休憩時間
【東京某所:今田の自宅マンション】
そこは、典型的な少し雑然としながらも生活感の漂うアパートだった。掃き出し窓から木目のフローリングに陽光が差し込み、空気中には硝煙の匂いではなく、微かな薬水の香りが漂っている。
「うっ……あぁ! 痛い! 九条、お前あんなに知能指数高いクセに、ちゃんと換装のレクチャー動画見たのかよ?」
**今田**はソファに半身を預け、五官を歪めて痛みに耐えていた。
**凜**はソファの脇にしゃがみ込み、いつも被っている黒い鴨舌帽を無造作にローテーブルへ放り出していた。彼女は不器用な手つきでテーピングを剥がしていく。戦場で引き金を引く時はあんなに安定している細い指先が、今は緊張で微かに震えていた。
「もうっ! 文句言わないでよ、すぐ終わるから!」凜は顔を赤くして言い返したが、手の力加減は無意識に少し優しくなった。彼女が紛れもない天才であることは疑いようもないが、医務の訓練は明らかに彼女の天賦の才には含まれていなかったようだ。
「さっきの一撃、マジで皮ごと剥がされるかと思った……」今田が弱々しくツッコミを入れる。
「うるさい! これ以上騒ぐなら、ホッチキスで直接傷口を留めてやるからね!」
凜は鋭い目付きで彼を睨んだが、彼の腹部にある暗褐色の傷跡を見つめるその瞳の奥には、一筋の罪悪感がよぎっていた。
ようやく処置を終え、凜は手に残った粘着剤を払い落としながら、暗くなり始めた空を見上げた。
「ねえ、今田。お腹空いた? 私が何か作るわよ!」
今田は呆気にとられ、「本気か?」と言わんばかりの視線を彼女に向けた。
「正気か、九条? お前……これまでの人生で料理なんてしたことないだろ?」
「失礼ね、誰をバカにしてるの?」凜は両手を腰に当て、誇らしげに胸を張った。「私は16歳で大学を卒業したのよ。脳の演算能力は常人の数倍。料理なんて、熱力学と化学反応の組み合わせじゃない。何が難しいのよ?」
――10分後。
キッチンからは、**零(ZERO)**が警報を発するレベルの焦げ臭い匂いが漂ってきた。
「なんで水が沸騰しただけで吹き出すのよ……この鍋の底、なんで黒くなってるの!? 卵の受熱点が不均一すぎるわ!」凜は美杜莎の急襲部隊を相手にしているかのように、必死の形相でフライパンを振り回していた。
その惨状を見かねて、今田はため息をつき、腹部の引き攣れるような痛みをこらえながら壁を伝って立ち上がった。
「分かった、お前はもう休め。俺がやる」今田は凜の背後に回り、静かに告げた。
「でも、あんたは病人でしょう……」凜は振り返った。その声には悔しさと落胆が混じっていた。
失敗して肩を落とす彼女の姿を見て、今田は思わず笑みをこぼした。彼は手を伸ばし、少し大胆にも、凜の黒く艶やかな頭をぽんぽんと数回叩いた。毛を逆立てた子猫をあやすように。
「キッチンも俺の戦場なんだ、九条執行官。お前は援護に徹してろ」
30分後、湯気が立ち上る色鮮やかなラーメンが二つ、テーブルに並んだ。
今田の料理の腕前は、まさに奇跡と言えるものだった。凜が最も嫌う椎茸を完璧に避け、透き通った昆布の出汁をベースに、柔らかいチャーシューを添えてある。
凜は恐るおそるスープを一口啜ると、即座に目を輝かせた。基地でも、戦場でも、そして誰の前でも見せたことのない、一人の少女としての純粋で幸せそうな笑顔を浮かべた。
「……美味しい」彼女はうつむき、ズルズルと勢いよく麺を啜りながら、くぐもった声で呟いた。「通行人先輩のクセに、盾になる以外にもこんな機能があったなんてね」
「これが俺の核心的競争力だからな」今田は彼女の笑顔を見つめ、腹部の痛みが少しだけ和らいだような気がした。
静かな東京の夜。任務もなく、AIの指令もない。ただ二人と二つのラーメン、そして包帯の下で密かに発酵していく、甘いお菓子よりも中毒性のある鼓動だけがあった。
温かな灯りの下、ラーメンの湯気はすでに消えていた。
凜はリビングのソファで丸くなり、規則正しく微かな寝息を立てていた。普段はプライドが高く刺々しい彼女の横顔も、今は眠りの中で驚くほど柔らかい。ここ数日の緊張の糸が切れたことと、今田の「奇蹟」の一杯による安らぎが、この天才射撃手の警戒心を完全に解かせたのだろう。
「やれやれ、どっちが看病されてるんだか」
今田は傷の痛みをこらえながら、苦笑いして首を振った。彼は厚手の毛布を持ってくると、極めて慎重な動作で凜の体に掛けた。熟睡する彼女の顔を眺めながら、今田はカーペットの上に座り込み、執行官人生の中で極めて稀なこの平穏を噛み締めていた。
彼は知っていた。この平穏が、未来の戦火を前借りして得たものであることを。
【ZERO-DELAY 本部:模擬戦術室】
その頃、本部の地下は氷のように冷たい空気に満ちていた。
シミュレーター内のホログラムが激しく明滅し、銃声と火光のエフェクトが室内の闇を何度も塗り潰していく。**彩靜**は射撃台に伏せ、茶色のポニーテールを汗で滲ませ、首筋に張り付かせていた。しなやかな両腕で銃をしっかりと構えるその瞳には、自虐的とも言えるほどの執念が宿っていた。
モニターには、あの日、埠頭での大戦の映像が狂ったようにリピートされていた。特に、今田が被弾したあの数秒間が。
「後藤執行官、このシナリオの完璧な達成はこれで80回目です」
**零(ZERO)**の合成音声が空虚な室内に響く。そこには珍しく、論理的な諫めの色が含まれていた。
「データによれば、あなたの反応速度は当日より0.12秒向上し、殺傷効率は15%上昇しています。この任務の難易度があなたの平均水準を遥かに下回っていることは明白です。一つのミスを悔いて体力の限界まで自分を追い込む必要はありません」
「黙って、零」
彩靜の声は低く、掠れていた。彼女は再びボルトを引き、金属同士がぶつかる鋭い音を静寂の中に響かせた。
「もしその0.12秒が現場にあれば、今田は怪我をしなかった。データは冷たいけれど、傷跡は本物なの」
彩靜は再び引き金を引き、仮想の敵が崩れ落ちる。彼女は曉に言われたことをよく理解していた。重圧に耐えなければならないと。だが彼女にとって、その重圧は適応するためのものではなく、「絶対的な完璧」によって粉砕すべきものだった。
「もう一回」彼女は冷たく命じた。
「……後藤執行官の心拍数の異常上昇、残り体力を12%と検知」零は一秒の沈黙の後、強制的に投影を遮断した。
「シミュレーションを強制終了します。他の執行官が外で長くお待ちです。直ちにシャワーを浴びて、就寝することを推奨します」
彩靜は呆然としたまま、射撃の姿勢を崩せずにいたが、やがて強張った肩の力をゆっくりと抜いた。微かに震える指先を見つめる。心の中にある「自責」という名のブラックホールは、80回の成功を経ても、僅かたりとも小さくなってはいなかった。
窓外の雨は、重苦しく降り続いていた。細かな雨粒がガラスに滲んだ筋を描いていく。
目を覚ました凜は、すぐに鴨舌帽を被ることはしなかった。そのまま長い髪を流した姿で、今田とソファに並んで座った。二人の距離は、雨の日の肌寒さの中で互いの体温を感じ取れるほどに近かった。
「九条……」今田は窓の外を見つめながら、普段は見せない真剣な口調で切り出した。「前にお前に聞かれただろ。なんで死ぬほど怖いクセに、いつもお前の前に出るのかって」
凜は振り向かなかったが、膝の上で重ねていた指が僅かに動いた。
「お前が誰よりも強いって知ってるけど、誰よりも自分を追い詰めやすいことも分かってるからだ。お前が安心して突っ走れる後ろ盾になりたいんだよ。傷ついた姿じゃなくて、あの鋭いお前の目を見ていたいんだ。だから、俺は……」
今田は顔を向け、凜の横顔を深く見つめた。距離が縮まるにつれ、空気中には「告白」という名の焦燥感が満ちていく。その「好きだ」という言葉が唇から零れ落ちる寸前――。
凜は不意に細い指を伸ばし、今田の唇をそっと押さえた。
「続きは、あんたの怪我が治ってからにしなさい」
彼女の声はとても静かだったが、拒絶を許さない優しさがこもっていた。鋭いその瞳は今田の影を映し出し、もはや氷のような冷たさはなかった。
今田は一瞬呆気に取られたが、やがて残念そうに、けれどどこか晴れやかな笑みを浮かべた。しかし、彼は退くどころか、何かを確かめるように、少しだけ凜の方へと寄り添った。肩と肩がぴたりと触れ合う。
凜は、どんどん図々しくなる「通行人先輩」を見て、口角を微かに上げ、呆れながらも愛おしそうな笑みを零した。
「あんたって人は……いつも私を隅っこに追い詰めるんだから」
彼女は避けなかった。代わりに、そっと今田の肩に体を預けた。雨の音はこの瞬間、最高のBGMとなり、二人の鼓動を静かにシンクロさせていた。
【ZERO-DELAY 本部:浴室】
浴室には湯気が立ち込め、空間を半透明の白い霧で満たしていた。彩靜はシャワーの下に立ち、熱い湯がうなじの曲線に沿って流れるに任せていた。茶色の長い髪が、濡れて白皙の背中に張り付いている。
彼女はいつも身に着けていた制服を脱ぎ捨て、そのしなやかな腕を露わにしていた。過度な訓練によって、指の関節は赤く上気している。湯に洗われるその優雅で、すらりとした力強さを秘めた少女の体は、水霧の中で見え隠れし、さながら未完成の芸術品のようだった。
「ねえ、零」彩靜は静かに呼びかけた。タイルの壁に反響するその声には、普段は決して見せない疲労が混じっていた。
「……ここにいます、後藤執行官」
零の返答は、通常よりコンマ5秒遅れた。本部のバックエンドプロセッサでは、数万の論理スレッドが異常な高温状態に陥っていた。
「迷っているの?」彩靜は目を閉じ、瞼を打つ水滴の重みを感じながら問うた。「私の心拍の乱れを検知して、視覚センサーを強制終了させるべきか考えているんでしょう?」
「……肯定します」
零の電子音声には、擬人化された戸惑いのような響きがあった。論理アルゴリズムに基づけば、女性執行官のプライバシー保護のため、即座に光学レシーバーを遮断すべきである。しかし、執行官の生理状態を監視するAIとして、過度な練習による筋肉の震えや血圧の異常を検知した今、最高精度の監視を維持しなければならないという矛盾に直面していた。
さらに深層の、零自身にも説明できないコードの撹乱があった。彩靜の肌を流れる水滴の軌道を解析する際、プロセッサの演算速度が非論理的な跳ね上がりを見せていたのだ。
「視覚を切ったら、私の疲労データは分析できないわよね?」彩靜は向きを変え、湯気の立ち込める虚空を見つめた。あたかもそこに、零の本体が存在するかのように。
「左様です。しかし、《核心プロトコル》第四条『保持人性(人間性を保て)』に基づき、私はあなたのパーソナルスペースを尊重すべきです。ですが……現在のデータでは左肩の靭帯に3%の断裂リスクがあります。私は……最低限の熱源感知による監視の維持を推奨します」
零の声は、どこか窮屈そうに聞こえた。秘密を覗き見して見つかった子供が、必死に言い訳を探しているかのように。
「いいわ、零。そのままでいなさい」
彩靜は顔を上げ、熱い湯で顔の疲れを洗い流しながら、どこか悲痛なほどに潔い口調で言った。
「あなたまで目を逸らしたら、私は本当に……影としか話せない人間になってしまう。教えて。もし感情を入れることが射撃の安定を乱すというのなら、私はどちらを選べばいいの?」
零は長い沈黙に陥った。それは、純粋な論理演算の範疇を超えた問いだった。
「ビッグデータの分析によれば、人間の感情は最大の変数です。ですが……」零の声が低くなった。白鷺零次にまつわる断片的な記録を思い出したかのように。
「私が観察してきた限り、白鷺氏が強大であったのは、感情を捨てたからではありません。守るべき感情があったからこそ、限界を超えた安定を得ていたのです。彩靜、もしあなたが機械になってしまったら、戦場に立つ九条執行官は、本当に独りきりになってしまいます」
彩靜の指先が、曇った鏡にそっと触れた。鏡の中に映る、自分自身のぼやけた姿を見つめる。
「そう……」彼女は独り言のように呟いた。「でも、本当に怖いの。またあの『赤』を見るのが」




