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ZERO-DELAY  作者: WE/9
N

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9/41

全てが終わったわけじゃない気がした

辺りは死のような静寂に包まれていた。聞こえるのは、高速走行する列車が車軸とレールを擦り合わせる耳を刺すような高周波の音だけだ。その振動が、鋼鉄の障壁を規則的に揺らしている。


アキラはゆっくりと意識を取り戻した。背中の鈍痛と紫色の薬液の残香が、彼女の視界を二重、三重に重ね、揺さぶる。無意識に目を擦ろうと手を上げたが、そこで聞こえてきたのは、澄んでいながらも冷たい金属のぶつかる音——「カラン、チリン」という音だった。


両手は背後の補強された鉄柱に回され、特注の磁気カフスが冷酷に噛み合っている。それ以上に彼女を凍りつかせたのは、身体の「軽さ」だった。数々の任務を共にした流線型の黒いアーマーも、紅白のバイザーもすべて傍らに放り出され、代わりに身に纏っていたのは、ぶかぶかで薄いグレーの囚人服だった。


ZERO-DELAY のエリートとして、武装を失うことは魂を失うことに等しかった。


「う……」暁は奥歯を噛み締め、周囲の環境を感知しようと試みる。


空気の中には重油の臭いと、反吐が出るような安物の煙草の臭いが混じっていた。


——カシャッ。


重厚な油圧ドアがゆっくりとスライドし、目も眩むような白い光が暗闇を強引に切り裂いた。暁は眩しさに目を細める。そこに立っていたのは、吐き気がするほど見慣れたあの影だった。


信使メッセンジャーは相変わらずあの黒いスーツに身を包み、手には赤ワインのボトルを揺らしていた。背後にはガスマスクを装着した、威圧感のある二人の強化兵士が控えている。彼は狭い鉄の檻の中に足を踏み入れた。金属の床を叩く革靴のリズムは、不安を煽るような侵略性に満ちていた。


「見てなよ。これが東京支部で最も誇り高き仔猫ちゃんの姿か?」信使は暁の前にしゃがみ込み、ワインボトルの冷たい底で彼女の下顎をしゃくり上げた。


「邪魔なバイザーがなくなると、その瞳は一層輝いて見えるな。……俺を殺したいっていうリズムが、びっしりと書き込まれているが」


「信使……」暁の声は枯れていたが、その眼差しはナイフのように鋭かった。「ミナトが追ってくるわ。あいつがアンタの骨を一本残らず叩き折る前に、今すぐ私を殺した方がいいわよ」


「湊?」信使はとんでもない冗談を聞いたかのように、部下たちに向かって大笑いした。直後、彼は暁の深藍色の長髪を乱暴に掴み上げ、彼女の顔を自分の方へ無理やり引き寄せた。耳元に顔を寄せ、低く、陰湿な声で囁く。


「あの青と白のゴミみたいなメンテナンス車両が、この『セイレーンの影』に追いつけるとでも思っているのか? この列車は今、地獄へ向かって爆走している。あいつが辿り着く頃には、あんたは計画における最高の……『器』に変わっているんだよ」


彼は手を伸ばし、怒りで赤く染まった暁の頬を軽く叩いた。


「焦るなよ、お嬢ちゃん。本番はこれからだ。もうすぐ新宿と渋谷の境界線にある軌道を通過する。そこでサプライズを用意してある——俺は列車の屋根の上で、あんたのヒーローが刻むリズムを、この手で徹底的にぶち壊してやる」


信使は立ち上がり、手元に残ったワインを暁の足元に投げ捨てると、狂気じみた笑い声を残して去っていった。


ドアが再び重々しく閉じられ、暗闇がすべてを飲み込んだ。暁は冷たい床に座り込み、足元で野獣のように咆哮する列車の音を聞きながら、絶望の中で必死に冷静さを保とうとした。列車の揺れの中から、湊だけが持つ、あの独特な戦闘リズムを必死に探し求めながら。


車内では光と影が狂ったように後方へ飛び去り、速度計の数字はすでに時速 500 キロを突破していた。メンテナンス車両全体が過負荷によって激しく震えている。ゼロ の仮想イメージが中央コンソールの上で急き立てるように点滅し、照明は不穏な深紅色を呈していた。


『軌道計算によれば、あと 7 分でセイレーン計画の秘匿区間に進入します。そこには無数のミサイルサイロと強化兵士が配置されています。ゴースト・トレインが構内に入れば、救出確率は 0.04% まで低下します』


シェン・ユエは顔を蒼白にして傍らに座り、接続の切れた SEVENTEEN の端末を握りしめていた。湊は前方の微かな黒い影を凝視し、銃を握る指の関節が白くなるほど力を込めている。彼から放たれる殺意は、もはや実体化しそうなほど空気を震わせていた。


「ゼロ、一瞬で車両全体の敵を排除する方法はないか?」湊の声は低く、掠れていた。


零は数マイクロ秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


『極端な案が一つあります。ゴースト・トレインの内部構造は極めて複雑であり、自動防衛システムが完備されています。もし執行官が私と**「コア神経接続」**を行えば、私のプロセッサがあなたの感覚をジャックし、反応速度を 0.001 秒まで短縮できます。物理的な意味での「弾丸時間バレットタイム」の実現です』


「なら、それをやれ」湊は迷うことなく一歩踏み出した。


『拒否します。カグラ執行官、この接続は数百万もの戦術データを脳に直接流し込みます。一般人の神経システムでは、動作が計算速度に追いつかず、脳がオーバークロック状態を維持する一方で、肢体は筋肉疲労により完全に麻痺します。結果として脳に永続的な損傷を与え、植物状態になる恐れがあります』


湊が反論しようとしたその時、冷たく、そして安定した手が彼の肩に置かれた。


白鷺 零次レイジ がゆっくりと立ち上がった。彼は背負っていたスナイパーライフルを下ろした。その動作は、塵一つ立てないほど優雅だった。


「ゼロ、その提案は端から俺を指名しているようなものだろう」零次の冷徹な瞳がスクリーンを見据える。その口調は、天気の話でもするかのように平淡だった。


「部隊の中で、この手の『非人間的な実験』の経験があるのは、俺だけだ」


「先輩……」湊は絶句した。


「お前のリズムは信使を倒すためにある。ここで焼き切るべきじゃない」


「俺がやる。ゼロ、接続を開始しろ」


『警告:白鷺執行官、あなたの神経負荷は限界点に達しています。フル計算状態での接続上限は 180 秒です。これを超えれば心不全を引き起こします』


「十分だ」


零次が目を閉じ、零のデータ流が洪水のように彼の脳へ流れ込むと、全身の筋肉が激しく痙攣した。しかし、直後には死のような静寂を取り戻した。再び目を開けた時、その瞳には零と同じデータ流の光が渦巻いていた。


彼は腰の白い長刀をゆっくりと引き抜く。電光の下、刀身は感情を排した彼の顔を映し出した。


接合ドッキング準備。……曉のいる車両までのすべての扉を、俺が開けてやる」


二つの列車が極限の速度で並走し、狂風がナイフのように二車の隙間を切り裂く。


『同期率 100%、神経接続安定。白鷺執行官、カウントダウンを開始します』零の声が零次の脳内に直接響いた。


零次の両目は瞬時にデジタル流の光に覆われ、元々冷ややかだった気配は完全に非人間的なものへと変貌した。彼は一歩踏み出し、その身体は白い弧を描いて宙を舞った。人を引き裂かんばかりの風圧を真っ向から受けながら、幽霊列車のデッキへと軽やかに着地した。


その瞬間、零次にとっての時間は凍りついた。


彼の脳は数百万倍の速度で戦場データを処理していた。弾道の軌跡、風速の偏り、強化兵士の筋肉収縮の兆候。すべてが半透明の幾何学図形となって視界に展開される。


「第一車両、クリーンアップ」


五名の強化兵士が自動ハッチから現れた瞬間、零次の手にある白い長刀が流光と化した。その動作は人類の網膜が捉えられるフレームレートを超えていた。余計な振りはなく、ミリ単位で正確な点突と横一文字。データ同期の下、彼の一振りは正確に兵士の外骨骼の液圧ラインと頸椎を断ち切った。


兵士たちは引き金を引く暇もなく、その身体は糸の切れた人形のように宙で解体された。


「第二車両、鎮圧」


零次は刀を納め、背後の白い長銃を逆手に引き抜いた。構えることすらなく、片手で保持したまま、高速で激しく揺れる車内を泰然と歩む。


「ゼロ、跳弾ルートを計算しろ」


『ロックオン。3時方向、6時方向。屈折率 42%』


——バン! バン! バン!


三発の澄んだ銃声。弾丸は車壁の金属プレートに当たり、非科学的な屈折を二度繰り返して遮蔽物を迂回。背後に伏せていた兵士の頭部を貫いた。零次はまるで降り注ぐ弾幕の中を散歩するかのように、身体を奇妙な角度で捻り、掠めていくすべての弾丸を自らのステップの一部に変えていた。


「あと 90 秒……」零次は冷酷に呟いた。大脳のオーバークロックによって口角から一筋の血が流れたが、刀を握る手はより一層安定していた。


中段の連結部へ突入すると、重戦術機甲メックが立ちはだかった。ガトリング砲が唸りを上げ、密度の高い火線を吐き出す。


零次は退くどころか、前へと踏み出した。データ流の中に唯一の「隙間」を見出したのだ。彼は車両の側壁を蹴り、地面と平行になりながら疾走する。長刀が壁面を削り、眩い火花を散らす。機銃掃射の死角で宙を舞い、長刀を機甲の狭い観測窓へと突き立てた。そのまま右手の白い長銃を装甲に押し当てる。


——ドォォォン!!


パルス弾が機甲の内部で炸裂し、金属片が飛散する。しかし零次はすでに爆炎の中から煙を突き抜け、次車両のドアの前に着地していた。


「開けろ」


彼の命令に従い、零がハッチの電子ロックを強引に焼き切った。血と火の残骸の中に立つ零次の背後には、動く敵は一人も残っていなかった。彼はゆっくりと刀を鞘に納める。口元から血を流し、その顔色は透き通るほど蒼白だった。


「前方の障害は排除した。沈玥、エンジンを止めろ。カグラ……あいつを連れ戻してこい」


彼はハッチの壁に寄りかかった。瞳のデータ流は次第に消え、深い疲労がそこに現れた。彼は「神」の模倣を完遂した。180 秒の間、彼はこの地獄の列車における唯一の主宰者だった。


湊が監獄の重扉を蹴り破った瞬間、迎えたのは暁の声ではなく、扉の影から襲いかかった強烈な一撃だった。


——ドスンッ!


湊はその衝撃で金属の壁に叩きつけられ、肺の空気をすべて絞り出された。信使は冷笑しながらスイッチを押し、「ズドォン」という音と共に油圧ドアが完全にロックされた。照明は先ほどの衝撃で損壊し、車両全体は絶対的な暗闇に包まれた。聞こえるのは足元を流れる列車の唸るような振動だけだ。


「暗闇の中で、その綺麗なライフルが役に立つのかよ、湊?」


信使の声が暗闇の中で漂うように響く。


肉弾戦において、信使の身体能力は圧倒的だった。ストリートと黒獄から這い上がってきた野犬のように、その動きは粗暴で、狂乱的で、致命的だった。


湊は暗闇の中で何度も打撃を浴びた。腹部、下顎、肩。一撃一撃がハンマーのように重い。コーナーに追い詰められ、額から流れた血が目尻に滑り込む。


「どうした? お前の『リズム感』はどうしたんだよ!」信使は猛然と湊の首を掴み、壁に押し当てた。


「ここでの唯一のリズムは、お前の鼓動が止まるまでのカウントダウンだ!」


酸素不足で脳が遠のいていく。その瞬間、湊は抗うのをやめ、逆に目を閉じた。


肉体の激痛を意識の外へ追いやり、知覚を極限まで拡散させる。


一、二、三。


それはレールの継ぎ目を叩く低頻度の音。


ハァー、ハァー。


それは興奮で荒くなった、煙草の臭いの混じった信使の呼吸。


そして……


あの隅で、最も微かで、最も柔らかく、しかし星の光のように自分を導いてくれる……暁の、激しくも弱々しい呼吸の音。


それは彼が最も熟知しているリズム。彼が生きるためのアンカーだった。


信使が最後の一撃を加えようと拳を振り上げた瞬間、湊の身体が滑るように入れ替わった。


「聞こえたぜ」湊の声は低く、ナイフの刃のような冷たさを帯びていた。


信使は再び拳を振るったが、今度の湊の動きは驚異的に速かった。もはや防御はせず、列車の揺れの遠心力に従い、正確に信使の手首を捉えた。湊はもはや力でねじ伏せようとはしなかった。信使の呼吸が入れ替わる一瞬の隙を突き、肋骨の下へと正確に重い一撃を叩き込む。


信使は苦痛に吠え、反撃を試みたが、すでに暗闇の主導権は湊の手の中にあった。列車がカーブに差し掛かり、側方向への慣性が爆発した瞬間、湊は太もものタクティカルナイフを逆手に引き抜き、信使の影に重なるように肉薄した。


——グサッ。


金属が肉を貫く鈍い音。短刀は正確に信使の側腹部を貫通し、彼を背後の鋼鉄の支柱へと釘付けにした。


「あんたの出番は、もう十分だ」


絶望的な嗚咽を漏らす信使を置き去りにし、湊は止まらなかった。微かな呼吸音を頼りに、暗闇の中で暁の居場所を正確に見つけ出した。


「暁、俺だ」


手にしたナイフの先で、磁気カフスのセンサーを正確に弾く。「カチッ」という音と共にロックが解除され、支えを失った暁は力なく湊の腕の中へと倒れ込んだ。湊には、彼女の冷たい体温と、微かな鼓動のリズムが伝わってきた。


「もう大丈夫だ……連れて帰るぞ」


湊は衰弱した暁を抱き上げた。その瞬間、彼の鼓動は腕の中の少女の呼吸のリズムと再び同期した。彼は壊れたハッチを蹴り開け、時速 500 キロの狂風の中、腕の中にある唯一の守るべきものを抱いて、救助を象徴する光の方へと真っ直ぐ歩み出した。


「エンジン物理ロック——今よ!」


沈玥の鋭い叫びと共に、彼女は最後の一つのジャミングデバイスをエンジンコアに強引に突き刺した。零が瞬時に幽靈列車の油圧システムを掌握する。


——キィィィィィ!!!!!——


鼓膜を突き破らんばかりの急ブレーキの音がトンネル内に炸裂した。幽霊列車とレールが数キロにわたって炎の龍のような火花を散らし、巨大な慣性が鋼鉄の獣を激しく揺さぶりながら、ついにその足を止めさせた。黒い悪魔は郊外の廃駅で、過熱した車体から白い煙を上げながら沈黙した。


数分後、聞き慣れた、そして落ち着いたレールの音が後方から響いてきた。ZERO-DELAY 専用の「ブラックトレイン」が、冷徹な威圧感を漂わせながら入線してくる。


ドアが開き、部隊の医療ロボットと支援チームが即座に現場を封鎖した。湊は意識を失った暁を抱え、ふらつく足取りで温かい黒い車内へと入っていった。沈玥は椅子に崩れ落ち、傍らには依然としてシャットダウンしたままの、無残に壊れた SEVENTEEN が横たわっていた。


車内の大型スクリーンが点灯し、司令のあの威厳に満ち、感情の一切を排した顔が映し出された。


「よくやった。リスクは大きかったが、結果は肯定されるべきものだ」司令の視線が一同を射抜く。「先ほどの幽霊列車へのディープ・ハッキングにより、ゼロ は『N』組織の本部座標を正確に特定した。公海の境界に位置する旧型の石油掘削プラットフォームだ。これより監視期間に入る。機が熟し次第、ZERO-DELAY は総攻撃を開始する」


「総攻撃か……」湊は低く呟き、腕の中の暁を見つめた。


暁はまだ深い眠りの中にあり、薬の副作用のせいか眉を微かに潜めている。湊は彼女の乱れた深藍色の長髪を優しく払い、呼吸が安定していることを確認した。


傍らのコーナーでは、白鷺 零次 がロボットによる脳の状態チェックを受けていた。雪のような白髪は乱れ、冷ややかだった瞳には大脳過負荷の痕跡である赤筋が浮き出ている。戦力天花板と呼ばれた男が初めて見せた疲弊した姿。彼はシートに背を預け、目を閉じて休息していた。白い長刀は膝の上に横たえられたままだ。


湊はこの車両を見渡し、暁を救うために命を懸けた者たちを見つめた。


かつて、警察官だった彼はリズムを求めた。それは混沌の中で自分を守るためであり、任務を遂行するためだった。ZERO-DELAY はただの「交渉不要、即排除」の冷酷な機械だと思っていた。あの四つの原則は枷だと思っていた。


しかし、彼は今気づいたのだ。闇の中で執行するこの「清掃員」たちは、実は誰よりも熱い温度を持っているのだということに。


「人間性を保て……」湊は組織の第四原則を口の中で繰り返した。それは最も苦痛なパラドックスのはずだったが、今はそれが彼を支える唯一の拠り所となっていた。


彼は自嘲気味に笑い、感嘆するように呟いた。


「妙なもんだな……。こんな血も涙もない組織の中で、命を懸けてもいいと思えるほど……大切な仲間を見つけちまうなんてな」


列車は再び闇のトンネルへと消え、東京の拠点へと急行した。前方に待つのは最終決戦だが、今この瞬間の車内の静かなリズムは、彼らが長く血腥い戦いの中で得た、何よりも尊い安らぎだった。


【一日後】


病室には相変わらず薄い消毒液の臭いが漂っていた。零次と暁は精密な医療ベッドに並んで横たわり、接続されたセンサーが安定した青い光を点滅させている。零次は依然として目を閉じ、白い髪を枕に散らしていた。顔色は青白かったが、その威圧感は眠りの中で少しだけ和らいでいた。


湊はシンプルな黒のパーカーを羽織り、二人のベッドの間にあるベンチに腰掛けていた。普段は不遜なほどに強い二人が、今はこうして弱々しく横たわっているのを見て、彼はふと、自分の手が空っぽであることに気づいた。


零次が暁にバイザーを贈ったことを思い出す。それは先輩から後輩への期待の印だった。


「贈り物、か……」湊はポケットを探り、自嘲気味な笑みを浮かべた。彼は気の利いたサプライズを用意するような男ではない。彼のリズムはいつだって気随気ままなのだ。


彼は立ち上がり、分署ビルを出ると近くの自動販売機で二つの温かい飲み物を買った。一つは零次が普段飲む無糖のブラックコーヒー。もう一つは、ほんのり甘い温かな紅茶だ。


病室のドアを開けて戻ると、暁がすでに目を覚ましていた。彼女は上身を起こし、肩にかかった深藍色の髪は少し乱れ、顔にはまだ薬の残した気怠さが残っていた。


二人の視線が空中で交差した。


その一秒、病室の空気が止まったかのようだった。暁は湊の持つ二つの飲み物を見つめ、湊は暁の活気を取り戻した、しかし少し所在なげな瞳を見つめた。二人の脳裏には、列車の牢獄の扉が開いたあの瞬間、失いかけたものを再び手に入れた時のあの戦慄が蘇っていた。


「……起きたか?」湊は照れ隠しに咳払いをし、気まずさを紛らわせた。「気の利いた贈り物は買えなかった。これしかないが」


暁は答えず、ただじっと湊を見つめていた。やがて、彼女はベッドの端を軽く叩き、近くに来るよう促した。


湊が戸惑いながら歩み寄り、飲み物をサイドテーブルに置いたその瞬間、細くも力強い腕が突如として彼の腰を抱きしめた。


暁は、深く彼を抱擁した。


彼女の横顔は湊の腹部に押し当てられ、両手は彼の背中の衣類を強く握りしめた。自分を彼の中に埋め込もうとするかのような、強い力だった。


「感謝の……しるしよ。私を助け出してくれたことへの……」


暁の声は彼の服に遮られ、微かに震えていた。


「ありがとう、湊」


普段の高慢で冷酷、体制を信奉するクールな彼女は、今この瞬間、完全に防衛を解いていた。彼女は腕を離そうとせず、指先は力を込めるあまり白くなっていた。湊は一瞬立ち尽くしたが、やがてその眼差しは優しく溶けた。彼は手を伸ばし、暁の細い肩をそっと抱き返した。手のひらを通じて、彼女の心拍のリズムが次第に安定していくのを感じながら。


「もう大丈夫だ」湊は低く囁いた。


雰囲気が次第に甘くなり、空気に花が咲きそうになったその時、ベッドの反対側から興ざめな声が響いた。


「……見せつけないでくれ。早く飲み物を渡してくれ」


「眠っていた」はずの零次がいつの間にか目を開け、片手で気怠そうに頭を支えながら、サイドテーブルのブラックコーヒーを指差していた。彼の氷のような整った顔には、今、「お邪魔虫は御免だ」という疲弊がありありと浮かんでいた。


湊と暁は電流が走ったように離れた。暁は慌てて布団を引き上げ、顔の半分を隠した。耳の根まで真っ赤に染まり、視線は狂ったように窓の外へと泳いでいる。


湊は気まずそうに頭を掻きながら、急いでブラックコーヒーを零次に渡した。零次はそれを受け取ると、プルタブを引いて一口飲み、そのまま布団を跳ね除けて立ち上がった。足取りはまだ少しふらついていたが、優雅にコーヒーを持ち、出口へと歩き出した。


「中枢室で零と総攻撃の座標を分析してくる」零次はドアの前で立ち止まり、ドアノブに手をかけたまま、横顔でこう言い残した。


「ここは二人にしてやる。カグラ、これ以上あいつの心拍数を上げるなよ。快復に響く」


——カチャッ。


病室のドアが再び閉じた。湊は振り返り、布団にくるまっている暁を見て、苦笑した。


一瞬の躊躇の後、彼は暁の頭を優しく撫でた。


「紅茶、まだ温かいぞ。飲むか?」



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