#001 プロローグ的な何か
春の麗らかな陽気が背後の窓から降り注ぐ中、部屋の主――リディア・アルテミス・エレンシアは、黙々と書類の山を処理していた。
領主をやり始めた頃は、不慣れだった決裁前の仕分け作業も、今となっては手馴れたものとなり、冒頭の数行を読んだだけで見分ける事が出来るようになっていた。
それまで読んでいた書類の表紙に『閲覧済』の判子を押すと、『不採用』の見出しがついた仕分け箱に放り込み、次の書類に手を伸ばす。
しかし、指先に感触が返ってこない。
訝しげに顔を上げてみると、決裁前の箱は空になっており、どうやらさっきの書類が最後だったようだ。
仕事を終えたリディアはゆっくりと体を伸ばし、次いでゴキリと首を回し、ゴリゴリと肩を回していく。自分の年齢で出したくない音ではあるが、座り仕事をしているとどうしても筋肉が強張ってしまうので致し方なかった。
時計に目をやると、昼食までは三〇分ほどの時間がある。間食をするには中途半端な時間だが、書類仕事で疲れた脳が糖分を要求していた。机の中の非常食は、残念な事に底をついている。
秘書官が決裁書類を引き取りに来るまでも時間があった。メイドを呼び出し、紅茶でも淹れてきて貰おうかと首を捻っていると、
「――失礼いたします」
と、こちらが返事をする前に執務室の扉が開き、一人のメイドが入室してきた。
「リディア様、お茶をお持ちしました」
「アヤコ、ご苦労様。ちょうど欲しかったところでした」
屋敷を警護している侍従隊の隊長職や屋敷を取り締まる侍従長の地位から退き、食客待遇となった今でもメイド服を身に纏った、アヤコだった。
彼女はリディアの前に紅茶の入った陶器のティーカップ――金月大陸から入植した黒エルフが作成した――と、お菓子を静かに置いた。
まるで以心伝心のようなアヤコの行動に感謝しつつ、紅茶を口に含むと、舌の上に適度な砂糖の甘さが広がる。
いつ飲んでも美味しいが、今日はことのほか美味しく感じられた。たぶん、仕事が終ったからだろう。残っていると、少しだけ残念な気持ちが湧いてくるので……。
ほんわかと心温まる感触に顔が綻んでいると、アヤコも微笑みながら、
「お仕事は終りましたか?」
「ええ、今日中に決裁すべきものは……っと、ああ、もう一つありましたね」
そう言いながら、引き出しにしまっていた赤い封筒を取り出す。封蝋には国王の紋章が記されていた。
中身が何の要件かと知っているので後回しにしておいたものである。
封をあけ、中から五枚綴りほどの便箋を取り出し、読み始める。
アヤコはその間に仕分け棚をドア近くに移動しておく。
読み始めて五分ほど経っただろうか。
「ふぅー……」
リディアは便箋から視線を外し、アンニュイな溜息を吐いた。
「これはどうにもならないと言っておいたのに……」
呟いた。
「どうかしましたか?」
「いえ、例のアレです」
「アレ、と言われましても、心当たりが多すぎるのですが……」
「昨年から……正確には半年ほど前から大陸北部で広がりを見せている大規模な旱魃に関することです」
「その件でしたか……」
今年の春ごろ――エリザでは冬だが――に銀月大陸の北部、複数の国にまたがり小麦が黄金色に実る事から『黄金ロード』と呼ばれていた穀倉地帯で大規模な旱魃が発生したのである。その結果、収穫前の小麦はほぼ全滅となり、今年の収穫が大激減。小麦の価格は前年度よりも倍近く上昇をみせていた。
当事国ですら今年は食べていけるかどうかとなり、そこに頼っていた周辺国ではすでに飢饉が始まっているといわれている。
現状では旱魃となった原因が分かっておらず、今年も続くのかどうかすら分からない。備蓄していた食料を吐き出すことで略奪等の暴動を回避しているので、今年も不作という事になれば、食糧確保の為に戦争が起こるのではないかという噂が大陸の反対側に住むリディアやアヤコの耳にも届いていた。
「それで陛下はなんと?」
「今年の収穫高は決まってますので、何ともなりませんが、来年以降に備えて増産する事が出来ないだろうか、という打診です」
エレンシアは大陸でも有数の麦産出国であり、アルバートの元にも旱魃被害を受けた各国から援助、もしくは輸出枠を増やせないだろうかという話が来ている。
外交的には、その話を引き受ければ相手に恩が売れるだけではなく、自国経済の発展にも繋がってくる。しかし、既存の枠組みは全て埋まっており、備蓄を放出するにはちょっと理由が弱い。これが近隣諸国なら話が早いのだが、大陸の反対側ということもあり、中々賛同が得られずじまいだった。
ならば次善策として、今年は無理でも来年に備えて増産すればいいのだが、それを行うには新たに麦畑を開墾しなければならない。だが、エレンシアという土地は人族の生存圏から外に一歩踏み出せば、命の保障がない危険地帯になるので、短期間に開墾できる土地はないに等しかったのである。
「お父様……というよりも外務大臣からの話ということで、エリザベス領なら比較的安全地帯ということもあり、余っている土地を開墾できないかという打診が水面下で来ているみたいですね」
「何と言いますか、素人の浅はかな考えですね」
「思いつきだけで発言しているのかもしれません。しかし、土地が余っているかもしれませんが、開墾を行うには人・金・時間が必要になりますから」
「人はどうにかなりますが、うちには予算がないですからねー」
エリザの街に移住を希望している人間が増えてきているのだが、そろそろキャパシティの限界が近づいてきている。土地の構造上、街を拡大する事ができないので、希望者には他の街に移住を促しているところだ。
そして、街の代表達の話し合いでもエリザと東にあるルルガとの間にある平野部に新しい町を築くべきではないかと議題に度々上がってきている。
しかし、新しい町を築くとなると移住を希望する人間の当座の食料や生活道具を揃えるには多額の費用が必要になってくる。無論、行政側が全額負担する必要はないが、一部を援助する必要は出てくる。
仮に増産に成功したとしても、それを輸送する為の経路が貧弱なままなのでは意味が無い。輸送を強化するにはこれまた予算が必要となってくるので、卵が先か鶏が先かの話になってくるのだった。
「新たに予算を組むにしても、税収の増加が無い以上、今ある何かを削らなければなりませんが、それを調整する時間が必要ですからね」
人が流入する事による税収の増加はあるのだが、それに伴う支出も同じように増えている。
例を一つ挙げれば、若い夫婦の増加により、その子供の数が増えている。リディアが領主に就任したころには、エリザの街には一つしかなかった学校が今では三つにまで増えている。建物に関しては他のものを流用すればなんとかなるが、子供に学問を教える教員の数が足りておらず、今は一クラスで授業を受けさせる人数を増やして何とかこなしているのが現状だ。
一応、毎年、一定額の開拓予算を計上しているのだが、今年の事業案は決定しており、それを削って流用するのは受け入れにく理由があった。
「今年度の開拓予算は黒エルフの受け入れと彼らの陶器作りに組み込んでますから、それを削るとなりますと……」
「あの事業は金月大陸との友好事業の一つとしてますので一Rでも削れば、各方面に問題が発生する恐れがあります。それでなくても、今年度は各地の堤防工事などの公共事業に多額の予算を割いているのですから、これ以上は無理です。……まぁ、お父様の方も本気で考えているようではなく、下から言われたから『とりあえず』という姿勢のようです」
「しかし、努力している姿勢だけは見せておかないといけませんね。特に東北部にいる一部の人間から要らぬ噂を流布される恐れがありますし……」
「そうなのですが、おいそれと代替案が出てくるわけではありませんから。……それにしても、頭が痛くなる案件が次々と出てきますね」
「対岸の火災に等しい旱魃被害はまだ良いですが、クリッツェン公国とセインツィア教国の連合対クロスハート王国の戦争に始まり、東の獣人自治領では謎の病気が蔓延し収束の見通しは立ってません。王国の南東洋艦隊の一部が行方不明。……ここ一年で色々ありますね、呪いでしょうか?」
アヤコも「困ったものです」と頬に手を当てて溜息を吐いた。
セインツェア教国が召喚された勇者を前面に押し出し、クリッツェン公国と同盟を組んで周辺国に対し宣戦布告したのが半年ほど前。エレンシアは自国に影響が出ない範囲で同盟国であるクロスハートに援助をしているだけであり、それ以上のこと――義勇兵の派遣など――はしていなかった。
そして、それに前後する形で王国内の獣人自治領の一部地域で獣人族に対してのみ――普人族や亜人族には通常の熱と変わらない――致死率の高い感染病が蔓延をみせ始めた。感染病が周辺地域に広がらないよう、リディアが先頭に立って封じ込め作戦を実施している最中で、医者や兵士にかかる臨時出費を強いられている。
市民の間には、教国が掲げる獣人や亜人を排除する普人族至上主義により、獣人自治領に病原菌を撒いたのではないかという噂が流れているが、噂の域を出ていない。
最後の艦隊行方不明は、同時期に発生した大型の嵐に巻き込まれた可能性が高く、既に沈没していると思われている。行方不明になった五隻は今回が最後の航海と言う退役直前だったので、艦隊を再編成する資金は不要だが、熟練の船員を失ったのは金額以上に痛かった。
感染病をのぞけば、エリザベス領には関係無いのだが、こういうのは後になって効いてくるボディーブローのようなもので、地味に財政に響いてくる事になるだろう。
リディアはずっしりと椅子にもたれ掛る。
「金、金、金。どこもかしこもお金の話ばかり――?」
リディアは顔を正面に向け、アヤコの頭上にあるキツネ耳がピクピクと揺れる。
「……?」
「なんでしょうか」
ドアの向こう、廊下側に人の気配を感じ取ったのだが、直ぐに消え去ってしまった。執務室の前を通る人間が皆無ではないが、通り過ぎるだけなら気をとめる必要はない。先ほどの気配は明らかに室内の様子をうかがっているように感じられた。
リディア目当ての外部からの客は規定上、ここまで通される事は無い。スパイや泥棒の類だと侍従隊が処理しているはずなので、やはり確率論的には低くなる。
時計に目をやると秘書官が来るには少し早かったし、秘書官なら室内に入ってくるし、こちらに疑われるような立ち去り方はしないはずだ。
可能性があるとすれば、リディアの数少ない(!)友人であるリオとラウラぐらいなのだが、
「二人はこの時間、学校のはずですし……」
「リオ様とラウラ様は、本日は休校になっておりますので、屋敷で自主学習のはずです。なんでも校舎にシロアリが確認されたので、その駆除作業があるそうで」
「そうだったんですか? 朝食時に何も言ってなかったのに……」
何か一人だけ仲間はずれにされたような気分だ。
「うん、今日のおやつからリンゴを外しましょう」
「……リディア様、それは意地汚いですよ」
リンゴはリオとラウラの好物である。そして今日のおやつの予定はリンゴのタルトだった。タルトから主役であるリンゴを外すと、もはや小麦の塊以外なにものでもなかったのだった。
「大丈夫、今日だけです。あの人のように連鎖するような意地悪な事はしません」
「それは五十歩百歩のような気がしますが……」
彼女が生まれた頃から知っているアヤコからすれば、『氷の王女様』と呼ばれていた時代を考慮すれば、今のように色々な表情(感情)を見せることは悪くないが、なんというかもう少し素直に育って欲しい気持ちが勝っていたのであった。
秘書官に決裁書類を渡し、指示を伝え終えた後、リディアとアヤコは昼食をとる為に階下にある食堂へと足を運んでいた。
昼食はお客と会食などする事もあるのだが、今日は特に予定が入っておらず、久々に屋敷でとれるという事もあってか、リディアの足取りは何時もよりも軽かった。
「おや?」
二人の足が止まる。
「リオにラウラ、どうしたのですか、その格好は?」
二人の前に現れたリオとラウラの服や頭には埃がこびりついているし、顔の一部が真っ黒に汚れていた。まるで、埃が溜まった部屋か倉庫で暴れたような格好だ。
二人はおずおずとリディアの下にやってきて、
「リディアちゃん、これ!」
「どうぞ!」
と、黒い装丁のされた数冊のノートを突き出した。
一冊、一冊がそれなりの厚みがあり、市販されている普通のノートとは違うようだ。
表紙にはこれといった記載が無く、誰が使用し、作成したのか窺いしれない。年代を感じさせるような古びた感じがないので、最近作られたものぐらいしか分からなかった。
(……もしかして呪われませんよね)
しかし、禁忌指定された魔術書にも似たような雰囲気がノートからは漂い、光沢するほど黒染めされた得体の知れない装丁が、呪いの類は一切利かない体質のリディアですら及び腰になるのだった。
それでも二人の為に勇気を奮い立たせながら、二人にノートについて問いただした。
「えっと……これは?」
しかし、リオとラウラはリディアの様子に気にさわることもなく、ニッコリと邪気の無い笑みを浮かべながら、そのノートの正体を口にするのだった、
「えっとねー、これはパパが残したノートなの!」
その発言に、リディアやアヤコは言うに及ばず、たまたま彼女たちの後ろを歩いていた男装のエルフと神官っぽいエルフを含めた全員の背中に冷たい戦慄が走るのだった。




