二人きり
【今田のマンション:キッチンとダイニング 09:15】
キッチンからフライパンでベーコンが焼けるジューシーな音が聞こえ、空気中にはキャラメル化した香りとトーストの香ばしさが漂っている。
組織の中では、今田の銃の腕前と反応速度は、凜に一方的に蹂躪される程度のものだ。しかし、この数坪の狭いキッチンでは、彼こそが絶対的な主導権を握る「特級執行官」だった。料理の腕に関して言えば、彼と凜の格差は、二人の射撃センスとちょうど反比例している。凜は正確な弾道を計算できるが、シンプルな目玉焼きを炭化した不明なデータに変えてしまうのだ。
「朝ごはんできたよ。」
今田は手際よく、縁が少し焦げたトーストにバターを塗り、香ばしい朝食が乗った二つの皿をダイニングテーブルへ運んだ。
その時、洗面を終えた凜がサンダルを鳴らし、眠そうに歩いてきた。長い黒髪からは洗顔料の淡いシトラスの香りがし、帽子を被っていない姿は小さくて無防備に見える。鋭い刃のようなその瞳も、食べ物を目にした時だけは少し和らいだ。
今田は皿を置かず、彼女の前に立ちはだかり、口角にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「でも、食べる前に……まずは、チュってして。」
凜の動きが止まり、トーストへ伸ばしかけた手が引っ込んだ。白い小さな顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「はあ? また? あんた……本当に脳みそ断線してんじゃないの? 朝っぱらから変態!」
凜は口では激しく罵り、嫌そうな顔をしてみせるが、体は正直にその場から動こうとしない。少しだけ顔を上に向かせ、両手でパジャマの裾をぎこちなく握りしめるその「嫌がっているけれど仕方ない」というツンデレな姿は、今田にとって最大の幸運報酬だった。
今田は顔を伏せ、その柔らかい唇に強くキスをした。
それは触れるだけの軽い挨拶ではなく、独占欲と愛着の籠もった深いキスだった。
「ん……はあ……」
数秒後、凜はようやく離れ、急いで息を整えた。精巧な小顔は熟れたリンゴのように赤くなり、鋭かった瞳は少し潤んで、視線が定まらない。
彼女は唇を拭い、いつもの毒舌なオーラを取り戻そうと今田を睨みつけた。
「……次からあんなに強くしたら罰金! 来月のフィギュア予算、全部カットだからね!」
「えっ? それは酷すぎるよ。僕の動力源なのに。」今田は笑いながら皿を彼女の前に置き、少し乱れた長髪を優しく撫でた。「早く食べなよ、九条のお嬢様。冷めたらデータが狂っちゃうから。」
「ふん、言われなくてもわかってるわよ。」
凜は席に座り、トーストを一口かじった。バターの香りに満足げに目を細め、口いっぱいに頬張りながらもごもごと呟いた。「……トーストに免じて、今回はカットしないでおいてあげる。」
トーストを食べながら、今田はふと思い出したように頬杖をついて尋ねた。
「そういえば、彩静さんの方はどうなってるかな?」
以前、彩静が正式に浅野の写真展に行って以来、あの純朴な大学生が「レモンティーショップ」を訪れる頻度は明らかに高くなっている。店長の湊は、店で二人を見かけるたびに「親バカのような微笑み」を浮かべ、阿吽の呼吸で店の一番奥にある、光の温かいペア席を空けておく。時には「予約席」の札まで立てるほどだ。
「どうなってるって何が?」凜はベーコンを咀嚼しながら、鋭い口調で言った。「データによれば、あの二人の間の空気抵抗は減少傾向にあるけれど、進展速度が遅すぎてシステムの再インストールを手伝ってあげたくなるわね。」
「そろそろ想いを伝えてもいい頃だと思うんだけどな。」今田は、彩静を見るたびに顔が真っ赤なトマトになる浅野の姿を思い浮かべ、しみじみと言った。「彩静先輩だって、もう本名を教えたわけだし。」
凜は鼻を鳴らし、フォークを置いた。「そんなの焦っても無駄よ。彩静の防壁は物理レベルなんだから。それよりあんた、路人先輩、他人の感情データばかり気にしないで、自分のリズムを管理しなさいよ。」
「僕のリズム、か……」
今田はふと笑い、立ち上がると、凜のそばに寄って彼女の少し冷たい小さな手を自然に取った。
「出かけようか。」
凜は一瞬驚き、右手にはまだナプキンを持ったまま、困惑して彼を見上げた。「どこへ? 任務も入ってないし、新作フィギュアの発売日でもないわよ……」
「わからない。」
今田は彼女を連れてドアの方へ歩き出した。近所のコンビニにでも行くような軽い口調で続けた。「今日は特に予定もないし、ぶらぶら歩こうよ。弾道モデルも戦術マップも見ないで、君の目に映るものだけを見るんだ。」
「はあ? そんな無計画な行動、論理的災難だわ……」
凜は口では文句を言いながらも、素直に立ち上がり、トレードマークの黒いキャップを深く被り直した。今田の手を振り払うことはせず、むしろ距離を縮めて、二人の指先を絡ませた。
【街角:午前 10:30】
東京の朝の光が、賑やかな街路を照らしている。
今田は小さな凜の手を引き、人混みの中を通り抜ける。これは目標もゴールもない「任務」だった。
「ねえ、路人先輩。」凜はキャップを深く被り、影の中から声を漏らした。
「ん?」
「……さっきの、もう一回やって。」
「え? 何を?」今田は振り返った。
「ちっ、脳みそ断線してんの?」凜の顔が赤くなり、空いている方の手でぎこちなく自分の唇を指差した。「さっきの『チュ』よ。人がいない場所でなら、もう一回だけ執行を許可してあげる。」
今田は彼女の強がっている姿を見て思わず吹き出し、繋いだ手に少し力を込めた。
「御意、九条のお嬢様。」
秋葉原の街は相変わらず騒がしく、色鮮やかな看板と電子音がオタクたちの熱狂を織りなしている。今田と凜の二人は、清潔感のある優しい笑顔の大学生と、キャップを被った鋭い瞳の少女という、至って普通のカップルに見えた。
今田の視線は、ふと上方にある巨大なアニメの宣伝広告に引き寄せられた。
「お、あれは……15周年記念版か。」今田は感嘆の声を漏らした。彼が見ていたのは看板の隅にある限定版フィギュアの発売情報だ。フィギュア収集を趣味とする彼にとって、「限定」という二文字は抗いがたい魔力を持っていた。
しかし、九条凜の視覚演算システムにおいては、重点が完全にずれていた。
広告看板のメインビジュアルは、極めて露出度の高い、反則級のスタイルを持つ女性キャラクターだった。特に、画面の揺れに合わせて動きそうな豊満な胸が、看板の70%を占拠している。
空気の温度が瞬時に下がった。
今田は、繋いでいた小さな手から、骨を砕くほどの力が伝わってくるのを感じた。
「ねえ、路人先輩。」
凜が足を止めた。声はマイナス40度の氷穴から取り出されたかのように冷たい。顔は上げず、キャップの影で目は隠れていたが、今田は魂を貫くほどの殺気が練り上げられているのを感じ取った。
「えっ? どうしたの、凜?」今田は物理的に断線した状態で、まだ危険に気づいていない。
凜は繋いでいた手を離し、自分の小さくてまだ発育途中の胸元を見下ろすと、データを確認するかのようにベージュのニットの上から軽く押さえた。そして顔を上げ、ナイフのような鋭い視線で今田を射抜いた。
「どこ見てんのよ?」
「いや、あの15周年の……」
「そのデータ偽装はやめなさい!」凜は半歩踏み出し、周囲の通行人が無意識に避けるほどの強い威圧感を放った。
「あんたの瞳孔の収縮頻度、さっきあの『肉塊』の上で1.2秒停滞したわ。何、あたしのこの『ミニマリズム』なデザインが不満なわけ? もっと大きくて、柔らかくて、衝撃力のあるデータを渇望してるわけ?」
「違う、違う! 誤解だよ! 本当にフィギュアを見てたんだ……」
「あたしのリズムについてこれないなら、視界から消えなさい。」凜はいつもの決め台詞を投げつけた。顔は怒りと、極度のコンプレックスからくる羞恥で真っ赤だ。
「そんなに大きいのが好きなら、あの看板と恋愛してればいいじゃない! 変態! 路人! シイタケ!」
「シイタケまで持ち出すなんて酷すぎるだろ!」
今田は人混みの中に消えようとする凜を追いかけ、後ろから抱きしめた。
「離しなさい! データによれば、今の相性は5%以下よ!」
「聞いて、凜!」今田は彼女の首筋に顔を埋め、少し強張った体温を感じた。
「僕にとって、そんな『誇張されたデータ』なんて意味がないんだ。僕が好きなのは、僕の腕の中で丸まって、甘いものが好きで、シイタケが嫌いで、怒った顔まで可愛い君なんだ。この精密で唯一無二の、『ちっちゃい君』こそが、僕の最高級データなんだよ。」
凜の抵抗が次第に弱まり、耳の先が滴るほど赤くなった。
「……バカ路人。」彼女は小さな声で呟いた。今田にしか聞こえないほどの囁きだった。「そんな……そんな気持ち悪い褒め言葉、あたしが騙されると思ってるの……」
秋葉原の街頭。サイズ危機による険悪な空気が和らぎ、今田がまだ怒りの冷めない凜をなだめている最中、前方に現れた見覚えのある人影に二人は足を止めた。
それは浅野だった。
彼はテイクアウト用の特大サイズのドリンクを二つ持ち、満面の笑みで後ろを振り返りながら何かを話していた。そして彼の一歩後ろには、普段組織の中で「冷徹」の代名詞とされるエーススナイパー、後藤彩静の姿があった。
今の彩静の頬には、夕日に焼かれたような、極めて珍しい赤みが差していた。
「おっ! 浅野、それに……彩静?」
今田は驚いて手を挙げて挨拶した。この「ピント調節中」のコンビにここで出くわすとは予想外だった。
浅野は今田を見つけると、救世主に会ったかのように駆け寄ってきた。
「今田くん! それに……九条さん? 奇遇だね、二人も秋葉原でデート?」
「デートだなんて……ただこの男の脳みそが断線して、無意味な移動に付き合わされてるだけよ。」凜は顔を背け、キャップを深く被り直したが、今田の服の裾をぎゅっと掴んで離さない。彼女の視線は浅野の背後にいる彩静へと向けられ、口角を挑発的に上げた。
「それより誰かさん、心拍数が3メートル先まで異常に聞こえてくるけど、データ過負荷かしら?」
「……」
彩静は沈黙したまま歩み寄り、無意識に深い紺色のスカートの裾を掴んだ。動きはどこかぎこちない。1キロ先のターゲットを前にしても動じない彼女の顔が、今は私生活を同僚に見られたことで、いささか困惑している。
「久しぶり、今田、九条。」彩静の声は相変わらず清廉だったが、語速が普段より0.5秒速い。「私はただ……撮影技術の屋外観測を行っていただけよ。」
「そうそう!」浅野は笑いながら、ドリンクの一つを彩静に手渡した。
「後藤さんがさっき、凄くいい撮影スポットを選んでくれたんだ。そのお礼に、最新の『ストロベリーシェイク・スペシャル』をご馳走してるんだよ。」
「ストロベリー……シェイク?」
今田と凜は顔を見合わせ、その瞳には驚愕の色が浮かんだ。
砂糖抜きのレモンティーしか飲まず、常に生理的な恒常性を保っているあの彩静が、こんなピンクの泡が詰まった甘ったるい飲み物を飲んでいるというのか。
「美味しいわ。」彩静は何かを証明するかのように一口大きく吸い込み、さらに頬を赤くした。「糖分によるグルコース補給は、脳の……演算に役立つから。」
「演算システムが焼き切れてんじゃないの?」凜は容赦なくツッコミを入れ、浅野の方へ向き直った。
「ねえ、カメラマン。あんた、この女が『観測』に付き合うために組織の遠隔接続まで切ってるの知ってる? 万が一、今ここでランダムな事件が起きたら、彼女は糖分の摂りすぎで反応が遅れるわよ。」
浅野は凜の言葉の意味が全く理解できず、ただ申し訳なさそうに頭をかいた。「えっ? 本当に? 後藤さん、僕に付き合うためにそんなに気を使ってくれてたんだ……」
彩静は顔を背け、皆の視線を避けるように強引に話題を変えた。「今田、あなたたちはここで何をしているの?」
「僕たちはさっき……ええと、『15周年記念』と『視覚美学』のギャップについて議論してたんだ。」今田は気まずそうに笑い、腰のあたりを凜に強くつねられるのを感じた。
「『男は視覚的動物である』という原始データの研究よ。」凜は鼻を鳴らし、彩静を見た。「せっかく会ったんだし、四人で何か食べに行かない? ちょうど『恋愛脳が射撃精度に与える影響』についてのデータを直接テストしたいと思ってたのよ。」
「僕も賛成!」浅野は興奮気味に提案した。「近くにいい雰囲気のコンセプトレストランを知ってるんだ!」
彩静は浅野の期待に満ちた瞳を見つめ、それから面白がっている今田と凜の顔を見た。彼女はため息をつき、ストロベリーシェイクのカップを握りしめた。
「……2時間限定よ。夜間の戦備任務に影響を与えないという前提でね。」
【秋葉原:コンセプトレストラン「ハートビート」 13:30】
「いらっしゃいませ! カップル限定の指定アクションクリアで、お会計が20%オフになります!」
可愛い制服を着た店員が、ハート型の看板を掲げて宣伝していた。
今田と凜には心理的ハードルなど皆無だった。今田は自然に凜の肩を抱き寄せ、凜は「データ的に知能指数が低いわね」と毒づきながらも、慣れた手つきで今田の腰に手を回した。二人の阿吽の呼吸は任務のごとくスムーズで、店員は満足げに割引を適用した。
しかし、後ろの二人の番になると、空気は瞬時に凍りついた。
「あの……後藤さん、僕たち……」浅野の顔は破裂しそうなセンサーのように赤くなり、宙に浮いた手は電信を打つかのように震えていた。
彩静は店員の持つ「手繋ぎ」の見本イラストを凝視し、深く息を吐いた。彼女はゆっくりと右手を伸ばした。爆弾解体作業でもしているかのような硬い動き。最後に、二人の手はそっと、指先と指先が触れ合う程度に重なった。
それは極めて微弱で、静電気すら起きないような接触だったが、彩静にとってその0.5秒の接触が生んだデータ過負荷は、先ほどのストロベリーシェイクを遥かに凌駕していた。
今田と浅野は注文の列に並びに行き、ついでに近くで開催されていた「メカ少女」特展を見に行くことになった。テーブルには、組織最強の女性二人が残された。
彩静は席に座り、右手は先ほど手を繋がれた時のポーズのまま、虚ろな目でメニューを見つめていた。
「データによれば、あんたのCPU温度は少なくとも85度ね。」
凜は頬杖をつき、ストローでコーラをかき混ぜながら、からかうような視線を送った。「ただ手を繋いだだけで、普段は3キロ先の風速を計算する脳みそが、今はお粥でも炊いてんの?」
「それは……予期せぬ物理的接触よ。」彩静は機械的に答え、いつもの冷静さを取り戻そうとした。「これは執行官としての感受性を維持する上で、マイナスの影響を与えるわ。」
「いい加減にしなさいよ。さっき、防御メカニズムが全く作動してなかったじゃない。それはあんたの体が、あのカメラマンを『ホワイトリスト』に登録したって証拠よ。」凜は少し身を乗り出し、珍しくいたわりの籠もった声を出した。
「リラックスしなさい、彩静。戦場ではエースかもしれないけれど、このテーブルの上では、あんたはただの想いも伝えられない不器用な女の子なんだから。顔が赤いからって、査定を下げる奴なんていないわよ。」
彩静はしばらく沈黙し、先ほど浅野に触れられた場所を指先でそっと摩りながら、低く応えた。「……わかっているわ。」
一方、様々なフィギュアの展示を見ている浅野の心は、それらの格好いいロボットには全く向いていなかった。彼は隣でリラックスし、彼女と自然に接している今田を見て、ついに耐えきれず助けを求めた。
「今田くん……本当に、君を尊敬するよ。」
「ん? 何を?」今田は限定版のポスターを見ながら、振り向かずに答えた。
「九条さんにあんなに自然に接することができるなんて……」浅野はうつむき、敗北感に満ちた口調で言った。
「僕はさっき後藤さんの指に触れただけで、心臓が止まるかと思った。彼女のことをもっと知りたいのに、近づくたびに、彼女の周りに見えない氷の層があるように感じるんだ……」
浅野は立ち止まり、真剣な眼差しを今田に向けた。「どうすれば、後藤さんにもっと近づけるかな? 氷の層の下にある彼女が、何を考えているのか知りたいんだ。」
今田は一瞬驚き、ガイドブックを置いて浅野の肩を叩いた。
「浅野、知っておいてほしいんだけど、彩静は人を嫌ってるから氷を張ってるわけじゃないんだ。自分の心の中の小さな世界を、大切に守りすぎているだけなんだよ。」今田は先人としての温かい笑みを浮かべた。
「彼女に近づく方法は、熱で氷を溶かすことじゃない。君のそばにいる時は『鎧を着る必要がないんだ』って、彼女に思わせることなんだ。」
「鎧がいらない?」
「そう。彼女を『攻略』しようとするんじゃなくて、『寄り添う』んだ。彼女がどんなに冷たくても、どんなに沈黙しても、君がずっとそこにいてピントを合わせて彼女を撮り続けているって気づいた時……彼女は自分でドアを開けるよ。」今田は遠くで凜と話している彩静を指差した。「ほら、今あんなに不機嫌そうな顔をしてるけど、彼女は帰らずにそこにいるだろ?」
「以前、僕や凜たちが初めて彩静に会った時は、彼女は本名すら教えてくれなかったんだ。みんなコードネームの『青』って呼んでた。それに比べれば、君はもう第一関門を突破してるんじゃないかな。」
浅野は遠くの彩静を見つめ、拳をぎゅっと握って、深く頷いた。
「わかったよ……今田くん、ありがとう!」
「ところで……コードネームを使うような場所で会うって、どういうこと?」
「あ! そ、それは……僕たちは高校の同級生なんだよ。レモンティーショップのマスターは僕たちの先輩なんだ。」
秋葉原の夜はネオンが煌めき、騒がしい電子音が涼しい夜風の中に響いている。
並んで去っていく今田と凜の後ろ姿。街灯の下で長く伸びた二人のシルエットは、信頼し合った恋人特有の甘さを漂わせていた。彩静はその場に立ち、飲み終えたストロベリーシェイクのカップを握りしめていた。指先にはまだ、レストランで手を繋いだ時の、微かだけれど熱い感触が残っているような気がした。
「後藤さん、僕たちも行こうか。」浅野の声が横から響き、彩静のデータ思考を遮った。
「ええ。」彩静は視線を戻した。顔の赤みは引いていたが、瞳はもういつものような氷の刃ではなかった。
二人は駅へ向かって歩き出した。浅野は道中、どこか落ち着かない様子で、カメラバッグの仕切りの中をずっと探っていた。大きな勇気を振り絞っているようだった。改札の手前で、彼は突然足を止めた。
「後藤さん……いや。」
浅野は深く息を吸い、彩静の深邃な棕櫚色の瞳を見つめた。他人行儀な呼び方を、無理やり変えた。
「彩静さん。」
その名前が彼の口から飛び出した瞬間、彩静の心拍数は一瞬だけ小さなピークを刻んだ。
浅野はバッグから、丁寧に透明なスリーブに入れられた一枚の写真を取り出した。それは先日、廃駅で彼が捉えたあの一瞬だった。壊れた線路の脇に立ち、夕日に縁取られた彩静。その瞳にはスナイパーの防壁はなく、ただ廃墟と共鳴するような、静かな美しさだけがあった。
「これ、この前撮ったやつ。現像したんだ。」浅野は写真を差し出した。緊張で指先が微かに震えている。「君にあげるよ。」
彩静は写真を受け取った。この紙という媒体の上に、彼女はもう一人の自分を見た。浅野に「ピントを合わせられた」、優しくて真実の自分を。
「ありがとう。」彩静は静かに言い、写真に指先で触れた。
「それと……」浅野は写真を見つめる彼女を見つめ、勇気が消え去る前に、最後の誘いを口にした。
「彩静さん、今度の金曜日、空いてるかな? ランチに行かないかな……僕たち二人だけで。」
今回は、今田や凜の冷やかしも、「カップル割引」という逃げ道もない。正式な、プライベートな誘いだった。
彩静は顔を上げ、浅野の綺麗で透明な、そして期待に満ちた瞳を見つめた。脳内には「任務日程」も「安全評価」も浮かばなかった。ただ、暁が言っていた言葉だけが響いた。「ただ、感じればいいのよ」
「ええ、いいわよ。」
彩静は小さく頷いた。普段は無表情なその顔が、月明かりとネオンの光の中で、極めて小さく、けれど確かに、本当の微笑みを浮かべた。




