告白の作法
朝の店内に客の姿はまだ少なく、レモンと茶葉が混ざり合った爽やかな香りが漂っている。
今田はエプロン姿でカウンターの手伝いをしていた。昨日、彩静から暗号のように短いメッセージを受け取って以来、彼は一晩中まともに眠れなかった。今は一線級の特級執行官として独り立ちしている彼だが、戦場では凍りつくほど冷静で、私生活では極度の恥ずかしがり屋であるこの天才スナイパーに対しては、常にどこか畏敬の念を抱いていた。
「あの……彩静、昨日言ってた聞きたいことって?」
今田は、凛が二階の倉庫でデザートの包装材を整理している隙を見て、声を潜めてテーブルに歩み寄った。
彩静は今日もトレードマークの棕櫚色のポニーテールをきっちりと結び、無表情で窓際の席に座っていた。彼女は手元の空のカップを5秒間見つめ、今田が「何か重大な戦術情報でも切り出すのか」と身構えたその瞬間、口を開いた。
「……どうやって、人に告白するの?」
「ぶっ——! げほっ! ごほっ!」
水を飲んで落ち着こうとしていた今田は、そのまま派手に吹き出した。彼は驚愕の表情で彩静を見た。「えっ? 彩静……好きな人ができたの? 誰? 組織の人間? それとも……」
「特定の対象はいない。」彩静は相変わらずの無表情だが、耳の付け根が微かに赤らんでいた。「ただ、あんたと九条を見ていると……最近の二人のリズムが、とても穏やかになった。それがどうやって『起動』したのかを知りたい。」
「起動? システムの立ち上げじゃないんだから……」今田は苦笑いしながら頭をかいた。
「考えた。」彩静は真剣な眼差しで今田を見つめる。「私には『告白』の成功率を計算できない。でも、あんたのような『モブ』が成功したのなら、そこには汎用的なロジックが存在するはず。」
「『モブ』って……相変わらず容赦ないな……」今田はため息をついたが、すぐに表情を引き締めた。「いいかい、彩静。告白は計算じゃない、『真実』なんだ。師匠も言っていた。温かな帰宿とは、長い年月を経て語られる真実のことだって。」
彼は自分の胸を指差した。
「相手の目を見るんだ。どんなに恥ずかしくても、一番シンプルな『好きです』って言葉を伝える。近道なんてないし、スコープ越しに見ちゃダメだよ。」
「直接目を見て……真実を話す?」彩静はうつむき、考え込むように服の裾を弄った。
【二階の階段付近】
凛はコースターの箱を抱えてそこに立っていた。今田がまた女客に鼻の下を伸ばしているのかと思い、「粛清」しに降りようとした矢先、この会話を耳にしたのだ。
彼女は、今田が真面目に彩静に恋愛指南をしている姿を見て、キャップの陰で口角を微かに上げた。
「ふん、あのモブのくせに、一人前に他人に恋愛を教えるようになるなんてね。」
【カウンターの裏側】
湊は壁にもたれ、窓際の光景を眺めていた。彼は隣で茶葉を調合している暁に声をかけた。
「暁、彩静が告白したい相手って、誰だと思う?」
暁は手を止め、深い紺色の瞳を動かして淡々と答えた。
「この一年の来店記録と、彼女が最も長く時間を共にした対象……私たち以外なら、可能性は一つしかないわ。」
「まさか……納品のたびに彼女に睨まれて手が震えてる、あのリトル・ミッチェルか?」湊は眉を上げた。
「いいえ。」暁は静かに言った。「ハリーの特性を受け継いだ、あのユーモア溢れる青年——**零**よ。」
湊は呆然とした。「……AI? 彩静はAIが好きなのか?」
【JR西日本:大阪方面行きの長距離電車 14:30】
レールの刻む規則正しい振動音が響き、車窓の景色は東京の高層ビル群から広大な郊外の平野へと移り変わっていく。
後藤彩静は窓にもたれ、飛び去っていく電柱を深い瞳に映していた。地味な私服姿ではあるが、長年の狙撃手としての冷静なオーラが、周囲の座席を妙に静まり返らせていた。
彼女の手には、今田から伝授された「告白攻略」のメモ書きが握りしめられていたが、その脳内では超高難度の戦術シミュレーションが行われていた。
彩静の実家は大阪と京都の境目にあり、蝉時雨と笑い声、そして「過剰なまでの情熱」に溢れた場所だった。
父は大声で近所の誰とでも仲良くなる建築請負業者、母は地域ボランティアのリーダー。弟も道端で老人の荷物を持つような「陽気な熱血少年」だ。
その家では、感情は常に「赤色」で、熱く直接的だった。
対して彩静は「青色」だった。
幼い頃から、賑やかな家族を無表情に眺めていた。抱きしめられれば石のように硬直した。だが、彩静だけは知っていた。自分の内側の温度は家族と同じなのだと。ただ、「出力システム」が故障していて、愛を表情に変換できないだけだった。
【大阪:後藤家の門前】
彩静は年季の入った木門を押し開けた。
「……ただいま。」
「わぁっ!! 彩静ねーちゃんが帰ってきたぞ!!」
最初に飛び出してきたのは弟の熊抱き(ベアハッグ)だった。続いておたまを持った母が叫びながら駆け寄り、最後は父が大笑いしながらやってきた。
以前の彼女なら無言で耐え、すぐに部屋へ逃げ込んでいただろう。だが今回は今田の言葉を思い出した。
「目を見て、真実を話すんだ。」
夕食は熱々のすき焼きだった。家族は相変わらず騒がしく、肉の取り合いで盛り上がっていた。
彩静が箸を置いた。その僅かな動作で、賑やかだった食卓が静止した。皆、彼女がいつものように「ごちそうさま、部屋に戻るわ」と言うのだと思った。
だが、彩静は立たなかった。彼女は深く息を吸い、棕櫚色のポニーテールが微かに震えた。彼女は弟、母、そして最後に父の温かい目を見つめた。
「……みんな、聞いて。」
彩静の手はテーブルの下でスカートをきつく握りしめていた。常に水面のように平穏だった彼女の顔が、緊張で薄く赤らんでいた。
「私は……冗談も言えないし、みんなみたいに情熱的にもなれない。抱きしめられても冷淡な反応しかできなくて、馴染めていないと思わせていたかもしれない。」
父が驚いて口を開こうとしたが、彩静は首を振って続けた。
「でも、本当は……この家が、大好き。みんながくれる情熱は、ちゃんと心に届いてる。私はただ、この家族の一員になれて、本当に幸せだって……それを伝えたかったの。」
空気が凍りついた。
それは2キロ先の標的を射抜くよりも精確に、家族全員の涙腺を直撃した。
「彩静ぉぉぉぉ——!!」母が泣きながら飛びついた。
「ねーちゃん、かっこよすぎるよ!!」弟は目を真っ赤にしてこすった。
父は目に涙を浮かべながら大笑いし、秘蔵の酒を持ち出してきた。「今日は誰も寝かさんぞ! 彩静が『告白』を覚えたお祝いだ!!」
【深夜:紅茶店グループチャット】
彩静:[画像](酔い潰れて笑い転げる家族たちのボヤけた写真)
彩静:任務完了。疲れたけれど……悪くない気分。
今田:[親指] よくやった、彩静! それこそが最強の一撃だ!
湊:見たか? これが俺たちの育てた部下だ。
大阪で家族への「感情狙撃」を成功させた彩静が店に戻ってきた。
しかし、彼女のロジカルな思考回路には、ある微妙なバイアスが生じていた。彼女は今田の教えを「思いを伝える専用兵器」と見なしており、家族に効くのなら、世界で最も親しい戦友である湊や今田にも使うのが道理だと考えたのだ。
「湊、今田、ちょっといい?」
彩静はカウンターの前に立ち、厳粛な面持ちで二人を見つめた。
「どうした? そんな険しい顔して、組織の残黨でも出たか?」今田は慌てて布巾を置いた。
「……二人に、告白したい。」彩静は二人の目を真っ直ぐに見つめ、淡々と、しかし力強く言った。「あなたたちと家族になれて、私は幸せ。これからもずっと、側にいて。」
「ぶっ——!!」
試作中の茶を飲んでいた湊は今田の顔に吹き出しそうになり、今田は魂が抜けたような顔で手を振り回した。
「ま、待て待て! 彩静先輩! やめて! その技はむやみやたらに使っちゃダメなんだよ!」
「これは『告白兵器』。今田、あんたが教えてくれた。」彩静は真剣に首を傾げた。
「それは家族や好きな人に使うやつ! 俺たちに使ったら、凛や暁さんに東京湾に沈められる!」今田は冷や汗を流しながら二階を伺った。
「彩静、ちょっと聞くが……」湊は珍しく真面目な顔で彼女の肩を叩いた。「家族や俺たち以外に、その……『いいな』と思ってる奴とか、これを使いたい相手はいるのか?」
今田も狂ったように頷く。「そうだよ! 先輩の性格は危険すぎる。誰かに優しくされただけで、その重火力告白をぶっ放すつもりじゃないだろうな?」
彩静は沈思黙考した。普段は照準器しか見ないその瞳を瞬かせ、さらりと衝撃発言を投下した。
「……最近たまに来る、あの大学生。少し不器用そうだけど、笑うと結構かっこいい。」
「あぁぁ?!」
湊と今田の悲鳴が同時に上がり、店内の空気が凍りついた。
【戦術情報分析】
「大学生? どいつだ? 毎日三時にラテを頼んで建築図面を広げてる奴か? それともカメラを持ってるあの白っ面か?」今田が身を乗り出した。
「前回、彼が私を学生だと思ったみたいで、写真を一枚撮ってくれた。」彩静の無表情な顔に微かな波紋が走る。「その時、目が合ったら、彼の顔がすごく赤くなった。あの感覚は、興味深い。」
「それは先輩が美人でずっと見つめてるから、相手が死ぬほど緊張しただけだよ!」湊は額を押さえた。「暁! 暁、聞いたか? うちのスナイパーが正体不明の大学生に拐われるぞ!」
暁がキッチンから出てきて、混乱する男たちと無垢な彩静を交互に見た。
「彩静。」
「はい、暁。」
「次に来たら、学生証と家族構成を調べなさい。」暁はグラスを拭きながら、静かな、しかし寒気のするような権威を漂わせた。「もし人格が不合格なら、零に命じて彼の検索履歴をすべて公開させるわ。」
「……暁さん、それが一番エグいっす……」今田は震えた。
【午後 15:00】
ドアの風鈴がチリンと鳴った。
軍緑色のベストを着て、一眼レフを肩にかけた青年が入ってきた。浅野健二。端正な顔立ちに、芸術系特有のどこか無防備な雰囲気を纏っている。彼は少し照れくさそうに髪を掻き、いつもの窓際の席に座る彩静を見た。
「来た! 目標出現!」今田はレジの陰でヘッドセットに囁いた。
「零、分析開始。」湊はプロの顔でコーヒー豆を挽きながら指示を出す。
零(ZERO):『浅野健二、20歳。芸術大学写真学科二年生。家族構成:父は中学校長、母はピアノ講師。極めて善良な一般人です。危険度:E級。』
「感情の状態は?」湊が目を離さずに問う。
『SNSと通信記録を検索中……交際経験:ゼロ。行動パターンから分析するに、異性と三秒以上目を合わせるだけで心拍数が急上昇するタイプです。』
「彼女いない歴=年齢か?」今田は少し鼻で笑った。「ふん、モブの分際で、彩静先輩のリズムについてこれるわけないだろ。」
浅野は、自分が元最強執行官、特級射手、そして最強AIによる恐怖の監視網に囚われているとは露知らず、カウンターの暁に注文した。
「あの……レモンティーを、氷抜きで。お願いします。」
「かしこまりました。」暁は淡々と応じ、トレイに「特別なおまけ」のメモを添えた。
浅野は彩静の向かいの席に座った。心臓が口から飛び出しそうだ。彼は勇気を振り絞って声をかけた。
「あの……後藤さん。この間の写真、現像できたんだ。……見てもらえるかな?」
彼が震える手で差し出したのは、窓の外を眺める彩静の横顔だった。光の処理が見事で、彼女の瞳の奥にある、普段は見せない優しささえ捉えていた。
「ほう、筋がいいな。」湊は感心した。「彩静のあんな表情を撮るとは。」
「これが写真学科の罠ですよ!」今田は歯噛みした。「『写真を見せたい』なんて口実、高等テクニックに決まってる!」
その時、カウンターの隅で殺気を放っていた九条凛が、驚くべき行動に出た。
彼女はトレードマークの黒いキャップを脱ぎ捨て、黒髪をバサリと解いた。鋭い眼差しを引っ込め、潤んだ瞳の、幼い少女のような無垢な表情を作り出した。
「おねーちゃん! 遊んでよー! 退屈だよー!」
凛は小走りで駆け寄り、彩静の腕に抱きついた。甘ったるい声、完璧な甘えん坊の演技。
「え……?」彩静はフリーズした。防御姿勢を取りそうになったが、凛だと気づいて脳内演算がループに陥る。「凛……あんた……」
「おねーちゃん、お兄さんとデート中?」凛は大きな瞳で浅野を見つめ、その奥で品定めをしていた。「お兄さん、私のお姉ちゃんを連れて行っちゃうの?」
「い、いや! 違うんだ!」浅野は突然現れた精巧な人形のような美少女に驚いたが、次の瞬間、彼は凛の顔を見て、屈託のない笑顔を見せた。
「妹さん? すごく可愛いね! まるで森の中で迷子になった小妖精みたいだ。」
浅野の称賛には一点の曇りもなかった。写真家としての「美」への直感的な反応。
「……しょ、小妖精?」
レジの陰で今田が滑って転びそうになった。自分を「モブ」呼ばわりし、蜂の巣にすると脅してくるあの九条凛が、初対面の大学生に「可愛い」と言われている。
「こいつ、天然の人たらしか? それとも本当にバカなのか?」湊は額を押さえた。「凛の変装越しに『可愛い』を感じ取るとは……スナイパーより目が鋭いぞ。」
「お待たせしました。」
暁が絶妙なタイミングで割って入った。浅野が暁の姿に気を取られた一瞬の隙に、凛は武装解除した特殊部隊のような素早さで暁の影に隠れ、二階へ逃げ帰った。
「……あれ? さっきの女の子は?」浅野は不思議そうに辺りを見回した。
「宿題をしに行きました。」暁は涼しい顔で嘘をつき、浅野のカメラを一瞥した。「お客さま、お茶は冷めないうちに。心拍数が高すぎると、お茶の味が変わってしまいますよ。」
「あ、ありがとうございます!」浅野は慌ててティーカップを煽った。
二階の階段で凛は顔を真っ赤にしていた。「か……可愛いなんて……あいつの目は腐ってるわ!」
『目標分析更新:浅野健二。極めて高い「真実(誠実さ)」パラメータを保有。対策:九条凛による誘惑作戦は成功率0%。かつ、九条凛の感情モジュールがオーバーヒートするため推奨しません。』
浅野が店を出た後、湊は「臨時休業」の札を出した。
「さて、あいつについてどう思う?」
店内に沈黙が流れた。凛はキャップを深く被り直し、毒気を抜かれた様子で言った。「あいつの目は綺麗すぎるわ。綺麗すぎて、トリガーを引く気が失せる。」
「同意するわ。」暁も頷いた。「彼には私たちにはない『透明感』があるわね。」
「……完敗だ。俺は『純粋さ』のレースで大学生に負けた。」今田が机に突っ伏した。「それにしても、あいつ先輩を『後藤さん』って呼んでたな。本名も教えてないのか?」
「私は『後藤』だと言った。」彩静は平然と答えた。「私の声の周波数が低すぎて、彼は『佐藤』と聞き間違えたみたい。でも、名前なんてただのコード。」
彩静は、浅野が撮った自分の写真を見つめた。
「大事なのは、彼が私の見たことのない私を撮ったこと。」
後片付けの後、暁は鏡の前で「魅力的な微笑み」を練習している湊の背後に立った。
「もうやめなさい、湊。あなたはもう大学生じゃないわ。」
「……分かってるよ。」湊はため息をつき、暁を抱き寄せた。「でも、俺には大学生にはない『包容力』があるだろ?」
暁は何も言わず、ただ彼の胸に顔を寄せた。戦場とは違う、平凡なリズムを刻むその鼓動を聴きながら。




