七年と七日
その小さな生き物は、もぞもぞと蠢いては、なかなか居場所を見つけられないでいる様だった。
堅そうな茶色の背中が不気味にテカっていて、気持ちが悪い。いつもなら、すぐに捨てて、というところだけど、今の私に、その元気はなかった。
動きが、止まった。
「裕くん。蝉さん、止まったよ」
この生き物を連れ帰った張本人の息子は、退屈したのか、はたまた待ちくたびれたのか、昆虫図鑑を枕に、いつしか眠ってしまっていた。お風呂に入る時ですら「見張っていて」とうるさかったのに。健闘むなしく、睡魔に負けた息子の背に手を当て、カーテンに引っ掛かったように爪を立て、動かなくなった幼虫を見上げる。
さっきまで、落ち着きなくしていたのが嘘のように、微動だにしなくなってしまった。羽化するのだろう。それが、すぐに始まるのか、数日かかるのか、私には見当もつかない。
息子の、汗で額に張り付いた髪をすくい、抱える。五歳になる彼の重さは、腰に響いた。自分の加齢と彼の成長、どちらによるものなのかは判然としないが、彼を抱える事が出来る月日はそう残されていない事だけは確かだった。抱え直すと、うっすらと汗のにおいがした。
「こんなに遅くまで、頑張ったね」
届かない言葉をかけながら、息子を寝室に連れて行き、寝かせた。良く日に焼けた頬に、まだまだ幼さが滲んでいる。夢を見ているのか、小さく笑う。私もつられて微笑んだ。
健やかな寝顔を見ていると、救われるのと同時に、これからの事が思いやられ、胸が塞いだ。頭を抱えたくもなる。溜息の代わりに、そっとタオルケットを息子の足元にかけた。
蛍のように点滅する光が、視界の端にとまった。顔を背けようとした途端、マナーモードにしている携帯電話はジジジと震え、再び着信がある事を告げる。
知らない顔をして、背を向けた。
事実がわかった以上、夫との話し合いは無駄だと思っていた。
七年間、育んできた家庭は、一週間前の見知らぬ女性の出現で、あっけなく終わろうとしている。
自分には縁のない話だと思っていた、どこにでも転がるありきたりの浮気話は、想像と違って、憎しみや怒りより、虚しさと脱力感をもたらし、同時に私の心も閉ざした。
開きっぱなしになっていた昆虫図鑑を手に取る。汗のシミがついていた。
私には、守らないといけないものがある。しっかりしなきゃ。
そっとシミのあとを指でなぞり、そこにある文字に目を滑らせた。
蝉の生体について書かれたそのページには、俗に蝉は地中に七年地上で七日といわれているが、実際のところはまだ未解明なのだと記されていた。
こんなに身近にいる生き物なのに……と言いかけて、吹き出した。身近にいても、わからない事は、確かにあるのだ。
「七年かぁ」
静かな夜に、七年の時がゆっくりと染みてくる。思い出すほどに、やるせなさが胸を痛めるのに、アルバムをくる手が止められないように、とめどなく様々な出来事が去来した。このどこに、あんな不幸が入るこむ隙間があったのだろう。
意識が、眠気にさらわれかけた。こくんと舟を漕ぎ、慌てて顔を上げる。
小さく息をのんだ。
―― 羽化が、始まっていたのだ。
固い殻に一筋の亀裂が入り、乳白色の体が少しのぞいている。ゆっくりゆっくり、でも、確実に、古い殻を破り新しい姿がせり出してくるその様子に、しばし見入ってしまった。
卵から月日をかけて、ここまで大きくなった。雨や暑さ寒さにも、地中でじっと耐えた。 ずっとずっと暗闇の中、太陽の世界を待ちわび、ようやく、この日を迎えたのだ。
「本当に……」
七日で終わってしまうの? 七年の時を、たった七日で終わらせてしまってもいいの?
やがて、真っ白な蝉はしわくちゃの羽を伸ばし始めた。この羽が開けば、きっと飛び立っていくのだろう。せいせいするほど自由で、眩しい夏の空へと。
ジジジとまた、あの音が耳に届いた。
私の空は、どこにあるのだろう。七年大切にしてきた場所か、それとも、まだ見ぬ場所か。どちらにしろ……。
私は携帯を手に取った。開く。夫の声がした。蝉よりもうるさい必死な声に、私は小さく苦笑する。
「生体はまだ未解明らしいものね。諦めるのは早いよね」
電話の向こうの夫の不思議そうな顔が目に浮かぶ。
朝日が射し始めたカーテンから、カラリと蝉の抜け殻が転げ落ちた。




