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ZERO-DELAY  作者: WE/9
ZERO-DELAY:平凡なリズム

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96/102

アイスブレイク

店のドアを押し開けると、風鈴が軽やかな音を立てた。浅野が再び足を踏み入れたその店は、いつもと変わらぬレモンの香りに満ちており、その光景に彼の数日間張り詰めていた肩の力がようやく抜けた。


店の中には、相変わらず人を安堵させる平和が流れていた。湊はカウンターに寄りかかり、トレードマークの不敵な笑みを浮かべて常連客と軽快に談笑している。暁はバックヤードで茶葉の火加減に集中し、その無駄のない動きの中に、時折入り口へ向ける視線だけが、普段は隠している優しさを覗かせていた。


そしてカウンターの隅では、凜がまた砂糖の瓶をひっくり返した今田を、声を潜めて叱り飛ばしている。


「路人(通行人)先輩!脳みその回線が切れてるんじゃないの?分量もまともに量れないなら、とっとと雑巾がけでもしてなさい!」


今田は後頭部をかきながら、お人好しな笑みを浮かべて不器用なりに手伝い(という名の邪魔)を続けていた。


浅野はその光景を見て、ふっと微笑んだ。そして彼の視線は、まるで自動追尾装置のように、店内の一番静かな角――いつものあの場所へと向けられた。


**彩靜あやせ**は今日もあの深紺色の制服に身を包み、ブラウンの長い髪をポニーテールにまとめ、背中に流していた。彼女はうつむき、細い指で一冊の本を抱え、浅野が入ってきたことにも気づかないほど没頭していた。


浅野は足音を潜めて近づき、いつものように、ごく自然に彼女の向かいに座った。


正面に誰かが座ったことに気づき、彩靜の肩が微かに震えた。彼女はすぐに顔を上げず、まずページを一枚めくることで心の動揺を隠そうとした。だが、浅野の角度からは、髪の隙間に隠れた彼女の耳が、いつの間にか淡いピンク色に染まっているのがはっきりと見えた。


「……来たんだね。」彩靜の声は相変わらず穏やかで、どこか人を寄せ付けない清廉さを纏っていたが、本を閉じる動作にはどこかぎこちなさがあった。


浅野は彼女の強がった様子を見て、親友のユウトの言葉を思い出し、心が無性に柔らかくなるのを感じた。彼は数日前のときのように急いで手を繋ごうとはせず、ただ静かに彼女を見つめ、優しく声をかけた。


「うん、来たよ。今日のその本……面白い?」


それはあまりに平凡な切り出しだった。しかし、その言葉は温かな鍵となり、二人の間に横たわっていた「羞恥」という名の氷壁を、ゆっくりとこじ開けていった。


浅野は手慣れた動作でバックパックからノートPCを取り出し、画面を開いた。写真学科の課題をこなそうとしたのだ。彼はこの「寄り添うけれど邪魔はしない」距離感に慣れていた。彩靜の向かいに座り、彼女の気配を感じるだけで、彼にとっては癒やしだったからだ。


しかし、指がキーボードに触れようとした瞬間、向かい側から小さく、けれど明らかな震えを帯びた呼び声が聞こえた。


「浅野君……」


「え?」浅野は少し驚いて顔を上げた。


敬意を示すように、彼はノートPCの画面をそっと押し下げた。視界を遮るものが消えると、そこには本の陰に隠れていた、熟れたリンゴのように真っ赤になった彩靜の顔があった。普段は狙撃のために冷徹なまでに据わっている彼女の瞳が、今は不安げに泳ぎ、デスクの端を彷徨っている。


「こ……公園、行かない?」


彩靜はその言葉を口にすると、まるで全身の酸素を使い果たしたかのように、呼吸を少し荒くした。それは彼女にとって、「あなたと二人きりになるのを拒まない」という事実を、形を変えて認めたことに他ならなかった。


「あ……うん、喜んで。」


突如として舞い込んだ誘いに、浅野は一瞬呆然とした後、すぐに満面の笑みを浮かべた。彼は迅速にPCを片付けた。その心拍数は、先ほどの作業中よりも明らかに速まっていた。


二人は肩を並べて歩いた。間には10センチほどの「安全距離」を保っている。冬の斜陽が二人の影を長く引き伸ばし、時折その影が重なり合う様子は、主人の代わりにこっそりと手を繋いでいるかのようだった。


彩靜はうつむき、制服のポケットに両手を突っ込んで、ぎこちない足取りで進んでいた。隣から伝わってくる浅野の体温。それはあの日(激戦の日)の熱さを思い出させ、彼女の頬の熱が引くことを許さなかった。


(彩靜、落ち着いて……ただの散歩よ。)


(あなたはもう20歳の大人なんだから、いつまでも彼を避けちゃダメ……。)


彼女はこっそりと横目で浅野を窺うと、彼もまた自分を見つめていることに気づき、二人の視線が空中で一瞬だけ交差した。


「あの……浅野君。」彩靜が小さな声で切り出した。


「どうしたの?」


「ここ数日……ごめんなさい。」彩靜は足を止め、下唇を噛み、蚊の鳴くような声で続けた。


「あなたのことが嫌いなわけじゃなくて……ただ、あの日の感覚があまりに初めてで……私、どう向き合えばいいか分からなかったの。」


その率直で恥ずかしがりな姿を見て、浅野の心の中にあった最後の不安は完全に霧散した。彼は手を伸ばし、今度は迷うことなく、彩靜がポケットの外に出していた小さな手の上に、そっと自分の手を重ねた。


「分かってるよ。だから、ずっと待ってたんだ。」


【公園の東屋あずまや:17:15】


冬の夕日は空を華麗なオレンジ色に染め上げ、公園の東屋は喧騒とした街の中に浮かぶ唯一の孤島のようだった。周囲の観光客はすでに去り、ただ風が梢を揺らし、波のようなざわめきを立てているだけだ。


浅野は隣に座る彩靜を見つめた。今日の彼女は簡潔な制服姿で、サイドライトに照らされたその清らかな横顔は、どこまでも柔和に見えた。ここ数日間続いていた強張った空気の中に、ようやく亀裂が入った。


「大丈夫だよ、僕が急ぎすぎたんだ。」浅野は、壊れやすい陶器をいたわるような優しい声で言った。「あの日……僕にしか見せない君のあの姿を見て、つい『反則』をしちゃったから。」


「あの姿」という言葉に、彩靜のまつ毛が激しく震え、引きかけていた紅潮が再び顔を出した。彼女は恥ずかしそうにうつむき、スカートの裾を指先でいじったが、数日前のときのように逃げようとはせず、その少し攻撃的でさえある優しさを、率直に受け入れた。


短い謝罪のやり取りを経て、二人の間の氷壁は完全に溶け去った。日常の何気ない出来事や写真学科の課題の話に花が咲き、彩靜も時折、浅野の前でしか見せない、はにかんだ微笑みを浮かべるようになった。


浅野は誰もいない東屋を見渡し、内なる渇望が再び動き出すのを感じた。制服姿の彩靜と人前で手を繋げば、彼女に変な噂が立つのではないかと心配していたが、今、この空間には二人しかいない。


彼の右手は落ち着きなく、ゆっくりと彩靜の左手の方へと移動し、指先で彼女の手の甲にそっと触れた。


「繋いでもいい?」浅野は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、誠実な眼差しで問いかけた。


彩靜は半秒ほど固まったが、やがて何かを決心したように、小さく、本当に微かに頷いた。


許可を得た浅野は、もう迷わなかった。彼は長い指を彩靜の指の間に滑り込ませ、ゆっくりと、だが力強く握りしめた。


二人は再び、恋人繋ぎ(十指緊扣)をした。


彩靜の手は、相変わらず微かな冷たさを帯びていた。それは、長く冷たい金属の銃身を握り続けてきたことによる身体の記憶。磨き抜かれた寒玉かんぎょくのような感触だった。だが、浅野の目には、その冷たさは拒絶ではなく、包み込むべきシグナルに映った。


掌を密着させ、浅野は自分のすべての体温を彼女へと伝えようとした。その熱は皮膚を通じて彩靜の血管へと浸透し、彼女の強張っていた肩をゆっくりと解き放ち、彼女もまた浅野の手を握り返そうとした。


「……浅野君の手、すごく温かい。」彩靜は小さく呟き、ようやく顔を上げた。ブラウンの瞳にはもはや冷徹な計算などなく、溢れんばかりの情愛が宿っていた。


冷たさと温かさの交わりが、浅野の心にこれまでにない充足感をもたらした。これが単なる動作ではなく、彩靜が最も脆く、最も真実の自分を、再び彼の掌に預けた証なのだと彼は確信した。


細かな雨が灰色の空からしとしとと降り始め、透明な障壁のように東屋と外の世界を完全に隔てた。


雨音は東屋の屋根を規則正しく叩き、そのくぐもった音は、この小さな空間をより静かで、よりプライベートなものへと変えた。湿った土の香りと、彩靜から漂う淡く清らかなシャンプーの香りが、水気と共に満ちていく。


「雨、しばらく止みそうにないね。」浅野が優しく言った。


彼は彩靜の手を繋いだまま、指先で無意識に彼女の手の甲をなぞり、体温を分け与えようとしていた。彩靜は何も言わず、少し肩をすくめ、浅野の隣へさらに数センチ寄り添った。この肌寒い雨の日には、そのささやかな寄り添いがこの上なく自然に感じられた。


浅野は横を向き、雨霧の中で少し朧げに見える彩靜の横顔を見つめた。心の底に積もっていた想いが、雨音と共に再び沸き上がってきた。


「彩靜。」


「ん?」彼女は短く応じ、顔を向けた。ブラウンの瞳は優しさで満たされていた。


「やっぱり言っておきたくて……。僕、本当に君のことが大好きだ。店で本を読んでいる君だけじゃなく、恥ずかしがり屋な君だけじゃない。君のすべてを知りたいし、雨の日にはいつもこうして、堂々と君の手を握っていたいんだ。」


浅野の告白は真っ直ぐで誠実だった。カメラマンらしい華やかな構図の修飾はないが、その分、重みがあった。


彩靜は一瞬息を呑んだ。腕を通じて伝わってくる浅野の熱が、そのまま彼女の心の奥底へと流れ込んでくる。彼女は唇を動かし、か細いけれど確かな声で言った。


「私も……もう、浅野君を突き放したくない。」


浅野は、照れくさそうに震える彼女の長いまつ毛と、微かな光を反射して潤む、紅く柔らかな唇を見つめた。


その瞬間、彼の心拍のリズムは完全に乱れた。


これ以上ないタイミングだった。


外は騒がしい雨の世界、東屋の中は温かな二人の領域。繋がれた手。感情は破氷ひょうけい後の最高点に達していた。浅野は、至近距離にある無防備な彩靜の顔を見つめながら、脳内で一つの声が響き続けていた。


(今……キスをするのに、最高のタイミングじゃないか?)


彼はゆっくりと体を傾け、二人の距離は互いの吐息が混じり合うほどに縮まった。彩靜は何かに気づいたようだったが、避けることはせず、ただ緊張に身を震わせながら、そっと目を閉じた。まつ毛が、驚いた蝶の羽のように微かに震えている。


浅野は喉の渇きを感じながら、ゆっくりと顔を伏せ、その柔らかそうな場所へと狙いを定めた。


東屋の外では依然として細雨が銀色の幕を織り成し、世界は静止ボタンを押されたかのように、ただ二人の重なり合う呼吸音だけが残された。


浅野はゆっくりと顔を寄せ、緊張で紅潮した彩靜の小さな顔を視界に捉えた。互いの瞳に映る揺れる情緒が見えるほどの距離。彩靜は恥ずかしさに逃げ出したいはずなのに、浅野を握る手だけは離さず、むしろ支えを求めるように力を込めた。


「……いいかな?」浅野の声は低く掠れ、抑えきれない渇望を帯びていた。


彩靜は答えなかった。彼女は運命を受け入れたかのように、長いまつ毛を一度震わせると、素直に目を閉じた。その全幅の信頼を寄せた、無防備な姿が、浅野の理性を吹き飛ばす最後の一押しとなった。


浅野は息を止め、ついに唇を重ねた。


二人の唇が触れ合ったその瞬間、浅野は究極のコントラストを感じた。


彩靜の唇は予想通り、微かに冷たかった。それは、長く闇の中で冷たい兵器と共に過ごしてきた彼女の、身体的な余熱のなさ。雨に打たれた清らかな花弁のようだった。しかし、その冷たさのすぐ下から、驚くほどの柔らかさと甘みが湧き上がってきた。


その甘さは、お菓子のようなベタつくものではなく、雨上がりの草木のような清々しさを含んだ、少女特有の、純粋な香りだった。浅野は彼女の唇を優しく含み、その冷たさが自分の体温でゆっくりと溶けていくのを感じた。狭い空間で二人の呼吸が混じり合い、共鳴する。


それは昨夜のような侵略的な占有ではなく、どこか神聖で、慈しむような触れ合いだった。浅野の心臓は羽毛で撫でられたかのように震え、痺れるような感覚が唇から指先へと駆け抜けた。このキスを通じて、彼は彩靜の震えを、彼女の初々しさを、そして自分のために激しく脈打つ彼女の心を感じ取っていた。


彩靜にとって、それは全く新しい感覚の爆発だった。すべての戦術意識、狙撃の直感がこの瞬間にフリーズし、脳内は真っ白になった。世界には、唇から伝わる熱い温度だけが残された。


どのくらいの時間が経っただろうか。浅野は名残惜しそうに顔を少しだけ離すと、潤んで微かに腫れた彼女の唇を指先でそっと撫でた。


彩靜はゆっくりと目を開けた。ブラウンの瞳には潤んだ霧が立ち込め、長い夢から覚めたばかりのような、呆然とした表情で浅野を見つめていた。そして、右手で無意識に自分の唇をなぞった。


「私……私の、初めてのキス……」


彼女は蚊の鳴くような声で呟いた。目尻を赤くし、衝撃と幸福、そして極度の羞恥が混ざり合ったその表情は、今にも知恵熱で知恵熱が出そうに見えた。


浅野は胸を打たれ、泣き出しそうで、それでいて幸せそうに微笑む彼女の姿に、思わず再び彼女を強く抱きしめた。


「ごめん……。それから、ありがとう。彩靜。」


雨足は次第に弱まり、外の世界は洗い流されたように清らかになったが、東屋の中の空気は依然として酸欠になりそうなほど甘かった。


浅野は腕の中の少女を離さず、逆に力を込めて、彼女の首筋に顔を埋めた。彩靜の小さな体から伝わってくる震えを感じる。それは、ファーストキスの後の、最も真実な鼓動だった。


「君の初めてを奪っちゃったから、君の未来……僕が予約したからね!」


浅野は顔を上げ、まだ潤んでいる彩靜の目を見つめて、半分冗談で、けれどこの上なく真剣なトーンで言った。それは使い古されたプロポーズの予行演習のようだったが、今の二人には、浅野なりの最も誠実な約束だった。このキスに責任を持つだけでなく、彼女の未知の、そして危険に満ちているかもしれない余生に、自分も関わっていきたいという宣言だった。


「……未来?」


まだ脳がフリーズ状態の彩靜は、どこか浮世離れした声を出した。彼女は浅野の、悪戯っぽく笑いながらも、溶けそうなほど優しい眼差しを呆然と見つめた。「ZERO-DELAY」の世界において、「未来」とは贅沢すぎる言葉だ。しかし今、この写真学科の大学生は、それをあまりに軽やかに彼女の前に差し出してきた。


「むぅ……浅野君はずるい……」彩靜はようやく自分の声を取り戻すと、真っ赤になった顔を浅野の胸に埋め、籠った声で答えた。


「予約したんだから……絶対にキャンセルしちゃダメだよ。」


その不器用で必死な答えは、浅野にとってこれまで聞いたどんな言葉よりも、心を揺さぶる愛の言葉だった。


二人はゆっくりと東屋を後にした。雨上がりの公園は空気が澄み、土と草木の匂いが混じり合っている。浅野は再び自ら手を伸ばし、指先を自然に彩靜の指の間に滑り込ませた。


もはや「繋いでもいい?」と聞く必要はなかった。この接触は、すでに当たり前のリズムになっていた。彩靜の手は依然として少し冷たかったが、浅野の熱い掌に包まれ、その冷たさは一滴、また一滴と、恋の温かな流れに取って代わられていった。


二人は濡れた公園の小道を歩んでいった。激情の衝動、冷却の羞恥を経て、この物語はこの雨の中で、かつてないほど深く、強固な絆へと結ばれたのだった。



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