激戦の継続
指揮センター内の空気は氷點下まで冷え込んでいた。巨大なホログラムスクリーン上では、各チームの位置を示す緑の光点が不安定に点滅し、東側エリアの信号にいたっては背景ノイズと見分けがつかないほど微弱になっていた。
神宮寺司司令は眉をひそめ、コントロールパネルを苛立たしげに指先で叩いている。当初の計画であったニューヨーク部隊による背後からの挟撃は、予定を大幅に下回る進捗だった。
「ニューヨーク部隊はどうなっている? なぜまだ後方防衛線を突破できないんだ?」司令が低い声で問う。
「報告します、司令。ニューヨーク支部は予想外に大量の改造兵による伏撃を受けています」ハリーの球体端末の赤光が激しく明滅し、前方から送られてくる情報を驚異的な速度で処理していく。
「メデューサは後方に、未確認の『重装バイオ獣』を配備していました。ニューヨーク部隊は攻めあぐねています」
「このままではまずいな」司令は深く息を吐き、画面上で苦戦を強いる凜と今田、そして瓦礫の山に閉じ込められた台北チームに目を向けた。「東側と南西側の穴を繋げなければ、特級執行官たちはメデューサに各個撃破される」
「司令、ボクがボスのシステムに潜入して見てこようか?」ハリーの声が、突如として異常なほど冷静になった。
「ダメだ! 危険すぎる」司令は即座に拒絶した。
「メデューサのファイアウォールは対AI用の罠だ。ハリー、今の我々に君を失う余裕はない。君はこの戦いの演算中核なんだ」
「大丈夫だよ、司令」ハリーの仮想イメージ――野球帽を被ったあの少年は、自信と、そして微かな覚悟を孕んだ微笑を浮かべた。
「さっき計算したんだ。メデューサがボクの中核に大量の特化型変異ウイルスを同時に流し込まない限り、93%の確率で無事に帰還できる。そんな壊滅的な侵入が起きる確率は、たった7%程度だよ」
司令はスクリーン上で跳ねるバイタルデータを見つめた。一秒ごとに、執行官たちの生存率は低下している。
「……分かった」司令は目を閉じ、再び開いた時の瞳には絶対的な決意が宿っていた。「任せたぞ、ハリー。何か異常があれば、即座に接続を断て」
「了解。ダイブ開始」
ハリーの意識は金色の閃電と化し、幾重にも重なる深淵のような暗黒のファイアウォールを瞬時に貫いた。
ここは現実世界とは違い、硝煙はない。あるのは果てしなく続く冷たい紫色のコードと、冷徹なロジック・トラップだけだ。ハリーは驚異的な速度で防衛線を次々と追い抜いていった。
ハリーの判断は極めて的確だった。バックエンドに侵入した彼は、あたかも軽巧な金羽の鳥のように、鈍重で悪意に満ちた紫色のコードの間をすり抜けていく。
メデューサのウイルスシステムは膨大だが、その論理基盤は大規模なデータ衝突に対応するためのものであり、ハリーのような高度な自律人格と微視的な干渉能力を持つ進級AIを想定したものではない。絡みつこうとするコードの罠に対し、ハリーが指先を軽く弾けば、数条の金色のエンコードが流星のごとく飛び出し、やすやすと脅威を解体した。
「この程度なの? メデューサ」ハリーはデータの深淵で低く呟く。その眼差しには、外見に似つかわしくない鋭さが宿っていた。「扉を……開けて!」
外で足止めを食らっていたニューヨーク部隊は、この時まさに『重装バイオ獣』の狂暴な反撃に遭っていた。小米切爾が持つ散弾銃の薬莢が地面に散らばり、隣の戦友が次々と倒れ、防衛線は崩壊寸前に見えた。
「クソッ! この化け物ども、キリがねえ!」ミッチェルは顔の血を拭い、最後の特攻を仕掛けようとしていた。
その瞬間、戦域全体の空気が凍りついたかのように止まった。
ゥゥゥン――!
目を刺すような金色の光が、パルスのように戦場をなぎ払った。狂暴化していたすべての改造兵とバイオ獣の体が同時に硬直し、その瞳にはハリーと同じ金色のデータストリームが明滅した。直後、怪物たちの放熱システムから耳を刺すような悲鳴が上がり、一斉にロジック・デッドロック(Hard Lock)に陥ってフリーズした。
「これは……ハリーか?」ミッチェルは一瞬呆然としたが、すぐに怒号を上げた。「ニューヨーク部隊! 今だ! 全速前進! あのガキが作ってくれた時間を無駄にするな!」
東部戦場もまた、ハリーの強力な介入によって奇跡的な空白が訪れた。凜と今田を包囲していた自動砲台は一斉に壁の方へと向きを変え、防衛システムの自壊音が次々と響き渡る。
鼓膜を揺らしていた銃声がぴたりと止み、後に残ったのは今田の重く、途切れがちな呼吸音だけだった。
凜は銃を握り、胸を激しく上下させている。彼女が振り返ると、血の海の中にへたり込む今田の姿があった。腹部の傷からは未だ血が滲み、肩と腕は黒く焦げた擦過傷で覆われている。普段はこれ以上なく平凡に見えるその顔も、今は失血のために紙のように真っ白だった。
「ねえ……通行人先輩」凜の声は震え、手にしていたサブマシンガンがこぼれ落ちそうになる。
戦場では一度も見せたことのない「動揺」が、この時、彼女の冷徹な防衛線を完全に打ち砕いた。今さっき自分の前に立ちはだかった今田の背中を、彼が口にした不器用な約束を思い出した。
「凜……先に行け……俺のことは構うな」今田は顔を上げ、笑おうとしたが、代わりに鮮血を吐き出した。
「黙りなさい! この気の短いバカ。生きて帰るって言ったじゃない!」
凜は猛然と銃を収め、今田の腕を抱え上げた。彼女は突破してきた後続の支援部隊を見据え、冷徹に命じる。
「全員、このまま南西方向へ浸透を続けなさい! 隊長と合流して!」
それから彼女は誰の目にも触れないよう、断固とした口調で通信機に告げた。
「零、私はこいつを近くの緊急医療区へ運ぶわ。医療カプセルにぶち込むまで、私は一歩もこいつの側を離れないから」
【司令部コントロールルーム】
「よくやった、ハリー!」司令はニューヨーク部隊の進捗ゲージが猛烈に跳ね上がるのを見て、思わず喝采を送った。
しかし、ハリーの信号は安定しているものの、その演算負荷は緩やかに上昇を続けていた。
「司令、メデューサにボクが見つかった」ハリーの声は依然として冷静だが、モニター上の金色の光には、不安を誘う紫紅色の混じり気が現れ始めていた。
「奴は残りの算力7%を動員して、ボクを『全域抹殺』しようとしてる。今のうちに奴の自爆スイッチをロックするよ」
「ハリー、戻れ! 目的は達したはずだ!」
「まだだよ……明と星玲の扉を、もう一押ししなきゃ……」
高空の気圧は窒息しそうなほど低く、彩静と梟の戦いは、最も原始的で残酷な段階へと突入していた。二人の足元のコンクリート床は、紫と青の電磁火花によって既に無残に焼き尽くされている。
ガキィィン!
二振りのタクティカルナイフが空中で激突し、散った火花が二人の冷徹な瞳を照らし出す。彩静は両腕に伝わる激しい振動を感じていた。梟は細身だが、その瞬発力は驚異的で、一振り一振りに必殺の意志が込められている。
「遅いよ、青!」梟は彩静の横薙ぎをかわし、紫の電磁ナイフが彼女の防弾ベストを裂いた。焦げた跡が黒く残る。
彩静の瞳が鋭く光り、体を探るように捻ると、空中で腰の力を使って強引に体勢を変換。返しの肘打ちを梟の鎖骨に叩き込んだ。
ドン!
二人は同時にうめき声を上げ、激しい肉弾戦の反動で互いを突き放した。
彩静は冷たい床を数メートル滑り、ナイフを床板に突き立ててようやく止まった。呼吸は荒くなり、茶色のポニーテールは乱れ、滴る汗が足元の冷え切った鉄骨に落ちる。
対する梟も同様だった。片手を地面につき、口角から一筋の血を流している。水色の髪は月光の下で妖しく乱れていた。彼は低く笑いながら、病的なまでの熱狂を孕んだ眼差しを彩静に向けた。
「さすがはボクが焦がれた相手だ……でも、集中できてないよね? 下のゴミ共や、死に損ないのAIのことが心配なのかな?」
彩静はゆっくりと立ち上がった。彼女の視界の端には、指揮センターから届いたデータ警告――ハリーの負荷が限界点に達しつつあることが映っていた。
「あの子はゴミじゃない。私たちの家族よ」彩静の声は恐ろしいほど静かだった。彼女は再びナイフを構え直すと、もう一方の手を、すぐ近くに落ちていた狙撃銃のマガジンへとそっと伸ばした。
「それに引き換えあんたは……ただのメデューサに操られた欠陥品よ」




