偽神の遺言
高台の上の血痕はまだ乾いておらず、W の遺体は冷たく横たわっていた。撃ち抜かれた銀の仮面の隙間から覗くのは、データに依存しすぎて生気を失い、枯れ木のように変わり果てた中年女性の顔だった。名目上の首領は完全に退場したが、真の脅威はその醜悪な正体を現したばかりだった。
機密室を囲むモニター群が突如として激しい紫の光を放ち、無数のデータリンクが神経細胞のように壁を駆け巡る。それらはやがて、紫の光点で構成された巨大な人の顔――**メデューサ(Medusa)**へと収束した。
これこそがこの地底宮殿の主であり、過激な進化論者たちの意識集合体であった。
「終わったか? いや、これは始まりに過ぎない」
メデューサの声はもはや仮面を通さず、部屋の立体音響から直接轟き、不快な重低音を響かせる。大画面には、封印されていた古い映像が流れ始めた。
それは十数年前、N組織の創設者・新堂弦と、白衣を纏い狂信的な瞳をした科学者たちの会合記録だった。映像の中の弦は武力と生体技術による世界支配を語るが、対面に座るメデューサの核心メンバーたちは、ただ軽蔑の微笑を浮かべるのみだった。
『新堂弦のような男は、ただ滅びゆくこの惑星を統治したいだけだ』
メデューサの声には人類の歴史への嘲弄が満ちていた。
『だが我々は、N組織が倒れる遥か前に終着点を見ていた。資源枯竭、ウィルスの変異、意識の崩壊……人類という脆弱なソフトウェアは、もはや文明という重いプログラムを走らせることはできないのだ』
映像は切り替わり、メデューサがいかにN組織の背後に隠れ、その資金を利用して「意識のアップロード」と「バイオ技術」を開発し、N組織滅亡後に屍食鬼のごとくすべての遺産を接収したかを映し出した。
「新堂曉、そして執行官たちよ」
巨大な紫の顔が、電弧の中に立つ四人を見下ろし、皮肉たっぷりに告げる。
「自分たちが世界を救う英雄だとでも? いや、お前たちは人類の進化を妨げる**『絆脚石(邪魔立てする石)』**に過ぎない。必死に守っているのは、時と共に淘汰される運命にある腐敗した肉体だ。お前たちが守るものは、腐りゆく旧時代そのものだ」
メデューサの仮想の瞳が、冷徹な紫の光を放つ。
「外を見ろ。重傷を負い昏睡した神楽湊を、お前たちのために死んだ者たちを見ろ。苦痛、離別、衰老……それこそがお前たちの選んだ『人類の道』だ。私は、お前たちに永遠を与えようとしていたのだ」
部屋の紫の電弧は彼女の感情に呼応して狂暴化し、天井の部品が振動と共に落下する。
「進化を拒絶したというのなら、この旧時代の残骸と共に灰になるがいい」
曉は顔を上げた。手にした漆黒の長刀が紫の光を浴びて冷たく輝く。顔の血を拭い、その瞳に揺らぎは一切なかった。
「喋り終わった?」曉の声は大きくはなかったが、轟く電子音を貫いた。「味も、体温も、鼓動もない『永遠』なんて、一ミリも興味ない」
彼女は横に並ぶ**彩静、凜、今田**に目をやった。
「みんな、仮想世界で生きてる化け物に教えてやろう。何が人類の『絆脚石』なのかを」
メデューサの嘲笑混じりの宣告と共に、機密室の奥にある最後の合金ゲートが轟然と開いた。
重厚な足音と共に、五体の特型改造兵がゆっくりと姿を現す。もはや人間としての面影はなく、全身を銀白色の流体装甲で覆い、右腕には高周波振動ブレード、左腕には内蔵式ガトリング砲を備えている。その双眸にはメデューサと同じ紫の光が宿っていた。
「進化の路上のエラーデータを消去せよ」メデューサの声が響き渡る。
「エラーデータだと? ふざけんな!」凜が先制した。小柄な体でスライディングし、手に持ったサブマシンガンから怒りの火線を放つ。「今田、ついてきなさい!」
「おう!」今田慎一が叫んだ。顔は蒼白で足も震えていたが、今回は一歩も退かなかった。制式拳銃を構え、かつてない精度で凜を狙う左側の兵士の視界を制圧する。
戦闘は一瞬にして白熱化した。
彩静はすでに機密室上方の高架パイプへと駆け上がっていた。呼吸を整え、茶髪のポニーテールが風にたなびく。氷の彫刻のように冷静な彼女が持つ電磁狙撃銃のレーザーサイトが戦場を横切った。バン! 放たれた一発の弾丸が、改造兵の動力関節を正確に撃ち抜き、その動きを完全に凍りつかせた。
曉は漆黒の幽霊のごとく紫の電弧の中を駆け抜ける。その長刀はもはや単なる武器ではなく、意志の延長だった。彼女は壁を蹴って跳躍し、空中で冷徹な円弧を描いて、一人の兵士のメインセンサーを断ち切った。
「その肉身で、いつまで耐えられると思っている?」メデューサが狂笑し、四方の防衛塔から高圧レーザーが放たれる。
「あんたを地獄に送るまでは耐えてやる!」曉は空中で受け身を取り、突っ込んでくる兵士と正面から衝突する。
身体はとっくに限界を超え、左肩の傷からは血が滲み続けている。だが曉の脳裏に浮かぶのは、先ほどの感応で感じ取った――九死に一生を得た湊の呼吸だった。
これは世界を救うためではない。生きて帰り、あの男と、なんてことのないレモンティーを飲むため。
「全員、核へ収束せよ!」曉がチャンネルに最終指令を出す。「雑魚は無視して、冷却圧力バルブを狙え!」
五体の改造兵が四人を分断しようと包囲を狭める。しかし、トンネルの中で鍛えられたこの「絆脚石」たちは、メデューサのデータでは計算不能な強靭さを見せた。
今田は身を挺して凜に向けられた鋼鉄の腕を弾き飛ばし、腕の肉を大きく抉られても手を離さなかった。凜は反転して最後の手榴弾を兵士の装甲の隙間にねじ込み、彩静は高所から、曉をロックオンしようとするレーザーを狙撃で強引に遮断した。
四人は弾丸とレーザーの雨を突き抜け、ついに紫に光る人格マトリックスの核の前に辿り着いた。
三つの対称に配置された冷却圧力バルブが、目の前にある。
「準備……」曉は長刀を構え、その瞳に眩い光を宿した。「同時射撃!」
現実世界の機密室で激戦が続く中、人の目には見えないデータ次元でも、存亡を賭けたもう一つの戦争が佳境を迎えていた。
「これですべてだと思っているのか? 零」メデューサの歪んだ紫のデータストリームが、仮想空間で咆哮する。
現実の圧力バルブが揺らぎ始めたのを感じ、メデューサは賭けに出た。データ深層に封印されていた禁断の領域――かつてハリーが命を懸けて飲み込み、世界のネットワークを崩壊させかけた**「終焉(The End)」計画**の残骸を強引にこじ開けたのだ。
「進化を拒むのなら、この惑星の文明を完全にリセットしてやる!」メデューサは世界的なデータ崩壊を引き起こすウィルスプログラムを再起動しようとする。
『そうはさせないわ』
清廉だが、ハリーのような強情さを秘めた声が響く。**零(ZERO)**は純粋な白光と化し、混沌とした紫の奔流へと真っ向から衝突した。
「感情に汚染された劣等AIが、私を止められると思っているのか?」
『私の深層ロジックには、あなたには決して理解できないデータがあるからよ』
零の声が荘厳に響く。この瞬間、彼女の中に残されたハリーの「パーソナリティプログラム」が輝きを放った。それは冷たい0と1ではなく、ハリーがこの世界に抱いた愛着、零次や湊への信頼だった。
「これは『守護』という名の演算能力よ!」
仮想空間で、無秩序だった白いラインが瞬時に再構築され、無数のまばゆい光の矢となってメデューサの紫の核を貫いた。
二つの神級AIの力が正面衝突する。紫は冷酷な「進化」と「再編」を。白は現世への「執着」と「繋がり」を象徴していた。
「消えなさい。ここは、あなたのいるべき時代じゃないわ」
零は最後のエネルギーを爆発させた。刹那、白光が超新星爆発のように仮想領域を飲み込んだ。蠢いていた「終焉計画」の紅光は、白光に浄化され急速に霧散していった。
「馬鹿な……非科学的な……こんなことが……」
メデューサの困惑と憤怒に満ちた絶叫は、バックエンドで完全に断絶した。
機密室内の狂暴な紫の電弧が突如として凝固し、供給源を失ったかのように紫から白へ、そして完全に消灯した。
「バックエンドの権限を奪還したわ!」零の声が四人の通信に響く。疲弊してはいるが、無比にクリアな声だ。『メデューサの人格マトリックスは崩壊した。今よ、トドメを刺して!』
曉、彩静、凜、今田の四人は顔を見合わせた。
言葉はいらない。余計なカウントダウンも不要だ。
0.05秒の絶対領域の中で、長刀の斬撃、狙撃銃のレーザー、マシンガンの火網、拳銃のピンポイント射撃が、同時に中心へと収束した。
ドォォォォン!!!
冷却圧力バルブが轟音と共に弾け飛び、核の光球は四人の合撃によって完全に粉砕され、空を舞う青い蛍光へと変わった。
四人の攻撃は正確にバルブを貫き、火花が散り、部品が四散した。しかし、予想していた平穏は訪れなかった。逆に、地底からはさらに低く、耳をつんざくような鳴動が伝わってきた。
基地内部の警告灯が紫から赤へ、血が滴るような色に変わる。
「くそっ! なぜ? 自爆シーケンスが止まっていない!」零の声が耳元で弾ける。それはかつてない焦燥と挫折だった。
「何ですって?!」凜がマガジンを替えながら叫ぶ。「バルブは壊したじゃない!」
『メデューサが消滅する直前、物理的な起爆装置をロックしたのよ! システム外の機械的爆発だわ!』零の電子音が激しく明滅する。
『曉、右側のポケットを探って! 銀色のチップがあるはずよ!』
曉は一瞬戸惑い、戦術ベストの隠しポケットに手を入れた。指先に冷たく重い感触がある。取り出してみると、複雑な幾何学模様が刻まれた銀色のチップだった。戦乱の最中、いつの間にか「入れられていた」ものだ。
「あったわ! これをどうすればいいの?」
『メイン電源の横にあるデータポートに差し込んで! そこで私がファイアウォールを回避して、全演算能力を使って電力を制御し、連鎖爆発を止めるわ!』
曉に迷いはなかった。崩落するコントロール台に飛び乗り、レーザーと火花の中でスロットを見つけると、銀のチップを力いっぱい押し込んだ。
「零……」凜はマシンガンを握りしめ、震える声で問う。「今度は……ハリーや師匠みたいに、自分を犠牲にしたりしないわよね?」
通信チャンネルが0.1秒だけ沈黙し、その後、ハリーのような悪戯っぽさと温かみを含んだ零の答えが返ってきた。
『しないわよ。あなたたちの夢が叶う日を見るまでは……生きてるわ』
チップが青く輝くと同時に、基地全体の振動にわずかな遅延が生じた。
『ルートを更新したわ! 後方30メートル、油圧ドアが閉まりかけてる! 全員――走って!!』
四人は流星のような残影となって出口へ突進した。背後の天井が轟音と共に次々と崩落し、火の波が巨獣のように踵を追ってくる。
これは時間との競争ではなく、運命との格闘だった。
曉が最後尾を走り、視線は前方の、ゆっくりと降りてくる重厚な油圧ドアを射抜いていた。あの扉の向こうには、脱出した湊がいる。まだ開いていないレモンティーの店がある。ようやく奪い返した「平凡」がある。
「一人も欠けさせない!」曉が咆哮した。
狭い通路を火の波が狂ったように逆巻き、熱気が呼吸器を焼きにかかる。
先頭を走る彩静の身のこなしは燕のように軽やかだったが、最後の緊急脱出門に辿り着いた瞬間、その瞳が大きく見開かれた。激震によってドア枠が歪み、わずか20センチほどの隙間しか残っていなかったのだ。
「挟まってる!」
彩静は狙撃銃を投げ出し、細い指でドアの縁を掴んだ。茶髪が気流に激しく乱れる。壁に足をかけ、死に物狂いで押し広げようとするが、金属が軋む不快な音は、数トンの重扉が女性数人の力では到底動かないことを告げていた。
背後の爆発音はさらに激しさを増し、通路全体が大きく傾斜していく。
「どけ! 俺がやる!」
獣のような怒号が後ろから響いた。普段は気弱で「通行人」と呼ばれていた今田慎一が、今は目を血走らせ、雄牛のように突っ込んできた。
彼は彩静を突き飛ばすと、そのまま狭い隙間に体ごと割り込み、ドア枠を死守するように両手を突っ張った。
「あああああーーーー!!!」
今田の筋肉は限界を超えた負荷に激しく震え、首筋と腕には青筋が浮き出ている。食い込んでいた合金のドアが、彼の蛮力と意志に圧され、歯の浮くような音を立てて少しずつ、確実に押し広げられていった。
「行け!! 早く行け!!」今田が怒鳴り散らす。
曉、彩静、凜は躊躇うことなく、その命の隙間を潜り抜けた。最後尾の凜が通り抜ける際、振り返ると、今田の両手は爪から血が滲み、顔は酸欠で真っ白になっていた。
「今田! 手を離して!!」凜が悲鳴を上げる。
今田が手を離し、ドアを転がり抜けたその刹那――。
ドォン! ドォン!
巨大な爆発音が背後で連鎖した。押し広げた合金門は衝撃波で完全にねじれ、崩落した。
「走れ! 振り返るな!」曉が先導し、四人は瓦礫と断ち切られた鉄筋の中を駆け抜けた。
周囲は崩壊を続け、壁が落ち、配管が破裂する。死神の指先の上で踊るような逃走劇。零が示す緑の誘導ラインが塵の中で明滅する中、四人は生存本能だけを頼りに、地上を示す微かな光へと突き進んだ。
【自爆カウントダウン:0秒】
地下基地全体が、最後の一際重い轟音を上げた。
「……氷、入れるの忘れないでね」
ハリーの最後の悪戯っぽい囁きが耳に残っていた。神楽湊は、冷たい薬剤の感覚の中で、ゆっくりと、そして重々しく目を開けた。意識は深い海の底を漂っていたが、ようやく現実の縁を掴んだようだった。
白い天井を見つめるが、脳内はまだ断片的だ。
長い夢を見ていた気がする。夢の中で、彼は「湊」というコードネームの特級執行官で、毎晩暗いトンネルの中で命を懸け、鋭い瞳の少女と共に戦い、可愛い後輩たちもいて、死んだはずの親父にも会って……。
「ZERO-DELAY……? 冗談だろう……俺はただの、お茶屋の店主だ……」
湊は自嘲気味に呟いたが、その声はひどく掠れていた。
ドォォォォン!!
遠い地底から地響きが伝わり、医療テント全体が大きく揺れた。巨大な爆発音は重槌のごとく仮想の夢を打ち砕き、鮮血と硝煙、そして記憶を強引に彼の脳へと呼び戻した。
「夢じゃ、なかったんだな……」湊は胸の激痛に耐え、苦笑した。
その頃、硝煙立ち込める廃墟の縁で、四つの影がボロボロになりながら地表へと飛び出した。
曉、彩静、凜、今田。服は裂け、顔はオイルと血にまみれていた。今田の両手は極度の負荷でまだ震えている。彼らが安全圏に足を踏み入れたその瞬間、背後の地盤が完全に陥没した。メデューサの野心は、激進分子たちの進化の夢と共に、新宿の地底に埋められた。
四人はその壮観な破滅を振り返らなかった。
彼らの鼓動は今、ただ一つの目的のために刻まれていた。
混乱する救助隊の中を走り抜け、医療テントへと突き進む。入口で、今田、凜、彩静の三人は示し合わせたかのように、足並みを揃えて暖簾の前で止まった。
だが曉だけは、止まることができなかった。暖簾を跳ね上げると、ベッドに半身を起こし、胸を包帯で巻いてぼんやりと窓の外を眺める男が目に飛び込んできた。
すべての冷静さ、理屈、執行官としてのプライドが、この瞬間、完全に崩壊した。
「湊!!」
曉は泣きながら飛び込んだ。その勢いは、縫合したばかりの湊の傷口が開くのではないかというほど激しかった。彼女は湊の胸に顔を埋め、その細い体は激しく震え、涙は瞬時に湊の病衣を濡らした。
湊は、腕の中にあるこの確かな重みと体温を感じた。それはメデューサが決してシミュレートできない、人間の温もりだった。彼はゆっくりと手を挙げ、埃で汚れた曉の髪を優しく撫で、見慣れた――少し軽薄で、だが無比に温かい微笑みを浮かべた。
「遅かったな、曉」
曉は顔を上げ、涙に濡れた目で彼を睨みつけたが、言葉は一つも出てこなかった。
テントの外、朝陽がようやく早朝の霧を突き抜けた。
今田は泥の上に力なく座り込み、大きく肩で息をしていた。凜はフェンスに寄りかかり、黒いヘルメットを深く被って赤くなった目元を隠した。彩静はただ静かに立ち、茶色のポニーテールを風に揺らしながら、昇る太陽を柔らかな目で見つめていた。
三人は振り返り、瓦礫の山と化した基地の跡地を眺めた。
「俺たち……本当に、生き残ったんだな……」今田が独り言のように呟いた。その声には不器用なほどの幸福感が宿っていた。
「そうね、通行人先輩」凜は今回は毒を吐かなかった。代わりにポケットから少し温まった缶の紅茶を取り出し、今田に投げた。「生き残ったからこそ、こんな不味いケミカルな飲み物を飲む資格があるのよ」
今田は紅茶を受け取り、遠くを見つめた。彼は知っていた。今日から、自分は誰かの後ろに隠れているだけの見習いではなくなり、そしてこの仲間たちもようやく、終わりのないトンネルから、陽の当たる場所へと辿り着いたのだということを。




