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ZERO-DELAY  作者: WE/9
ZERO-DELAY:平凡なリズム

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97/102

準備はできている

深夜の街は静寂に包まれ、窓を叩く微かな雨音だけが響いていた。


後藤彩靜ごとう あやせの寝室では、薄いカーテン越しに月光が差し込み、少し広すぎるベッドを照らしている。彩靜は薄いキャミソールのシルク製パジャマ一枚を身に纏い、白い肩と繊細な鎖骨が月光の下で潤んだように光っていた。


彼女の細い体は布団の中で何度も寝返りを打ち、柔らかいマットレスがその動きに合わせて微かな摩擦音を立てる。しかし、そのブラウンの瞳は冴え渡り、眠気は微塵も感じられない。


(……まだ、熱い。)


彩靜は無意識に指先を伸ばし、自分の唇にそっと触れた。そこにはまだ、午後の東屋で感じた浅野の熱く、強引で、それでいてこの上なく優しい体温が残っているようだった。氷を溶かすようなあの鼓動は、さざ波のように広がり、今も彼女の胸を揺さぶっている。


「アイスブレイク」に成功し、二人は指を絡ませ、未来の約束まで交わした。けれど、その甘さはまるで砂浜に築いた城のように、どこか虚無感と不安を彼女に抱かせた。


「君の初めてを奪っちゃったから、君の未来……僕が予約したからね!」


浅野の冗談めかした約束が耳元でリフレインする。彩靜は布団の端をぎゅっと握りしめ、顔の半分を枕に埋めた。


(浅野君……もし、あなたが予約した未来が、毎日死と隣り合わせで、いつトンネルの中に消えてもおかしくない狙撃手のものだと知ったら……それでも、あんなに眩しく笑ってくれる?)


それが、今の彼女にとって最も深い恐怖だった。


「後藤彩靜」という平凡な大学生を演じ続けていれば、この温もりを貪り続けられると思っていた。しかし、想いが深まるにつれ、「日常」と「戦場」を隔てる壁は薄くなっていく。彼を騙したくはない。けれど、彼を失うことはもっと怖い。


ZERO-DELAYの冷酷な教育の中で、平凡な人間にどうやって真実を打ち明けるべきかなど、一度も教わってこなかった。


(もし伝えたら……彼は危険に巻き込まれる? それとも、嫌悪や恐怖に満ちた目で私を見るようになるの?)


そう思うと、彩靜の心臓が不意に鋭く痛んだ。彼女は震える小さな動物のように体を丸め、深夜の静寂の中で孤独と無力感に包まれていた。


その時、枕元の戦術用スマホが微かに光った。任務の通知ではない。浅野から届いたばかりのメッセージだ。


『まだ起きてるかな? 離れて数時間しか経ってないのに、もう君が恋しいよ。おやすみ、彩靜。』


画面に浮かぶ温かな文字を見て、彩靜の目尻が熱くなった。震える指で二文字だけ打ち込もうとしたが、送信する前にすべて消してしまった。


結局、彼女はただ枕を抱きしめ、月光の下で誰にも聞こえない溜息を漏らすことしかできなかった。


翌朝の本部は、昨夜の彩靜の悩みとは対照的な、冷たく硬質な金属感に満ちていた。


彩靜の目の下には薄い隈ができている。昨夜の失眠が、彼女を憔悴させていた。彼女は一人、誰もいない整備室へ入り、巨大なメインモニターの前に立った。深呼吸をして、ブラウンの瞳に迷いを宿しながらも、静かに声を出す。


ゼロ……? いる? 聞きたいことがあるんだけど。」


モニターが瞬時に点灯し、無数の青いデータ流が数秒で収束した。画面には、白いスーツに細いフレームの眼鏡をかけ、礼儀正しくも冷ややかなユーモアを湛えた青年のホログラムが現れた。


セイ、ここに。いつでもサービスを提供しますよ。」


零は眼鏡のブリッジを押し上げ、平坦な、それでいてどこか揶揄うような余韻を含んだ声で言った。「この時間に私を訪ねるとは。エグゼクティブの健康管理の問題ですか? それとも……最近変動の激しい感情の問題ですか?」


彩靜の心臓が跳ねた。彼女はまだ知らない。東屋での「ビッグデータ」はすでに零に捕捉され、心拍数の変動すら分析レポートにまとめられていることを。


「本当に、感情に関係することなんだけど……」彩靜は拳を握りしめ、自分を奮い立たせるように大きな声で言った。「零、私、彼氏ができたの!」


言い終えた瞬間、彩靜は毒の抜けた風船のようにしぼみ、顔を真っ赤にした。零から「組織の規定違反だ」という警告や、戦術的リスクの評価が下されるのを覚悟していたのだ。


「ほう?」零のバーチャルイメージが眉を上げ、絶妙な驚きの表情を見せた(彼のデータベースには浅野健二の血液型まで入っているというのに)。


「それは確かに、ビッグデータの予測範囲外の驚くべき進展ですね。」


「彼……平凡な大学生なんだけど、すごく優しくて、かっこよくて、写真の勉強をしてて……」彩靜は語るうちに何かに気づき、慌てて手を振った。「あ、ちょっと待って! このことは……司令には報告しないで! お願い、零!」


司令官――神宮寺司がこのことを知れば、どれほど恐ろしく、愉悦に満ちた笑みを浮かべるか想像もしたくなかった。


慌てふためく彩靜の姿を見て、零はバックグラウンドで自動送信されそうになっていた心理モニタリングログを数件インターセプトした。顔は相変わらず優雅で冷ややかなままだ。


「ご安心を。エグゼクティブのプライベートは、離反のリスクがない限り、ビッグデータには集約されません。」


零の声は相変わらず淡々としていたが、その瞬間の彩靜には大きな安心感を与えた。


整備室の照明は少し冷たく、彩靜の細い影を長く伸ばした。彼女はうつむき、両手をきつく組んで、震える声を出した。


「零、続きを聞いて……。さっき言った通り、彼は普通の人間なの……。彼の瞳に映る世界は写真やキャンパス、光に満ちた日常。でも私……私の世界は照準器と鮮血だけ。自分の正体をどう扱えばいいのか分からない……零、お願い……助けて?」


モニターの中の零は、静かに彼女を見つめていた。彼はコードで構成されたAIだが、この瞬間、組織に育てられ、冷徹な仮面の下に純真さを隠した少女が泣きじゃくる姿を見て、プロセッサーに数マイクロ秒の「同情」に似たシミュレーションが走った。


「前、みなと先輩が言ってた。浅野君には受け止める力があるって……」彩靜の声は自嘲気味に小さくなった。「でも、どう切り出せばいいのか分からない。怖いんだ……」


彩靜は言葉を切り、透明な涙が頬を伝って冷たい床に落ちた。


「怖いんだ……。彼が私から離れていくのが。」


その言葉が出た瞬間、空気が凍りついた。任務の失敗でも、負傷でもない。二十歳の少女が愛する者を失うことへの極限の恐怖。彼女にとって、浅野健二はこのリアルで温かな世界と繋がる唯一の絆だった。


零は眼鏡を押し上げ、レンズに複雑なデータが走った。彼はすぐに最適解を出すのではなく、かつてないほど穏やかな口調で言った。


「青。私の演算によれば、『真実を話すこと』で関係が破綻する確率は存在しますが、『最後まで隠し通すこと』で悲劇が起こる確率は100%です。」


零のホログラムが少し身を乗り出した。「あなたが恐れているのは、彼の選択です。しかし信じるべきです。冷却期間の後、自ら公園へ誘ったあなたに応えた男は、あなたの想像を超える強さを持っているかもしれません。人間の感情は、ビッグデータにおいて最も不合理で、かつ最も強力な変数ですから。」


彩靜は顔を上げ、涙の滲んだ目でモニターを見た。「本当に……? 彼は私を怖がらない?」


「少なくとも昨日、あなたの冷たい手を引いたとき、彼は離しませんでしたよ。」零は淡々と付け加えた。「『段階的正体開示計画』を策定しましょうか? 私の職務外ですが、特例です。」


彩靜は涙を拭い、ふっと微笑んだ。「ありがとう、零。あなたって本当に……ロボットじゃないみたい。」


主控室を出る瞬間、彩靜の顔から涙痕と脆さが消え失せ、瞳には再び剃刀のような鋭さを持つ「青」のモードが戻った。


しかし、廊下を通りかかったところで、一人の人影が彼女の行く手を阻んだ。分厚い丸眼鏡を押し上げ、暗号化された書類を抱えたその女性は、彩靜が組織内で数少ない心を許せる存在だった。二人の縁は大阪支部から始まり、当時は共に組織に馴染めず怯えていた内向的な少女同士だった。


「青……いえ、彩靜。」


彼女は静かに呼んだ。規律の厳しいZERO-DELAYにおいて、唯一、彩靜を本名で呼ぶことが許されている人物――**櫻子さくらこ**だ。


櫻子は彩靜の目尻の僅かな赤みを見逃さなかった。何も言わず、ただ彩靜の袖を引き、本部の奥にある自分の私室へと連れて行った。


部屋は極めてシンプルだが、棚に並んだ情報エンコードの書籍が生活感を感じさせる。櫻子は彩靜を座らせ、温かい麦茶を出した。狭い空間に沈黙が流れる中、櫻子は親友を見つめ、静かだが確信に満ちた声で切り出した。


「彩靜、あなた、彼氏ができたでしょ?」


「ブッ……げほっ、げほっ!」


彩靜は飲み込んだばかりの茶を吹き出しそうになり、慌ててカップを置いて顔を真っ赤に染めた。


「さ、櫻子! 何を言って……どうしてあなたまで……」


「隠しても無駄よ。データは司令に隠せても、私の目は誤魔化せないわ。」櫻子は優しく微笑んだ。「大阪の頃から見てるけど、今のあなた、自分でも気づかないくらい蕩けるような優しい目をしてるもの。恋してる女の子特有の、スマホを見てぼーっとしてる時のあの感じよ。」


彩靜は秘密を暴かれた風船のように肩を落とし、顔を両手で覆った。「……そんなに、バレバレ?」


「バレバレよ。それで、どんな人なの? 大阪支部最強の天才狙撃手を、こんな風に変えちゃうなんて。」


彩靜は櫻子には隠しきれないと悟った。しかし、正体を明かす前に、彼女の狙撃手としての本能が少女の心を上書きした。


「櫻子……話す前に、約束して。」


次の瞬間、彩靜の瞳から光が消え、任務中よりも冷酷な殺気が部屋を支配した。電光石火の速さで、彼女の右手には漆黒のタクティカルガンが握られ、その銃口は櫻子の眉間を正確に捉えていた。それは恥ずかしがり屋の少女ではなく、廃墟で命を刈り取る「青」の姿だった。


「命を懸けて誓って。これから聞くことは一文字たりともビッグデータに流さず、司令にも零にも話さないと。でなければ……私の弾が外れないことは知ってるわね。」


櫻子はその圧倒的なプレッシャーに息を呑んだ。親友であっても、彼女の狙撃の腕は誰よりも知っている。櫻子は震えながら手を挙げ、真っ直ぐに彩靜を見た。「誓うわ。漏らしたら、あなたの手で殺して。」


覚悟を確認した彩靜は、銃を収めると同時に、顔を真っ赤に染めて椅子に縮こまった。


「……ごめんね、櫻子。この関係を失うのが、本当に怖くて。彼は普通の大学生、浅野健二君。湊先輩の店で出会って、それから……付き合うことになったの。」


櫻子は胸を撫で下ろし、再び八卦(野次馬)の魂を燃やした。「付き合ってどのくらい?」


「も、もうすぐ一ヶ月。」


「手は繋いだ?」


「……うん。」


「じゃあ……キスは?」


彩靜は三秒黙り、雨の東屋での甘いキスを思い出して、蚊の鳴くような声で「……うん」と答えた。


櫻子は眼鏡を光らせ、最後の爆弾を投下した。「Hは?」


彩靜は頭から湯気が出そうなほど赤くなり、掌を汗ばませた。あの混乱と快感に満ちた夜。浅野が残した紅い痕跡。魂が掻き乱されるような感覚。「……した、と思う。」


「……!?」


櫻子は驚愕した。あの氷山のような、男が近づけば殺気を放つような「青」が、平凡な大学生に完落ちしているなんて。


「彩靜……その彼、命知らずね……。いえ、それだけあなたを愛してるってことなのね。普通なら逃げ出してるわよ。」


櫻子は彩靜の身体を凝視した。情報部としての鋭い観察力が、数日前の更衣室で見た違和感を思い出させた。彩靜が異常に早く着替えていたが、その隙間に見えた首筋の淡い紅。


「彩靜! 服を脱いで! 今すぐ!」


「はあ? な、何言ってるのよ櫻子、落ち着いて……」


「いいから脱いで! あなたの『健康管理』の評価に関わるんだから!」


親友の強引さに負け、彩靜は震える手で制服のボタンを外し、上着を脱いだ。そこには、女性である櫻子ですら息を呑むほど美しい、しなやかな肢体があった。白い肌、高々と聳える双丘。そして……鎖骨の下や胸元に残る、消えかけた紅い痕。それは浅野健二がこの天才狙撃手をどれほど激しく、愛おしく「独占」したかの証だった。


「本当に……いい体ね。」櫻子は指先でその痕に触れた。「その浅野って人、いい度胸してるわ。執行官としての『青』じゃなく、ただの女の子としてあなたを愛してる証拠ね。」


彩靜は羞恥に耐えかね、慌てて服を羽織った。「もういいでしょ! あれは、彼が……その、激しすぎただけだから……!」


「激しすぎた、ねぇ。」櫻子は意味深な笑みを浮かべた。「彩靜、あなたの未来だけじゃなく、体も心もその大学生にすっかりマーキングされちゃったみたいね。」


深夜の浅野家。室内の暖かなランプの下、彩靜はソファに座って写真集を読み、浅野は彼女の太腿に頭を預けていた。浅野は天井を見ているふりをしながら、時折、パジャマの隙間から覗く彼女の豊かな曲線に視線を走らせる。


彼女への独占欲が、夜の静寂の中で燃え上がった。


彼は不意に起き上がり、彩靜を力強く抱き寄せた。


「彩靜……僕、今日は、準備できてるから。」


机の上のリュックには、親友から勧められた「備え」が隠してある。もう一度、彼女の熱を感じたかった。


しかし、彩靜は顔を赤らめながら、困惑した表情を浮かべた。


「明日の朝……バイトがあるの。すごく早いから……また今度にしましょう。」


スマホには数分前、ZERO-DELAYの暗号通知が届いていた。午前四時、新宿の地下ホームでの任務。狙撃の集中力を維持するためには、体力を消耗するわけにはいかなかった。


しかし浅野には、それが「拒絶」の口実に聞こえてしまった。


「そっか……。分かったよ、準備ができたら、また。バイト、頑張ってね。」


浅野は彼女の頭を優しく撫でたが、彩靜の瞳には罪悪感と苦しさが宿っていた。


「浅野君。」


立ち去ろうとする浅野を、彼女は呼び止めた。指先がシーツをきつく握っている。


「でも……今夜は、一緒に寝ても、いいわよ。」


天国へ引き上げられた心地の浅野は、再びベッドへ腰を下ろした。


【深夜:寝室】


灯りを極限まで落とした部屋で、二人は寄り添った。浅野の右手が彼女の左手を包み、もう一方の手で彼女の肩を抱き寄せる。そして浅野の目の前で、彩靜は意を決して制服のボタンを外し、薄手のパジャマに着替えた。


そのあまりに美しく、信頼に満ちた姿に浅野は息を呑んだ。


着替え終えた彩靜は、潤んだ瞳を彼に向け、無言で甘えるような視線を送った。


(……今なら、キスしていいわよ。)


浅野の理性は限界を超えた。彼は低く唸り、強く、深く彼女の唇を塞いだ。二人はそのまま柔らかいマットレスの上へと倒れ込む。今夜は最後まで進めない。それでも、肌を重ね合わせるこの上ない親密さが、二人の鼓動を一つに結びつけた。


(ごめんね、浅野君……。この数時間だけは、あなたを愛する平凡な女の子でいさせて……。)


【午前 03:45:浅野家玄関】


浅野が幸せな夢の中にいる頃、彩靜は玄関で黒いタクティカルジャケットのジッパーを上げた。髪をポニーテールにまとめ、僅かに腫れた唇を指でなぞると、その瞳は瞬時に冷酷な「青」へと切り替わった。


巨大なギターケース(狙撃銃)を背負い、彼女は冷たい夜の闇へと消えていく。


零(AI音声):「エグゼクティブ『青』、迎えの車両が到着しました。ホルモン値の異常な上昇を検知。狙撃ポイント到着前に深呼吸を行い、精度を安定させることを推奨します。」


「……うるさいわね。分かってるわよ。」



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