ロリータ
俺この映画すげえ好きなんだよね。ほら、大人になったロリータが昔の男に言うじゃん『あなたを愛したことは一度もないわ』って。信じられねえ、こんな貧乏しててさ、昔の男が金も車も全部やるって言ってるんだから口先でくらいサービスしてやりゃあいいのに。でも言い切っちゃうんだよな。
俺は全身じんじんと痺れるようなだるさと痛みをやり過ごしながらフローリングの上に転がされながら、少し前までセックスしてた相手のことなんか忘れたみたいに一人でシャワーを浴びて映画を見て、俺に言ってるんだか一人ごとなんだかわからないことをしゃべる男の声を聞きながら。
こいつ馬鹿なんじゃないか。
そう思っていた。
◇ ◇ ◇
コンビニバイトの名前なんて覚えている人間がいるだろうか。たった今レジで清算を済ませたところで、そのレジを打った人間の名前どころか顔さえ覚えている人間は少ないだろう。ミスさえしなければ人の記憶に残らない存在、同じ店で働いていても、シフトが違えば顔も知らないままというのも珍しくない存在。
ファストフードの店よりは騒がしくなく、路上のティッシュ配りよりは天候に左右されない分だけ楽。
深夜帯も厭わずシフトに入れれば、暮らしていけるだけの金は手に入る。元々遊んだり金のかかる趣味も持っていないから、家賃と光熱費を払える分だけ、それに少し余裕があれば良かった。
一緒にバイトに入る人間とも挨拶だけをして、人付き合いが悪いってことは知れ渡っていたし、店長はバイトが仕事中に私語をするのを嫌っていたから、あとは店内のマニュアル言葉だけで用は足りた。
暗いやつとか変なやつとか言われているのは知っていたけれど、だからどうとも思わなかったし、早朝、深夜、昼帯と急な欠勤等で空いた時間に文句もなしに入る俺みたいな存在は便利だから、多少人付き合いに難があろうとクビになる心配もなかった。
俺はただ、ひっそりと、誰の目にもつかない場所でなるべく人と関わらずに生きていければよかったのだ。
内緒だからね。
コンビニで賞味時間の過ぎた弁当は捨てなければならない。けれどまだまだ食べられるものを捨てるのは良心が咎める。店長はそういう男だったので仕事の終わったバイトに持たせたり、休憩時間にバックヤードで好きに食わせたりしていた。無論本社には内緒だ。けれど表示された時間を一時間二時間過ぎたところで全く影響はなく、冷蔵庫に入れておけば前日の弁当だって食べられる。売るなというのはともかく、絶対に捨てろという本社の指示には俺も抵抗を覚える。
なので今朝も店長から毎度同じ言葉を聞きつつ、弁当を三つ、おにぎりを二つ、サラダや惣菜を持たされ、ぺこりと頭を下げて礼をして店から出た。六時過ぎ、サラリーマンや部活に出る学生でそろそろ電車が混みだす時間だ。 俺も一年前までそんな電車に乗っていた。けれどそれはもう終わった過去だ。今の俺は自転車の籠に期限の切れた食料を入れて、自転車で十五分のアパートに戻る。
もうすぐ冬を迎える冷たい空気を吸っていても、アパートに着く頃には少し汗ばんでいる。寒さに備えて厚めの上着を着こんでしまったからなおさらだ。それでもコンクリートの階段を上がり、二階の端にある自分の部屋の前に立つともう、汗は引っ込んでいた。
部屋の扉の前に男が座り込んでいる。紺色の制服を着た、学生服が似合っているのか似合わないのか判然としない、けれど乱すこともなく着た制服がまるでオーダーメイドのように見えることだけは確かな。
「先生」
踵を返して階段を下りようとした俺の気配を察したように顔を上げて、高久は微笑んだ。寒気に頬を赤くして、どれだか待ったのか知らないか若い体は疲労を知らずに身軽に立ち上がる。染めたり脱色したりでは決して出せない艶のある栗色の髪が日を浴びて亜麻色に透ける。同じ色をした目がぴかりと光って俺を見る。多分子供の頃は少女に間違われていただろうことが容易に分かる、今だって甘く整った顔。ただその内面が全くそぐわないだけで。
俺はこの顔を見ると吐き気がする。
一年前に捨てさせられた生活を無理矢理目の前につきつけられる。
「俺はもう教師じゃない」
「昨日は夜帯だったんだ? 俺そんなこと聞いてなかったよ」
「突然呼び出されたんだ。シフトの人間が急に休んだとかで」
「馬鹿みたい。コンビニのバイトなんて」
「生徒に手をだした教師を雇う学校なんてないし、まともな職場でも相手にされない。当たり前だろう」
たかがバイトですら、やっと採用されたのだ。それも前職を辞めた事情を知られれば追われることになるだろう。俺は一晩分の疲れと、今背負った疲れとでぐったりしながら鍵を開けて部屋に入る。当然の顔をして高久も後をついてきた。
部活を引退した三年生が登校するには早い時間だとはいえ、彼が今通っている学校はここから電車で三十分以上掛かる。というのに彼は家主より先にコタツに入り込み、くつろぐ姿勢を見せている。
「遅刻するぞ」
「大丈夫。遅刻する前に出るから。先生これから朝飯? 俺も食べたい」
「家で食べてきたんだろう。それに期限切れのコンビニの弁当だし」
「なんでもいいよ」
向かい合って飯など食いたくないと言い訳を並べる俺の言葉をばっさりと切り、高久は動かない。仕方なし、ヤカンに水を入れてガス台に置く。レンジで弁当を温めるのは湯が沸いてからで良い。
そう思いながら狭い台所で、板張りのひんやりした床の冷たさを足裏で感じながらも居間には行けずにいた。居間には高久がいるからだ。顔を合わせたくないし出来るなら声も聞きたくない。
「俺昨夜電話したんだけど。出ないからメールもしたし」
「……そうだったのか? 仕事中は携帯見ないから」
「夜帯って休憩時間あるだろ」
「忘れてたんだ。携帯チェックするの。眠たかったし」
「忘れないでちゃんと見ろよ」
不満そうな声に苛々する。お前からのメールも電話も受け取りたくないからわざとチェックしないのだ。
「先生何やってるの」
「言ったろう、俺はもう教師じゃない」
「だって名前で呼ばせてくれないじゃん」
「苗字で呼べばいいだろう」
「やだ。アヅマサンとかすげえ距離感じる。何で名前で呼ばせてくれないわけ? 俺のことも名前で呼んでほしいのにさ」
それはお前と距離をとりたいからだ。
去年、俺は高久に犯された。否、彼は彼だけの思い込みの中で、自分達は恋人同士だと、あれは合意だったと思っていたのかもしれない。関係が表沙汰になったとき、堂々とそう言った、先生は悪くない、と。
子供の浅知恵で、そう言うことで何か事態が変わるとでも思ったのか。
変わるわけがない。
何度も、何度も無実だと、強要されたのだと訴えたが無駄だった。未成年に手を出した時点でお前は犯罪者なのだと言われ、それなのに男に犯されたのかと蔑まれた。表ざたにしないだけありがたいと思えと、無理矢理辞職願を書かされた。表沙汰になって学校が醜聞にまみれるのを恐れただけだ。俺のことも、生徒のことも考えていない措置だと唾棄したくなるものだったが何日も責められ蔑まれ、俺は言われるままにすることしか出来なかった。
俺が何をいっても無駄なのだと、声はどこにも届かないのだと、無力感の中で思い知った。
高久とだって、生徒と教師という垣根を越えたことは何もしなかった。ただ、親の離婚で母親と一緒に帰国してきた高久がなかなか学校に馴染めないでいるのを、担任として気に掛けていただけだ。声をかけて、悩み事を聞いてやって、興味があるといっていた部活に連れて行って……、相談したいことがあるからと言われて教えたメアドや携帯の番号に夜も休日も着信が入り始めて、困惑し、ちょっと迷惑だと思いながらも時間があるときには付き合ってやったり、どうしてもと強くねだられて休日に買い物に付き合ったことが一度か二度。その頃には高久はもうすっかり学校に馴染んでいたからそろそろ大丈夫か、と思っていた矢先だった。
突然家に押しかけてきた高久に犯された。
俺は嫌で嫌で仕方なかったのに、俺を犯した次の日からまるで恋人同士のようにべたべたするから、学校にもすぐバレた。
なのに、俺は教職を追われてまともな職にもつけなくてコンビニでバイトをして日々暮らしているというのに、高久は当然のように俺の生活に土足で上がりこんでくる。
否、高久さえいなければ今の生活は結構気に入っている。
高久さえいなければ。
「ねえ、お湯沸いたよ」
いつのまにか考え事に沈んでいたのだろう。ふと気づくと高久が台所に入り込んできて、ガス台の上でしゅんしゅんと湯気をたてているやかんを指差し、コンロの火を消した。
ガス台の前に立っていた俺は自然高久と並ぶことになり、その、体温すら感じられる距離に身じろいで距離をとろうとする。
高久の腕が俺の腕を掴み、みぞおちのあたりで高久は手を組む。俺は腕ごと高久に囚われた。
「博隆さん」
ほぼ身長の変わらない高久の声が、首に落ちる。声と同時に、唇が首に触れ、熱い舌が皮膚を舐めた。
「……学校行け、受験生」
「大丈夫、俺頭良いから、志望校も合格判定ライン超えてるし」
「博隆さん、やらせて」
◇ ◇ ◇
朝飯になるはずだった弁当は高久の昼飯になり、制服を脱いだ高久はトランクスと学校指定のワイシャツだけを羽織って、俺のDVDラックを漁って、この前自分で持ってきた映画を見始めた。ロリータの、新しい方だ。後で見ようと言っておきながら結局その日はセックスだけで終わってしまって、ラックに放り込んだまま俺も存在を忘れていた映画。
見るともなしに画面を見ながら、だるくてしょうがない体を、けれどなおざりに拭かれたままでは気持ちが悪くて仕方ないからバスルームまで行かなくては、と無理矢理起こそうとしながらけれど実際には起き上がるのも無理なほど疲れきった体をもてあましながら、俺は、こんな映画は好きじゃないなと思った。
映画はまだ始まったばかりだが、昔、原作を一度読んだ、映画が原作に忠実なら、少女はやがて被害者から加害者になる。哀れな中年男は少女に翻弄され、捨てられる。そうでありながらやっぱり少女はどうしようもなく被害者なのだ。
まるで自分と高久の関係を捻って見せられているようで、苛々する。
そんなとき、高久が言った。
「俺この映画すげえ好きなんだよね。ほら、大人になったロリータが昔の男に言うじゃん『あなたを愛したことは一度もないわ』って。信じられねえ、こんな貧乏しててさ、昔の男が金も車も全部やるって言ってるんだから口先でくらいサービスしてやりゃあいいのに。でも言い切っちゃうんだよな」
そう言って、振り向いて俺を見た高久の色素の薄い目は、やさしそうにも酷薄そうにも見える。
馬鹿だなと思った。
その女はいつか来るお前の姿だよ。
「先生、風呂用意出来てるよ。連れて行ってあげるよ」
「自分で行く」
「行けないだろ? なんでいつもそんなに意地悪なのかね。後始末もさせてくれないし、優しくさしてくれないよね」
それは、俺が『加害者』でお前が『被害者』だから。
一年前さんざん叩き込まれたレッテルを武器に、俺はこの関係に線を引こうとしている。
大人のずるさだ。
名前は呼ばせないし呼ばない。電話もメールもこちらからは絶対にしないし、めったなことで返信もしない。
それでこいつが呆れて離れていくのを待っている。
距離は絶対に縮ませないし、だからセックスの後も何もさせない。
「先生辛そうだよ、風呂行こう」
「いらない。余計なことをするな」
「余計なことじゃないよ」
ぐい、と体を起こされて風呂場に連れて行かれる。もつれる足はほとんど用をなしていないが、高久は俺の体重を抱えてもよろけることもなく風呂場まで連れてきた。
中まで入ろうとするのを今度こそ押し留めて、そんな俺を高久はまだ高校生のくせに、仕方ないなあとでもいうような大人びた苦笑で見て、「倒れそうになったら呼んでね」とまた映画に戻っていった。
まだ力の入らない体で風呂に入り、暖かい湯に体が弛緩するのを感じる。
不意にするすると涙が零れ落ちた。体の筋肉と一緒に顔の筋肉も弛緩したんだ。そんなことを考えながら、するすると伝う涙を風呂の水に落としこむ。
合意はなかった、強姦されたのだと何度も何度も訴えた。
その言葉に嘘は無かったけれど、保身がなかったなどとどうして言えるだろうか。
俺は高久に惹かれていた。それ以上に、容姿に優れた高久がどうやら自分を慕ってくれていると、恋慕を抱いているようだと知って、優越感を覚えた。彼の好意に気づかない振りをして、あくまで教師と生徒だとラインを引いて、けれど時々そのラインをわざと飛び越えさせてラインをあいまいにして、彼の目に宿る思慕を心地よく感じていた。
関係を持つことなど考えていなかった。上手くあしらえるだろうと思っていた。
慢心に、足元を掬われた。
けれども、俺と同じく学校にいられなくなった高久が転校し、それでも連絡を取り続けてきたことを嬉しく思い、彼に住所を教えたのは自分だ。
俺は高久を好きだ。
けれどいつか高久は俺を厭い、離れていくだろう。当たり前だ、二十歳近くも年上の、四十に近い男を、今は若さゆえの思い込みで好きだと言っていても、やがて大学に入り、会社に入れば世界はぐんと広がる。
やがて高久は自分がなんでこんな男を好きだと思っていたのかと疑問を持つ。
そして離れていくだろう。
その日のために、俺は『加害者』で、あいつは『被害者』でなければならない。
俺に情を残してはいけない。
『あなたを愛したことは一度も無いわ』
いつか言われるだろう言葉が胸に突き刺さって痛くて、俺は風呂の中でぼろぼろと泣いた。