率直な
浅野はパソコンの前で今日のストリートスナップを整理していた。モニターの光が、活気に満ちた彼の顔を照らしている。彼はふと振り返り、ベッドの端でぼんやりとしている彩静を見て、温かい微笑みを浮かべた。
「彩静、日曜日にランチに行かない? 前に君が勧めてくれたあの五星級レストラン。ちょうど『ラッキー顧客』の抽選案内が届いてさ、専用のコースがあるんだって」
浅野はスマホを軽く振り、期待に満ちた眼差しを向けた。
「最近、バイトですごく大変そうだったし、ゆっくりリラックスしに行こうよ」
彩静の心臓が激しく脈打った。この世界の「抽選」や「偶然」が、監視下において決して偶然ではないことを彼女は知っている。背後で誰が動いているのかは分からないが、不穏な気配が近づいているのを感じていた。
断ろうと思った。しかし、浅野のあの濁りのない、無防備な瞳を見て、言葉が喉に詰まった。避けるよりも、この最後の静寂を噛み締めるべきではないか。
「……うん、いいよ。日曜日、一緒に行こう」
彩静はうつむき、静かに応じた。
だが心の中では、拳を握り締め、誓いを立てていた。
(これ以上は延ばせない……せめて今月中に、すべてのこと、私の正体、私の住む世界を、全部彼に話そう。たとえ……それが二度と会えなくなる最後の日になったとしても)
【土曜日 深夜:ZERO-DELAY 本部地下サーバー室】
彩静は人目を避け、再び零の端末の前にいた。
「零、お願いがある」
彩静の瞳には異常なまでの決意、あるいは脅迫に近い光が宿っていた。
「日曜日のレストラン周辺の異常信号をすべて監視して。何が起きても、あの二時間だけは、私の『平凡な人間』としての身分を維持させて」
「青……君はAIに真実の隠蔽を求めているのかい?」
零のホログラムは眼鏡を押し上げ、レンズに無数の演算パスを走らせた。
「最高効率の原則には反するが、前回のミスの貸しもある……不必要な干渉はフィルタリングしてあげよう。だが忘れないで、火のないところに煙は立たないものだよ」
「分かっているわ」彩静は冷ややかに言った。「だからその後に、私自身の手でその幕を切り裂くの」
【日曜日 午後 13:00:レストラン外】
浅野は清潔なシャツに身を包み、爽やかな印象を与えていた。レストランの入り口でカメラを手に、彩静を待っている。
彩静は、浅野が一番好きだと言ってくれた白いワンピースを着ていた。風に揺れる裾は、どこから見ても清純な女子大生そのものだ。しかし、その軽やかな生地の下、太ももには黒いタクティカルガンのホルダーが隠されていた。
「彩静! こっちだ!」
浅野は嬉しそうに手を振り、足早に駆け寄ってきた。
彼は自然に彩静の手を取り、その指先が僅かに冷えているのに気づくと、そっと握る力を強めた。
「手が冷たいね……エアコンが強すぎるかな?」
浅野は彼女を覗き込み、慈しむような視線を向けた。
「中に入ったら温かいものを飲もう。今日のランチは僕の奢りだ。『バイト』が一段落したお祝いだよ」
彩静はその眩しい笑顔を見て目元が熱くなったが、心はナイフで抉られるように痛んだ。彼女は必死に恥ずかしそうな微笑みを作り、頷いた。心の中で、自分自身に語りかける。
(浅野君……ごめんなさい。これから起きることを、どうか許して)
レストランは摩天楼の高層階にあり、一面の窓からは東京の繁栄した街並みが一望できた。午後の陽光は特殊なガラスに濾し取られて柔らかく、真っ白なテーブルクロスの上に夢のような光の輪を落としている。
席の配置により、二人は向かい合うのではなく、窓際のロングソファに肩を並べて座っていた。その距離は、お互いの気配を感じ取れるほどに近い。浅野の漂わせる石鹸の清々しい香りと、彩静の髪から微かに香る花の匂い。
「ここは本当に眺めがいいね」
浅野はそう言いながら、自然に彩静の手元のカトラリーを受け取った。
彼は極めて優しく、手慣れた動作で彩静のためにナプキンを敷き、切り分けた料理を彼女の前に置いた。その一つ一つの動作はあまりに当たり前で、まるで彩静を世話することが彼の本能であるかのようだった。
「ありがとう……浅野君」
彩静は小さな声で言い、耳の付け根を赤く染めた。
彼女は浅野の横顔を見つめた。陽光の下で、彼はあまりに純粋に、そして格好良く笑っている。これは平凡な大学生が与えられる、究極の優しさだった。彩静はフォークを握る手を強め、窓の外に目を向けた。足下の街は模型のように小さく、彼女が普段潜伏し、戦い、血を流しているストリートは、このレストランの雰囲気の中では信じられないほど穏やかに見えた。
(もし時間がこのまま止まってくれたら……)
彩静の心に酸っぱい痛みが走った。引き金を引き、銃を解体することに慣れきったこの手が、今は浅野の温かな大きな手にそっと包まれている。
「彩静、もっと食べて」
浅野は彼女の耳元に顔を寄せ、低く心地よい声で囁いた。
「最近、また少し痩せたんじゃない? バイトが忙しすぎるのかな。もし辛かったら、いつでも僕に言ってね」
「うん……分かったわ」
彩静は素直に頷き、浅野の肩にそっと頭を預けた。
この一時間、そこにはZERO-DELAYも、狙撃任務も、殺気立った「青」もいなかった。彼女はただ、格好いい彼氏に愛され、恥じらいながらも幸せを感じている一人の少女だった。二人は寄り添い、皿の上の美食を分かち合い、窓の外を流れる雲を眺めていた。
しかし、彩静の視線が、ビル群に隠れたあの黒い鉄道軌道を通るたび、彼女の瞳は不器用なほどに曇っていった。あの軌道は地底へと続き、彼女が逃れられない宿命へと繋がっているのだから。
夕陽が東京のスカイラインを鮮やかなオレンジ色に切り取り、屋上の風が彩静の髪をなびかせ、二人の間に漂う言葉にできない沈黙を揺らしていた。
二人は手を繋いで柵のそばまで歩いた。指先から伝わる体温だけが、今の彩静を支える唯一の柱だった。彼女は足を止め、振り返り、浅野の胸に掛かったカメラを見つめた。その声は風のように儚かった。
「浅野君……一枚、撮ってくれる?」
浅野は僅かに驚いたが、すぐに温かい笑みを浮かべた。「もちろん」
彼は慣れた手つきでカメラを構え、フォーカスを合わせた。ファインダー越しに、彩静は夕映えが最も濃い場所に立っていた。
それは浅野のカメラマン人生の中で、最も美しく、そして最も切ない一枚だった。
画面の中の彩静は、雪のような白いワンピースが夕陽に染まり、鮮烈なオレンジ色を帯びていた。裾が風に舞い、まるで暮れなずむ空に散りゆく白い花のようだ。ブラウンのポニーテールが幾筋か解け、華奢な鎖骨のあたりに垂れている。
何より心を打つのは、その表情だった。普段は冷静、あるいは恥ずかしげなあの瞳が、今はレンズを見つめながらも、どこか遠く、決して届かない終着点を見ているかのようだった。瞳の中には極限の優しさと、深い哀しみが交錯し、唇の端は僅かに弧を描いていた。浅野に贈る最後の、完璧な微笑みのために。
落日の余暉が彼女の背後ではぜ、光の輪が彼女の輪郭をぼかしている。光が消えれば夜の闇に溶けてしまいそうな、半透明の幻影のように見えた。
「カシャッ!」
シャッターの切れる音が、静まり返った屋上で不気味なほど鋭く響いた。
浅野はカメラのモニターを確認し、指先を微かに震わせた。この写真はあまりに美しすぎた。実在する人間とは思えないほどに。
彩静は何度も深呼吸をし、胸を突き破りそうな鼓動を鎮めようとした。肺の中の空気が熱くなっていくのを感じる。それは、長く抑え込んできた真実が、今まさに溢れ出そうとしている兆しだった。
彼女は、遠くの景色を眺めながら微笑んでいる浅野を見た。彼はあまりに無垢で、太陽の光が降り注ぐ世界にふさわしい存在だった。そして彼女は、もうこの「平凡」という名の仮面を維持する限界に来ていた。
「あの……ね、健二」
彩静は珍しく呼び方を変えた。「浅野君」ではなく、彼の名前を静かに呼んだ。
浅野の身体が僅かに強張った。彼は、彩静の声に含まれたかつてないほどの決意と震えを、鋭敏に感じ取った。彼はゆっくりと振り返り、彩静を見た。夕陽の残光が彼の瞳に落ち、複雑な影を落としている。
「うん? どうしたの?」
浅野の声は相変わらず優しかったが、その微笑みはもう、目の奥までは届いていなかった。彼は漠然と感じていた。この穏やかなランチデートが、地平線へと沈んでいく太陽と共に、取り返しのつかない終わりへと向かっていることを。
彩静はうつむき、片手でワンピースの生地を強く握りしめた。指の関節が白くなるほどに。屋上の風が突然強まり、彼女の声を粉々に砕いたが、それでもその言葉は、はっきりと浅野の耳に届いた。
二人の影は、夕陽によって長く、しかし徐々に分かれていく二本の黒い影として伸びていた。
彩静の細い指先が浅野の手のひらを滑り、彼女は自ら、唯一の温もりを離した。
まるで何かに突き動かされるように、足取りを覚束なくさせながら数歩後ろへ下がり、二人を引き裂くような距離を作った。付き合い始めてからというもの、彩静はいつも甘えん坊な子猫のように彼に寄り添っていた。そんな彼女が見せた意図的な疎外感に、浅野の心は一気に沈み込んだ。
彩静は頑なにうつむいたままだった。ブラウンの長い髪が彼女の表情を隠していたが、微かに震える肩だけが、内心の激しい動揺を物語っていた。
「聞いて……くれる? お願い」
彼女の声は砂紙のように乾き、縋るような震えを含んでいた。
「いいよ」
浅野はその場に立ち尽くした。手のひらには彩静の体温がまだ残っているが、その瞳は不安に満ちていた。
彩静は深く息を吸い込み、全身の力を振り絞るようにして、かつて彼と指を絡め、彼の頬を優しく撫でたあの両手をゆっくりと掲げた。夕陽の下で、その手は格別白く、透明に見えたが、同時にぞっとするような死の静寂を纏っていた。
「この手は……毎日、人を殺しているの」
浅野は絶句した。顔の表情は、まだ消えやらぬ優しい微笑みの形のまま凍りついた。
「……? 何を……言ってるんだい?」
彩静は顔を上げた。唇には自嘲的な笑みを浮かべていたが、瞳に光はなかった。
「時々、街を駆け巡って、夜中にも呼び出されるあの『バイト』……その正体は……」
彩静の瞳がかつてないほど鋭くなった。それは戦場で「青」と呼ばれる者の瞳だった。
「私たちは街の掃除人。犯罪者や殺人鬼が現れるたびに、それを処理するのが仕事。そして私は……狙撃手なの」
「彩……彩静、本気なの? ……漫画の読みすぎだよ、そんなの」
浅野は乾いた笑い声を上げ、その荒唐無稽な理由で崩壊しゆく世界を繋ぎ止めようとした。「そんなこと、あるわけ……」
彩静は何も答えなかった。
彼女は細い手を伸ばし、浅野の驚愕の視線の中で、白いワンピースの裾をゆっくりと捲り上げた。そこには、太ももに固定された特製のタクティカルホルスターがあった。
彼女の動作は熟練しており、冷徹で、迅速だった。そこから漆黒のオートマチック・ハンドガンを抜き放つ。
「ガチャッ!」
金属のぶつかる音が、静まり返った屋上で心を引き裂くように響いた。彩静は浅野の前で、平時と変わらぬ様子で装填を完了させた。
そして、屋上の隅にある石造りの装飾柱に銃口を向け、引き金を引いた。
「プシュッ――!」
高性能な消音器を通した音は、短いため息のように小さかった。石柱には瞬時に弾孔が穿たれ、石片が飛び散り、静かな空気の中に微かな火薬の匂いを残した。
それは現実の匂いであり、死の匂いだった。
「これは、嘘じゃないわ」
彩静は銃を握っていた。その手は微動だにせず、瞳は灰のように冷え切っていた。
「**『青』が私のコードネーム。**これが君のそばに隠れていた、本当の私よ」
夕陽の最後の一片が地平線の向こうへ沈み込み、屋上は灰色に冷え込んだ色調に包まれた。
浅野は脳が瞬時に高電圧で撃たれたような感覚に陥り、耳鳴りが止まなかった。彼は、自分が世界で一番幸運な写真学科の学生だと思っていた。ごく平凡な喫茶店で、最も純粋で守るべき少女に出会ったのだと。
あのベッドで彼女を抱きしめ、光に満ちた未来を誓い、結婚して幸せに暮らす姿さえ想像していた。
だが、今、彼は気づいた。自分が自らの手で、影の中に生きる人殺しを家に連れ帰っていたのだということに。
浅野の脚から骨が抜けたようになり、身体は重く、無力に冷たい柵に寄りかかった。金属の冷たさが脊髄まで浸透していく。
「彩静……それ、本気で……言ってるの?」
浅野は、あの漆黒の、火薬の匂いを漂わせる銃口を見つめた。声は空洞のように響き、答えを知りながらも、最後の一筋の藁をも掴もうとするかのような問いを発した。
「ええ……本当よ」
彩静の銃を握る手は僅かに下がったが、執行官「青」としての冷徹な気配は消えなかった。
浅野は目を閉じた。脳裏に無数の断片が駆け巡る。いつも冷たかった彼女の手、異常なまでに鋭かった感覚、ある日の深夜、シーツの上から消えていた体温……そして、彼の腕の中で愛の言葉一つに顔を赤らめていた、後藤彩静。
「それじゃあ……彩静、君は僕に……まだ何か隠していることはある?」
浅野は目を開けた。その瞳には砕け散った星のような光が宿っていた。この夢のうち、どれほどの部分が真実だったのかを知りたかった。
「もう……何もないわ、浅野」
彩静の唇が震え、殺し屋としての冷酷さが崩れ、無力な二十歳の少女へと戻っていった。
「こんなに長く隠していて、ごめんなさい。今日……本当に楽しかった。私、ずっとこのままふり(・・)をしていられると思っていた……」
時間はその瞬間に静止したかのようだった。風の音、遠くの車の流れ、二人の鼓動さえ消えてしまった。彩静は深く息を吸い込み、魂の最後の一滴までを吐き出すように、何度もシュミレーションしながらも決して直視できなかった結末を口にした。
「あなたの安全のために……明日……私はあなたの前から去るわ」
その言葉を口にした瞬間、氷のように冷たかった彩静の瞳は、瞬く間に涙で潤んだ。涙が溢れそうになるが、彼女の頑固な性格がそれを許さず、必死に堪えていた。
彼女は彼と日常を語り、平凡を語り、レモンティー店の些細な出来事を語りたかった。だが、組織の監視の下、璟中司令の注視の下では、すべてが許されない「我が儘」だった。浅野をこの深淵に巻き込まないために。それが、彼女が与えられる唯一の、そして最も残酷な優しさだった。
二人の姿は、深まりゆく夜の中で、完全に二つの孤島と化した。
彩静の「あなたの前から去るわ」という言葉が、重い弔辞のように空中に漂っていた。彼女は恐怖され、嫌悪され、あるいは怒りを持って拒絶される覚悟をしていた。背を向けた後、自分の中にある「浅野健二」という記憶を、脳のコールドゾーンに永久に封印する準備さえできていた。
しかし、予想していた拒絶は起きなかった。
「――!」
浅野の心臓は激しい衝撃の後、自分でも説明のつかない熱狂を爆発させた。彼は彩静を見つめた。冷酷無比であるはずの彼女の瞳が、今は涙で溢れているのを見た。それは「青」の瞳ではなかった。彼が深く愛した、あの恥ずかしがり屋で不器用な少女の涙だった。
彼はなりふり構わず、駆け出した。
目の前の人間が優しい彩静であろうと、冷血な執行官「青」であろうと関係なかった。
自分が抱きしめるのが温かな魂であろうと、死をもたらす殺戮兵器であろうと構わなかった。
彩静の手が、今しがた石柱を砕き、火薬の匂いを放つ銃を握っていようとも、彼はためらわなかった。
「ドンッ!」
浅野は彩静の懐に飛び込み、両腕に全身の力を込めて、死に物狂いで彼女を抱きしめた。顔を彼女の肩に埋め、激しく呼吸する。彼女の纏う冷たい硝煙の匂いを、自分の体温ですべて塗り潰そうとするかのように。
「……?!」
彩静は全身を硬直させた。銃を握る手は無力に横に垂れ、冷たい金属の感触が浅野の背中に触れているが、浅野は微塵も動じなかった。
「あさ、浅野君……何をしてるの……離して、言ったはずよ、この手は……」
「関係ない!」浅野は彼女の耳元で唸った。声は震えていたが、揺るぎない確信に満ちていた。
「君が狙撃手だろうが掃除人だろうが……コードネームが青だろうが赤だろうが……!」
彼は僅かに腕を緩め、両手で彩静の肩を強く掴んで、真っ赤になった自分の目を直視させた。
「ソファで一緒に本を読んだのは君だ。雨の中で恥ずかしくて僕を見られなかったのも君だ。さっき料理を取り分けてくれたのも君だ! 後藤彩静……銃一丁出したくらいで、僕が君に抱いている想いをすべて消し去れると思ってるのか!?」
彩静は彼を見た。張り詰めていた「執行官」の仮面が、浅野のこの理不尽なまでの愛の告白によって、音を立てて砕け散った。
「でも、あなたを死なせてしまう……浅野君、私は化け物なの……ずっと騙し通せると思っていたのに……」
「なら、ずっと騙し続けてくれよ!」浅野は再び彼女を抱き寄せた。今度はさらに強く、彼女を自分の命の中に練り込むかのように。
「ここが地獄だと言うなら、僕も一緒に地獄にいてやる。明日は行かせない……どこへも行かせないぞ」
涙が遂に溢れ出した。彩静の手から銃が零れ落ち、屋上の地面に鈍い音を立てて転がった。彼女は堪えきれず両手を伸ばし、浅野の背中のシャツを必死に掴んで、声を上げて泣いた。
夕陽の最後の一片が完全に消え去り、屋上は深い藍色の帳に包まれた。
浅野はゆっくりと腕を緩めたが、一歩も退かなかった。彼は地面に落ちた、死と断絶の象徴である漆黒のハンドガンを見下ろした。恐怖はなかった。ただ静かに腰を落とし、その重い武器を拾い上げると、傍らの石段の上にそっと置いた。まるでデートを邪魔する、ただの落とし物であるかのように。
そして彼は再び向き直り、涙で汚れ、驚愕と脆さに満ちた彩静の小さな顔を、大きな手で優しく包み込んだ。
「彩静……僕を見て」
彩静は震えながら顔を上げた。ブラウンの瞳には砕け散った星のような光が宿っていた。この手は拒絶と恐怖しか生まないと思っていたのに、浅野は再び彼女の手を取ったのだ。
浅野は、かつて引き金を引き、硝煙にまみれたその手を取り、慈しむように指の関節に口づけを落とした。そして腕を伝って上がり、最後には、震える彩静の唇に、優しく、しかし確固たる意志を込めてキスをした。
重なった瞬間、二人は共に涙を流した。
それは苦しみに満ち、しかしこの上なく熱いキスだった。
浅野の涙が頬を伝い、彩静の冷たい涙と混じり合った。そのキスに情欲はなかった。あるのは、破滅的なまでの優しさと救済だけだった。浅野はそのキスで伝えていた。たとえ君が影の中を歩む「青」であっても、たとえその手が命を奪ってきたとしても、君は僕が守り、生涯を共にしたい女の子なんだ、と。
彩静は目を閉じ、浅野の唇から伝わる熱を感じていた。その熱は強烈な光となって、長年閉ざされていた彼女の心の荒野を隅々まで照らし出した。魂が震えていた。二十年の人生で初めて、自分の最も醜く暗い部分を知った上で、抱きしめてくれる人が現れたのだ。
この瞬間、ZERO-DELAYの原則も、司令の脅しも、狙撃手としての宿命も、すべてが消失した。
屋上には寄り添い合う二人の影と、夜風に混じり、砕けながらも再生していく泣き声だけが残されていた。
【深夜:浅野の家】
家に戻った二人は、気持ちをいくらか落ち着かせていたが、空気の中には「一蓮托生」というべき重々しさが漂っていた。
浅野はソファに座り、今も彩静の手を離さずにいた。まるで手を離せば彼女が消えてしまうのを恐れるかのように。そしてあの漆黒の拳銃は、今は静かにサイドテーブルの上に置かれている。
「浅野君……」彩静は彼の肩に寄りかかり、掠れた声で言った。「本当に……怖くないの?」
浅野は天井を見上げ、自嘲気味に笑った。「怖いよ、死ぬほどね。でもそれ以上に、明日目が覚めて、隣に君の温もりが無いことの方が怖いんだ」
彼は向き直り、いくらか生気を取り戻した彩静の瞳を見つめ、真剣な口調で告げた。
「君がその世界を離れられないなら、僕がその世界を理解しよう。君がこの家に帰ってきたいと思ってくれる限り、僕はいつまでも待っているから」




