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ZERO-DELAY  作者: WE/9
最後のバッファ

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74/88

出発前

東京支部執行官宿舎。


この鋼鉄の要塞が最終戦備段階へと移行する直前、世界には極めて短い静寂が保たれていた。


**彩静サイジョウ**はベッドの中で目を開けた。


いつもならアラームが鳴る前に飛び起きる彼女だが、今は静かに横たわったまま、天井の細かな紋様を見つめ、やがてゆっくりと顔を向け、窓から差し込む微かな朝光を眺めた。


窓の外の東京は、青灰色の霧に包まれている。高層ビルの輪郭はぼやけ、巨大な墓標のようでもあり、あるいは誕生を待つ揺り籠のようでもあった。


昨日、夜市の射撃ゲームで手に入れた「戦利品」――山のようなぬいぐるみやアクセサリーが、今は部屋の隅に静かに積み上げられている。モデルルームのように空っぽだったこの部屋も、これら無用の可愛いものたちのおかげで、ようやく僅かな「生活」の息吹を感じさせていた。


「もし明日、私が二度と戻ってこれなかったら……」


彩静は起き上がり、両手で膝を抱えた。その声は風のように軽い。


彼女の脳裏に、断片的な映像が過ぎった。久しく会っていない母が家のリビングで自分の写真を見て泣いている姿。学校で自分に穏やかな微笑みを向けてくれた友人たちが、ニュースの死傷者リストを見て顔を覆い泣いている姿。


天才スナイパーであり、無表情な「アオ」であっても、彼女もまた一人の20歳の少女に過ぎない。


「少なくとも……私のために泣いてくれる人がいる。それも悪くないわね」


彼女の口元に、自嘲気味でありながらも優しい弧が描かれた。トンネルの中で死ぬことを前提としている執行官にとって、世界に記憶され、誰かに涙を流してもらえることは、ある種の贅沢な「円満」なのかもしれない。


彼女は感傷を振り払い、その瞳に静水のような落ち着きを取り戻した。


彼女は手慣れた動作でドレッサーのヘアバンドを手に取り、トレードマークの茶色い長髪をポニーテールに結い上げる。バンドが締まるにつれ、内面の最後の動揺もまた、心の奥底へと封じ込められた。


カチャリ。


ドアが開き、彩静は廊下へと踏み出した。


「最後の訓練であっても、私は二度とミスをしない」


誰もいない廊下へ、そして通信リンクの先にいる**零(ZERO)**へ、彼女は告げた。それは自惚れではなく、仲間への、そして自分が夢見る「静かな緑地」への、狙撃手としての最終的な誓いだった。


彩静が射撃場に到着した時、彼女は一番乗りではなかった。


**ミッチェルJr.**は汗を流しながら巨大な散弾銃をメンテナンスし、**今田イマダリン**の近距離クイック射撃訓練に付き合っていた。**ミン星玲シンリン**は傍らに座り、爆薬の雷管を一つ一つ入念に点検している。


誰もが自分なりのやり方で、この世界への「最後の別れ」と「最強の武装」を行っていた。


「よう、彩静」ミッチェルが顔を上げ、白い歯を見せて笑った。


「昨日の夜市じゃ無双したらしいな? 今日の訓練で俺の的まで撃ち抜かないでくれよ」


「善処するわ」彩静は淡々と答え、狙撃銃を構えた。


スコープ越しに見えるのは単なる的ではなく、二週間後の未来、仲間と共に横たわりたいあの芝生だった。


シミュレーションルーム内では、濃厚なジャミング霧が渦巻いている。電磁干渉粒子を混ぜた擬似環境が、執行官の極限状態における直感を試す。


彩静は狙撃銃を構え、高台に伏せて微動だにしない。呼吸のリズムを極限まで落とし、一息一息が空気を濾過するように静かだ。


下方では、凜がぼやけた黒い影となって霧の中を駆け抜けていた。サブマシンガンのマズルフラッシュが時折光り、機械の粉砕音が響く。凜の戦闘スタイルは常に荒々しく極致。絶対的な破壊力を追求し、防御を捨てた「神速」だ。


迷いなく突進する凜の背中を見て、彩静の脳裏に以前、**アキラ**から言われた言葉が蘇った。


「あんたたちのチームが『防御より攻撃』の凜を中心に据えるなら、唯一の遠距離火力であるあんたは常に警戒を怠っちゃダメ。たとえAIのサポートがあっても、超近距離の乱戦じゃ、生死は一瞬で決まるわ」


曉の言葉が棘のように、正確に彩静の心に刺さった。


その距離では、AIの演算がどれほど速くとも、敵の死に際の反撃を追い越せない。もし狙撃手が決定的な瞬間に0.1秒でも躊躇えば、最前線に立つ凜が最初の犠牲者になる。


「彼女が防がないというのなら……」


彩静の指先がトリガーに触れ、機械の冷たさを感じる。


「私が彼女の装甲になるまでよ」


スコープに映るのは光学映像ではなく、霧を透過して感知した熱源信号。その瞬間、残骸に擬装していた訓練用ロボットが凜の死角から飛び起き、腕部のブレードが彼女の背後へ振り下ろされようとした。


凜は前方の三体の目標に集中し、この零距離の奇襲に全く気づいていない。


「――ドン!」


鈍い銃声が密閉された室内に響き渡る。


一発の徹甲弾が凜のポニーテールの端を掠めて飛び、正確にロボットのコアを撃ち抜いた。金属片が飛び散り、残骸は凜のわずか50センチ手前で沈黙した。


不意の射撃に驚いて足を止めた凜は、煙を上げる鉄屑を振り返り、高台の彩静を見上げて、少し不器用ながらも信頼に満ちた笑みを浮かべた。


「いい腕ね、彩静姉さん!」


彩静は答えず、手慣れた動作でボルトを引き、熱を帯びた空薬莢を排出した。瞳は氷のように冷静だが、その鼓動は一瞬の集中のために激しく波打っていた。


「……これが私の職務よ」


高強度のシミュレーション対抗は4時間続き、空気には濃厚な硝煙の匂いと汗の湿気が満ちていた。「訓練終了」の緑ランプが点灯すると、少女たちは支え合うようにして更衣室へと入った。


今、普段の冷徹な空気は疲労後の弛緩した感覚に取って代わられている。


曉はベンチに座り、痺れる手を伸ばして優しく凜のヘアバンドを解いた。汗で首筋に張り付いた黒い長髪が零れ落ちる。凜は疲れ果てた子猫のように曉に身を委ね、「明日は絶対にあいつらを全員バラバラにしてやる」と毒づいていた。


彩静はロッカーに寄りかかり、少し顔を上げてポニーテールを乱したまま、スポーツ飲料を喉に流し込んでいた。激しく上下する胸元が、高台での体能消費が突撃組に劣らぬものだったことを物語っている。


「ねぇ、彩静」星玲がタオルを絞りながら不意に振り返った。その瞳はゴシップへの期待に輝いている。


「明日はいよいよ大戦だけど……もしこの戦いに勝ったら、好きなタイプとか、付き合いたい人っている?」


彩静の手が止まった。ボトルをゆっくりと下ろす彼女の瞳に動揺が走り、運動後の熱、あるいはその質問のせいで、頬が薄紅く染まった。


「私……」彼女は少し躊躇い、先ほどスコープ越しに見た、共に戦う仲間たちの姿を思い浮かべた。


「ただ……安心させてくれる人なら、それでいいわ」


「おーっ、『安心感』ね。それは範囲が広いわねぇ」星玲はいたずらっぽく笑い、曉と顔を見合わせた。女性同士にしか分からない深い眼差しを交わす。


その頃、彼女たちが気づかぬ更衣室の監視モニターの裏側では(もちろん映像はプライバシー処理されているが)、二つのAIが建設性のない会話をしていた。


「いやぁ……データ波形だけだけど、この空間、パラメータを見ただけでいい香りがしてきそうだね、ハリー」**零(ZERO)**が雅痞ヤッピーなオヤジのような口調で、満足げな感嘆を漏らす。


「ふん」ハリーの球体端末が軽蔑を込めて赤く明滅した。「僕のイメージ設定は10歳だけど、そんな卑猥な表情や発言はしないよ。君みたいな20歳の設定のやつは、中身がまるでスケベジジイだね」


「あーあ、君はまだ青いな。この『戦前の静寂』の美学が分からないなんて。坊や」零は平然とからかう。


「誰が坊やだ! 僕の演算規模は君の1.5倍はあるんだぞ!」ハリーはムキになって電子音を尖らせた。


一方、男子更衣室の空気は対照的だった。


**十七(SEVENTEEN)**は二人の言い合いには加わらず、不愛想なホログラムとして明と湊のロッカーの間に静かに投影されていた。


男たちに無駄話はない。**ミナト**は上半身を露出し、肩から背中にかけて彫刻のように引き締まった筋肉を見せている。それは幾度となく死地を潜り抜けてきた証明だ。明は腕の擦り傷を処置しており、若くも逞しい筋肉が爆発力を秘めて光っている。


十七は黙々と二人の筋肉の張力とコルチゾール値をスキャンしていた。


「神楽隊長、明の筋肉疲労度が予想を上回っています」十七が冷静に告げる。


「気にするな、こいつはタフだ」湊は笑って明の肩を叩いた。「だろ、台北のエース?」


「当然です。これくらい、ウォーミングアップにもなりませんよ」明は息を切らしながらも、その眼差しは鋭かった。


ホールの灯りが柔らかなスタンバイモードに切り替わる。湊、明、今田の三人は自動販売機の前に並び、缶が落ちる「ガコン」という音が静かな回廊に響いた。


三人はそれぞれアイスコーヒーやエナジードリンクを手に、手すりに背を預けて下のラウンジを見下ろした。


二階からの視点では、更衣室での温かい雰囲気がそのまま続いていた。


星玲は相変わらずのバイタリティで彩静の周りを賑やかに動き回り、身振り手振りで何かを話している。彩静は無表情ながらも、缶を手に少し首を傾けて耳を傾ける姿に、清廉な気質の中にも稀な優しさが滲んでいた。


もう一方では、曉が菓子箱から小さなケーキを取り出し、凜の口元へ運んでいた。戦場では冷酷な凜も、今は手懐けられた小動物のように素直に口を開け、頬を膨らませて幸せそうに咀嚼している。


この光景は、これから立ち向かう硝煙と血に塗れた暗いトンネルとは、まるで別世界のようだった。


「……平和だなぁ」


今田は下の凜の幸せそうな顔を見て、訓練で強張っていた肩の力を抜いた。昨日のクレーンゲームで彼女の頭を撫でた時の手のひらの熱が、まだ残っている気がした。


「ああ」明がコーヒーを一口飲み、星玲に視線を固定したまま力強く言った。


「台北にいた時は、戦いとは敵を倒すことだと思っていた。でもここへ来て気づいたんだ。戦いとは、この声をずっと響かせ続けるためにあるんだって」


湊は手すりに寄りかかり、曉が凜の口元の食べ滓を拭ってやる姿を見つめ、瞳の奥に複雑で深い慈しみを宿した。彼は何度も死に直面し、名もなきトンネルで倒れる自分を想像してきたが、今、隊長としての自覚がかつてないほど強く燃えていた。


「明日のために、しっかり備えよう」


湊は低いが拒絶できない力強さで言った。二人の戦友を見やり、自信と覚悟に満ちた笑みを浮かべる。


「俺たちの存在意義の一つは、あいつらの日常を守ることだ。もし地獄に踏み込む必要があるなら、俺たちが道を切り開き……そして必ず、あいつらを無事に連れ帰る」


三つの金属缶が空中で軽くぶつかり、乾いた音を立てた。それは祝いではなく、死地へ赴く男たちの、最も寡黙で重い約束だった。


【大戦当日:午前05:30 執行官整備エリア】


一日の中で最も冷え込む時刻、新宿の地下全体がこれから始まる殺戮を予感して震えているようだった。


隊長専用の整備室には、ガンオイルと冷却液の匂いが漂っている。湊と曉はそれぞれのタクティカルベストの装備を確認していた。曉は腿のホルスターを調整し、無駄のない動きを見せる。


「曉」


「何?」曉は顔を上げずに答えた。


次の瞬間、黒い影が奔った。湊は驚異的な瞬発力で距離を詰め、曉が反応する前に片手でロッカーを突き、彼女を金属の扉に押し込めた。


「何するのよ?」曉は一瞬驚き、反射的に警戒の目を向けたが、すぐに呆れ顔になった。


「キスしようぜ」湊は雅痞ヤッピーな微笑みを浮かべ、顔を近づけた。熱い吐息が曉の頬を打つ。


「だ、ダメよ……今朝だってもうしたじゃない」曉は顔を背けた。耳元が熱い。部下に見られでもしたら、副隊長としての威厳が崩壊する。


「いいだろ、一回くらい。隊長殿」湊の声は低く、抗いがたい磁力を帯びていた。彼は少し目を伏せる。


「これは俺の出発前の『起動ルーチン』なんだ。命令を実行しないとシステムがフリーズしちまう」


曉が反論する間もなく、湊は強引に唇を重ねた。それは硝煙の匂いと絶対的な独占欲を孕んだ深いキスであり、互いの生命力をその一瞬に融合させるかのようだった。


しかし、この基地の防音性能は、感覚の鋭い執行官相手には心許なかった。


隣の小型整備室では、今田と凜が死ぬほど気まずい沈黙に陥っていた。ロッカーがぶつかる音や、顔が赤くなるような微かな水音がはっきりと聞こえてきたからだ。


凜は改造サブマシンガンを握ったまま、手が空中で固まっていた。黒い鴨撃帽を深く被り、真っ赤に染まった顔を必死に隠そうとしている。


今田は、普段はあんなに刺々しい凜が、今これほどまでに少女らしい一面を見せていることに、心臓が激しく脈打つのを感じた。彼は唾を飲み込み、魔が差したように口を開いた。


「凜、あの……僕たちも湊先輩のルーチン、真似してみる?」


「あんた……死にたいの?」


凜は猛然と顔を上げた。眼差しは刀のように鋭いが、震える睫毛が内面の混乱を露呈させている。


「いや……一度くらい、いいじゃないか。明日何があるか分からないんだし……」


今田は勇気を振り絞り、一歩踏み出した。


「嫌よ!」


凜は反射的に叫び、まるで怪物から逃げるようにドアへ向かった。


だが、冷たいドアノブに手をかけた瞬間、彼女は足を止めた。


今田に背を向けたまま、小柄な体を引き攣らせ、帽子の下から蚊の鳴くような、だがかつてないほど真剣で強情な声を絞り出した。


「……そんなこと、あんたが生きて帰ってきてからにしなさいよ」


それだけ言うと、彼女は今田に追われるのを恐れるように、脱兎のごとく整備室を飛び出していった。


後に残された今田は、呆然と自分の唇に触れ、それから人生で最も晴れやかな(そして間抜けな)笑顔を浮かべた。


半時間後、全執行官がロビーに整列した。


湊は口元を拭い、曉は帽子を深く被り直して冷徹な顔に戻り、今田の眼差しにはかつてない決意が宿り、そして凜は誰とも視線を合わさないよう手元の銃を凝視していた。


「零(ZERO)、戦場同期を開始」湊が最後の指令を下した。


「了解。全システムオンライン。皆様……良い狩りを(ハッピー・ハンティング)」



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