?」
「なんであたしまで!?」
お玉は最初、クリスティーネの額にぶつかり、続いて斜め後ろに立っていたマドレーヌの額にぶつかった。
そして地面に転がり落ちたお玉が破裂し、ドン! と耳に痛くない程度の炸裂音が響き、バシュッ! と白い煙が発生。煙は額を抑えていた二人の姿を隠した。
『ちなみに煙はフェイクですので完全に無害です』
「……そうですか」
実に準備のよい事だ。
三〇秒ほど経過すると煙が薄れていき、二人分の影が浮き上がってきた。
一つは、長い棒のようなものをもった影。
もう一つは、全体的に丸い形をした影。
「けほっ、けほっ、この煙は一体なんで――すのぉぉぉぉぉ!?」
「ごほっ、ごほっ、今の煙はなんなん――だああぁぁぁぁ!?」
突然、二人の悲鳴があがった。
しかし、それも仕方がないのかもしれない。
普段の二人の立ち姿と言えば、同じ隊の部下は言うに及ばず、全侍従隊の若いメンバーから『綺麗なお姉さま』『凛々しいお姉さま』として慕われており、制服であるメイド服や鎧もキッチリと着こなしたその姿にエリザの街に暮らすうら若き女性たちで極秘ファンクラブが結成されるほど定評があった。
しかし……、
「な、なんなんですの、このフリフリの服装は!?」
クリスティーネが身に纏っていたのは、濃い目のピンクを基調とし、胸元には大きなリボンを装着、ふわっと広がったスカートは膝上五センチほどで、背中には小さな天使の羽のようなものが装着されていた。
リオやラウラぐらいの年齢が着れば、微笑ましい光景になるのかもしれないが、年齢が二十代後半の仲間入りを果したクリスティーネが着てしまえば、痛々しい苦笑いを浮かべるしかない服装になるだろう。
もちろん、その手の衣装に命を掛けている人間は除くが……。
その衣装を見て、うんうん、と満足そうに頷きながら《ヒメジ・ルージュ》が説明する為に口を開く。
『二十世紀後半、火曜日の衛生アニメ劇場で放送が始まり、何度も再放送をやっている、伝説のアニメ! カードキ○プターさ○らの一期目、オープニングのバトルコスチュームだ! 本編であまり見た記憶がないんだがな……』
「って、そんな解説よりも、わたくしの大切な――給料五年分の値段がする――魔法の杖がなぜこんなものにぃーーーーッ!?」
『「星の杖」という名前で登場しているが、我輩には鳥顔の杖にしかみえない奴だ』
「戻しなさい! 服装はまだ我慢しますが、杖は戻してくださいませ!」
『良いのか?』
「良いから戻しなさい! あれは命の次に大切な杖なのです!」
クリスティーネの鬼気迫る顔に《ヒメジ・ルージュ》は悲しそうに、
『ふぅー……折角、八大竜王のシュルヴェステルに作ってもらった物凄くハイスペックな杖なのに。素材だって――倉庫に忘れていたらしいが――最高級のもので、セーラの聖剣に匹敵するぐらいだしぃ~』
「え?」
『常時、魔力が〇・五パーセントずつ回復したり、消費する魔力量は同じでも威力が五割増しとか。杖に跨れば空を自由に飛べたりぃ~』
「はい?」
『付属のカードと一緒に使えば、全ての属性を使いこなせるようにしたのになぁー。クリスさんは魔法の師匠としてかなりお世話になったし、これが終れば杖は貴女に進呈する予定だったしさぁ~』
「うぇ?」
どこの伝説の杖ですか――アヤコはそう思いながらクリスティーネの持つ杖を見る。偽物かな? いや、白鷺様だから本物かも――と思いながらも、必ず落とし穴があるに違いないと思った。
『でも、しょうがないよね。本人が凄く嫌がってるんだし。嫌がっている人にそれを続けるのは外道のすることだしさ』
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
クリスティーネは杖と《ヒメジ・ルージュ》とを何度も往復させる。
説明したスペックを信用するなら、世界で最高の魔法の杖になるだろう。現在の杖は国からの支給品だが、自分の魔力の波長に合うようオーダーメイドされている。このまま元に戻らなければ紛失扱いになるので賠償が発生する。
あと一年で減価償却が発生し、完全に自分のモノになるのだが……。見た目こそ自分の趣味ではないが、杖の能力を加味すればそれくらいは我慢できるだろう。
そうなると問題はハズレを引いた場合だ。
まず自分が笑われる。次いで、侍従隊が笑われる。
自分はまだ良いが、愛着もある自分の居場所が笑われるのは我慢ならない。笑った奴は拳でボコボコにして、魔法で焼却しなければ腹の虫が治まらない。
『じゃあ、回収するね?』
「ううぅ……つ、使います。使わせていただきます!」
二人のやり取りを止めるかのごとく、突然、盛大な叫び声が上がった。
「使います、じゃないわ!」
その存在が忘れられていたマドレーヌが黄色くもこもこした手を振り上げて抗議の声を上げる。
「なんであたしまでこんな格好をさせられているんだよ!」
マドレーヌの格好は普段の凛々しさなど吹っ飛んでしまう、ずんぐりむっくり、腹巻をした謎の巨大生物――ヒヨコに見えなくもない――の着ぐるみを着ており、くちばしの間から顔が出ていた。
『本当はケロちゃんという相方がいるんだが、つばさ嬢がそのデザインを思い出せなくてな。チ○プイというキャラとごっちゃになったらしい。それで仕方なく更紗が覚えていた同じ黄色の奴を用意したわけだ。我輩は動画サイトに突如現れた、梨の妖精を押したんだが、可愛くない、という理由で却下されたのだ』
「あたしはデザインの由来を聞いたんじゃなくて、なんであたしまで罰ゲームを受けさせられているのかと聞いてんだよ!」
「マドレーヌ、口調が汚すぎます。侍従隊の淑女たるもの、もっと穏かに」
アヤコがマドレーヌを嗜める。
すいません、と謝ってからも《ヒメジ・ルージュ》を睨むことはやめなかった。
『コンビってそういうもんじゃない?』
「……クリスとは『親友』と言っても良い仲ではありますが、コンビではありません」
『それに、プリティークリスの命令違反を止めなかったし。その上、引退したロートルを登場させたんだよ。いやはや、侍従隊も情けないなー。つーか、まったく成長してないってどういうこと? 人間、一日経てば一日分の成長がないと落ちていく一方だよ? ましてや得意分野で失敗している人もいたしさ』
うっ、と言葉が詰まる。
彼の指摘に耳が痛い。
反論する余地がない。
マドレーヌとクリスティーネの二人は反省するかのように肩をすぼめる。
相手は正論を述べている。連帯罰とは不要のようでいて必要なものだ。ましてや命令違反を目の前で見過ごしたのは隊長格の人間がすることではない。
しかし、だからと言って、相手に言われっ放しなのは良くないことだ。
「引退したとは言え、後輩の尻拭いをするのが先達の務めというものです。それにわたくしも楽しそうな輪の中に加わりたいと思う気持ちがありますもの」
『なぁるほどね~。単純すぎる理由で面白みがないけど、実にアヤコさんらしいかもしれないな。が、その前に……』
《ヒメジ・ルージュ》はアヤコを頭から足の指先まで上下に観察し、うん、と頷いてから首をかしげ、
『太った?』
「太ってません!」
『でもなぁー、ウェストのあたりが……』
疑り深い目でアヤコを見ていたら、突如、ドラゴンの咆哮にも似た泣き声が上がり、その絶叫はアヤコたちがいる天幕内にも届いた。
しかし、その声は直ぐに途切れ聞こえなくなった。
『……何ごと?』
「ああ、娘が泣いたのでしょう」
『……誰の娘?』
「わたくしとあなたの娘です」
『…………』
「…………」
『……マジで?』
「マジです♪」
アヤコの楽しげな言葉にウフフと笑っていた《ヒメジ・ルージュ》は、突如、ガクリと膝をついてうな垂れる。この精霊を作った時はまだそういう関係になっていなかったのだが、いざ関係を持ち、ましてや子供までいるという現実に『事実は小説より奇なり』なのだと思わずにはいられなかった。
『そうかー、自分の子供ができちゃったのかー。まだ義理ぐらいなら耐えれたけど、自分の遺伝子を継いだ子供が出来ちゃったわけかー』
「ショックですか?」
精霊は沈鬱そうに首を横に振る。
『いや、出産に立ち会いたかったなぁ~、という思いで一杯です。いざ、想定していた事態に直面しても心構えが追いつかないというか、精神的なものというか……』
「……まぁ、わたくしの方はお気遣いなく。周囲の助けもありますし、娘ともども気楽に日々を過ごしていますので」
『そうですか……。じゃあ、そういうことで行きますか。本人も納得してるんだし』
精霊はあっさりと気持ちを切り替えた。
なんだろう、台本通りの進行だとは思うがちょっと腹立たしい。
『ふっふっふ、よくぞ我輩の前に現れた魔王狐よ! そこらの烏合の衆のようなメイドたちに比べれば、確かに手ごわい敵であろう。しかし! 魔王狐は武力にかかれば天下一だろうが、実際は細かい作業が嫌いでずぼらなおばさ――』
「てい!」
『ふぎゃッ!?』
言ってはいけない単語を口にしようとした精霊をデコピンでふっ飛ばした。精霊はフラットに飛行し、天幕の布へとダイブする。
「誰がオバサンですか? わたくしは何なのでしょう?」
『ま、魔王狐は四十代目前のおばさ――』
「てい!」
『フギャッ!?』
起き上がり、無駄な抵抗を試みようとしていた精霊に再びデコピンを喰らわせる。今度は真上に飛んでいった。
目の前で行われていた惨状を目の当たりにしたマドレーヌは目を見開き、横で肩を震わせるクリスティーネに話しかける。
「(……な、なあ、アヤコ様は大丈夫か? あの精霊に手を出すと後でどうなるのか知らないだろ?)」
「(知らないからこその蛮行でしょう。恐らく、想像通りなら最悪の結果に……)」
「(マジか!? どうすんだよ、あの人が最後の砦だぞ?)」
「(そんなの仕方ないですわ! シラサギ様が申したとおり、あの人を表に出した不甲斐ない我々にこそ非があるだけで……)」
ヒソヒソ話を続けながら、事態の行方を見守る。
けれども、事態は二人の予想しない方へと進んでいく。
「ほらほら、わたくしを『美しく優しいお姉さま』だと認めなさいな」
『うぉぅ、うぉぅ、や、やめて……』
「認めるまで止めませんよぉ~♪」
落下してくる精霊を再びデコピンによって上に飛ばす、という一連の動作をリズミカルに行っていた。精霊虐待だ。
『み、認める! アヤコさんはオバサンではなくお姉さんだと認めます!』
「よろしい」
精霊の言葉にアヤコは満足げに頷くと、落下してきた精霊を掴んだ。そして、そのまま机の上で所在なさげにしていたドラゴンへと投げた。
ストンとドラゴンの背中に着地する。惨めだ。
『……ちくしょう。虐待だと訴えてやる』
「時間が余り無いのですよ? 娘は一度、泣き始めたらなかなか泣きやまないのですから、早くわたくしに試練をお出しください」
『ふむ、娘が大事にするのは母親の勤めですからな。不在で不甲斐ない父親に代わって頑張ってください。しかし、試練を簡単にはしませんからね』
《ヒメジ・ルージュ》が、ぱんぱん、と拍手を打つ。するとアヤコの前に一〇センチ四方ほどの箱が現れる。
箱の表面には複雑な模様が表面に施されていた。
『その箱は『秘密箱』と呼ばれるもの。正しい手順で操作を行わなければ蓋が開かない構造になっている。一度でも間違った操作を行えば、一から最初に戻る仕組みだ。制限回数は三回、もしくは太陽が完全に沈むまで。あと一〇分もないだろう』
アヤコは箱を裏返したり、横の面を覗き込みながら、
「手順の回数は?」
『それも試練のうち……と言いたいところだけど、手順は一〇八回だ。ちなみにリディアも同じ試練を受けたが……結果は言わずとも分かるだろう?』
失敗したからアヤコのお鉢が回ってきた事になる。
「アヤコ様、大丈夫ですか?」
「リディア様でも無理だったわけですし……」
『引くのも勇気だよ?』
「行くのも勇気ですわ。それに」
アヤコは自信ありげに指先に力を込め、箱の側面――裏面に近い、花柄の模様が刻まれた木を横にスライドさせた。
特に何も起こらず、アヤコはそのまま反対側の面をスライドさせていく。
箱を操る指先に迷いがなく全工程の半分、五四番目まで進んでいった。
「……この箱は母の作品ですわね?」
『……そうだよ』
「……幼い頃、玩具などを買ってもらえず、母が作ったからくり箱でよく遊んだものです。わたくしは苦手でしたが妹が得意でして、よく手順を教えてもらったものです」
アヤコは当時を懐かしげなに思い出しながら作業を続けた。
――作業を続けること二分。
ついに最後の一〇八番目まで失敗することなく辿り着く事に成功した。
「これで最後……」
小さく飛び出たピースを押し込むと、カチッ、という乾いた音が響き、蓋が開いた。
試練を成功させたアヤコはマドレーヌとクリスティーネに振り返り、グッと親指を立ててみせる。
「やった!」
「流石はアヤコ様!」
アヤコを見守っていた二人は諸手を上げて喜ぶ。
そして試練を突破された《ヒメジ・ルージュ》の体が徐々に崩れ始めた。
「白鷺様!?」
『魔王狐、よくぞ我が試練を乗り越えた。だが、我輩には見えるぞ! 再び、欲望にかられた何者かが我輩を呼び出すことを……』
「これっきりにして欲しいです。それに今度こそ後輩たちの役目です」
『だが、その時も侍従隊は役には立たないだろう。わははは……ッ、ぐふっ!』
《ヒメジ・ルージュ》は不吉な台詞を残して姿を消した。そして、精霊を生み出していたノートも一緒に消え、その下にあった次のノートが自動的にページを開く。
そして爆発。
「こ、今度は何ですの!?」
爆発から生まれた二つの火の玉は上昇していき、天幕の天井をつき抜け、大空へと舞い上がる。
ひゅ~~……、ドォ~~~~ン!!
再び爆発を起こすと、暗闇の空に映えるよう大輪の花を咲かせた。
「綺麗ですねー」
「……あ、これが『花火』って奴なのかな?」
マドレーヌは次々と発射されては大輪の花を咲かす正体に当たりをつけた。
「何ですのその『はなび』というものは?」
「あ~、火薬とか金属の粉末を混ぜて、それを燃焼させると色とか音とかが発生するらしい。あたしも生まれて初めて見るし……火薬の匂いがしないから別物かも」
「貴女でも初めて?」
「火薬類は製造とか不法所持等に関して禁止されているからなぁー」
「火薬類は少量なら兎も角、大量にありますとその匂いが原因なのか、数多くの魔物やドラゴンを引き寄せるとされています。だから自己責任の名の下で管理がゆるされておりますが、まぁ、全滅するような物をどこの街も保持しようとはしませんものね」
マドレーヌの説明にアヤコが補足を入れた。
詳しい原因こそ不明だが、アヤコの言葉通り火薬は魔物を引き寄せる効果がある。世の研究者は、火薬の使われ方によっては自分たちの身に危険を引き寄せると思い、その元を断つ行動に出ているのではないかと言われている。
「なるほど……。しかし、これは魔力で生み出された魔法ですわ。音こそ凄いですが、魔物を引き寄せる副次効果はなさそうですわ」
しばらく観賞していると、今度は同じノートから壮大な音楽が流れ、続いて花火の間に文字が浮かんでいく。
スタッフロールが始まった。
製作スタッフ
プロデューサー ヘルムート
人工精霊デザイン
エドガール ヤロスラヴァ ステファニー
人工精霊・魔法構築
シュルヴェステル フェルディナント カステヘルミ
花火魔法構築
白鷺紅 エドガール ステファニー
試練&お仕置きの考案
クレオパートラ フューリー
バトルコスチューム デザイン&製作
御堂更紗 藤枝つばさ
キャスト
ヒメジ・ルージュ 白鷺紅
下っ端ドラゴン ジークハルト
スペシャルサンクス(主に情報提供)
アルバート・アーサー・ヴァレンタイン・エレンシア
レオノーラ・ヴァーグナー・エレンシア
エリシア・フランツィスカ・エレンシア
イーリス・トリスタン・ミュラー
フューリー
クレオパートラ
ケイト
トゥーヴァー
アスカ・シューマッハー
マイカ・シェスター・シューマッハー
侍従隊・保護者の会の皆様
侍従隊・OG会の皆様
その他、このイタズラに関わった全ての人々
総責任者(重要!) アルバート・アーサー・ヴァレンタイン・エレンシア
尚、試練の失敗等で姿を変えられたものは一日ほどで状態が元に戻りますので、悪しからずご了承ください。
最後の一文字が消えると、一〇分ほど続いた花火を打ち上げていたノートも消えてしまった。
余韻さめやらぬ状況ではあるが、現状確認が必要だ。
これで残されたノートは三冊。
黒塗りだったノートの表面は剥げおち、それぞれ特徴をもった装丁に変えられて、ノートの中身を表す題名が記されていた。
今こそ開催してみたい 音と光の祭典 火薬を使わない花火大会(二〇回分)
老後の趣味はこれ一本! ちょっと変わった盆栽を皆様の手元に
美味しいモモ缶の作り方 ~種から実の収穫まで~
記された題名を見て、マドレーヌとクリスティーネは不可解とばかりに呟く。
とてもお金になりそうな題名ではない。
「なんという怪しげな題名のノートなのでしょうか?」
「なんか、あたしの勘が叫んでいるんだけど。『ノートの中身を読むな!』って」
獣人族であるマドレーヌの勘は侮れない。くじ運などはあてにならないが、身の危険を感じた時の勘は当たる事が多い。
「とりあえず、わたくしがリディア様にこのノートを持って行きます。二人は天幕の撤収作業にあたりなさい。ついでに、上に吊るされているリオ様とラウラ様の救助をして、直ぐにお風呂にいれて差し上げなさい」
「「はっ、了解しました!」」
英雄にビシッと敬礼する魔法少女とデカひよこ。
ノートと試練の箱を抱えたアヤコは二人に見送られ、天幕を後にした。
★ ★ ★
泣き続ける娘の相手に疲れきっていたリディアに事態の顛末を説明し、騒動の発端となったノートを渡す。
ちなみに、娘は花火を見ると、ピタッと泣きやんだらしい。
残された三冊のノートについては、リディアが中身を読んでからどうするかを考え、明日、再び話し合いの場を持つ事になった。
泣き疲れた娘が寝静まった事を確認し、試練の箱を取り出し、再び蓋を開ける。
あの場で中を取り出さなかったのには理由がある。
箱の中には『アヤコ・シューマッハー様へ』と記された封筒と、五センチ四方の本革仕様の箱が入っていた。
まずは箱を開けてみる。
自分が好んでいる白い宝石が埋め込まれた指輪が入っていた。
続いて、自分の名前が書かれてた封を開けると、中には一枚の折畳まれた便箋が入っていた。
便箋を開き、そこには見覚えのある字体で、
『必ず戻ってきます。そしたら結婚しましょう』
――と、書かれていた。
やばい。これはちょっとウルッと来てしまった。
我ながら簡単な女だという事は自覚していたが、こうも簡単に涙腺が刺激されるのは年齢だけではないだろう。
彼が自分の世界に還ってから一年半の刻が経過した。その間に妊娠が分かり、その子供が生まれる間、出産経験のあるセディアを筆頭にした周囲の助けを受けていたが、それでも相手がいないことで寂しい思いを何度もしていた。
女たらしなのは知っていたが、こういう演出をする奴なのだ。
指輪を自分の左手薬指に通す。吸い付くようにピッタリだ。
指輪をニヤニヤと眺め、次いでスヤスヤとベッドで眠る我が子を優しげな瞳で見る。
「ふふふ……貴女のお父さんは凄いんだか、凄くないんだかよく分からない人ですが、わたしが愛した男には間違いありませんよ」
さあ、必ず戻ってくるというのだから、女は待とうじゃないか。
そして帰ってきたらまずは殴ってやる。それから思いっきりキスをして、力いっぱい抱きついてやるのだ。
騒動は終りましたが、物語はもう少し続きますよ!
続きは年明け後に。
それでは良いお年を!