チームワーク
清晨の陽光が基地の狭い窓から差し込み、冷たい金属の床に細かな光を落としていた。
**湊**は早くに目を覚ました。いつものように糊のきいたスーツをすぐ羽織ることはせず、シンプルなシャツ姿で執務室の隅にある木製の棚へと歩み寄る。そこには白鷺零次の写真が置かれていた。写真の中の男は、相変わらず真意の読めない淡い笑みを浮かべ、背後には果てしないトンネルが続いていた。
湊は三本の線香に火を灯した。煙が静かな空気の中にゆっくりと漂う。
「先輩、今日はあの頑固なジジイたちの相手をしてきますよ」彼は低く呟いた。その口調には普段の軽薄さは影を潜め、責任を引き受けた重みが宿っていた。「暁のことも、この街のことも俺がちゃんと見ておきますから。あんたはそっちで……安心してサボっててください」
同じ頃、基地の反対側。
**凜**の部屋には微かな甘い香りが漂っていた。彼女はデスクの前に立ち、写真の中の白髪の男を見つめていた。線香は上げず、代わりに手際よく高級チョコの包箱を開け、その中の一番上等な一粒をフォトフレームの前に供えた。
「ほら、師匠。今日の分よ」凜はベースボールキャップを目深に被り、赤らんだ目元を隠した。口調は相変わらず不器用な強がりを孕んでいる。「あんたがいなくなったからって、甘いものから逃げられると思わないで。今日は外で雑魚掃除してくるから。もしそっちから見てるなら、通行人先輩が変なヘマしないように見守ってなさいよね」
彼女は銀色の手銃(拳銃)を収め、部屋を後にした。その瞳には、鋭い刃のような光が戻っていた。
【基地大廳】
大ホールの自動ドアの前で、四人はちょうど鉢合わせした。
暁は特級執行官の深い黒の制服に身を包み、マントが彼女の冷徹なオーラを際立たせていた。彼女は湊を一瞥し、向かってくる凜と今田に視線を向けた。
「暁先輩、湊先輩、おはようございます」今田が慌てて挨拶する。後ろの凜は鼻を鳴らすだけで応えた。
「よお、今田。今日も俺たちのお姫様の弾除け役か?」湊はいつもの笑顔を取り戻し、今田の肩を叩いて揶揄した。
「誰がお姫様よ! 湊、あんたの脳みそは本当に回線切れしたの?」凜が即座に言い返し、暁を見た。「暁姉さん、今日の会議は面倒だって聞いたわ。もしあのジジイたちが無駄口を叩いたら、そのままテーブルをひっくり返してやりなさいよ」
暁は静かに頷き、淡々と応じた。「……善処するわ」
湊は苦笑しながら時計を見た。「時間だな。凜、今田。任務中は随時『零』に報告しろよ。深追いはするな」
「分かってるって!」凜は手を振り、今田を連れて黒い列車が待つホームへと向かった。
湊と暁は背を向け、基地最上階の会議室へと歩き出す。並んで歩く二人の後ろ姿には、かつての零次の影が重なっていた。この街を守る、最強の防衛線の影が。
ZERO-DELAY 本部最上階外周、海抜320メートル。
風が猛烈に吹き荒れている。**彩静**は簡潔な防風タクティカルウェアを纏い、茶色のポニーテールを揺らしていた。彼女は伏射の姿勢をとり、下の消音マットがコンクリートの冷たさを吸収している。
漆黒の大口径狙撃ライフルが、天台の縁に据えられていた。
「退屈……。これが『最高レベルの警備』? 通りすがりの雀までスキャンしなきゃいけないなんて」彩静は無表情に呟くが、その瞳が狙撃鏡から離れることは一瞬たりともない。「静止」は彼女の日常だが、人見知りな性格ゆえに、世界と距離を置いたこの観察こそが彼女には合っていた。
倍率を最大に上げると、レンズは下の街並みを高速で掠め、馴染みのある小さな影を捉えた。
「え……あれ、凜?」
スコープの中、凜は怒れる小豹のように、入り組んだ車流と路地の間を全速力で駆け抜けていた。背後にはメデューサの紋章をつけた小型偵察ドローンが数機、執拗に追いすがっている。
「零、九条執行官と回線を繋いで」彩静は低く命じ、指をトリガーに添えた。
『接続完了。コードネーム「青」』
無線から風の音と凜の荒い呼吸が聞こえてくる。「もしもし? 彩静? あんた大阪でサボってるんじゃなかったの?」
「いつでも仕事中。あなたが気づいていないだけ」彩静の声は相変わらず起伏がない。「あなたの北東のビルにいるわ。通りすがりだけど、ずいぶん無様に逃げ回ってるみたい。何か手伝う?」
「うるさいわね! あんたの狙撃が師匠の言ってた通り凄いなら、私の後ろのドローンを叩き落として」
「了解。偏流修正、距離1200、ターゲット三機」
――ポンッ!
鈍い発射音と共に、高精度徹甲弾が目に見えぬ弧を描いた。凜の背後わずか十メートルで、一機目のドローンが火球と化した。衝撃波と金属音が街に響き渡る。
凜の口元に獰猛な笑みが浮かんだ。爆発の煙に紛れ、彼女は急停止すると、鮮やかな身のこなしで左側の暗い路地へと折り返した。
「今田! ドローンの視界が消えたわ、今よ! 零のルート図に従って左から挟み撃ち。袋叩きにするわよ!」
「了解!」今田の落ち着いた声が返る。彼は既に別の路地から包囲網を完成させていた。
「彩静、前のターゲットの影を追って」凜は疾走しながら指示を飛ばす。「私の追い込みであなたの射線に入ったら、即、撃って。助けを呼ぶ隙を与えないで」
「了解」
彩静は呼吸を整えた。狙撃鏡の世界ではすべてが緩やかに流れる。メデューサの特注服を着た男が、慌てふためいて路地から飛び出し、フェンスを越えようとするのが見えた。
「ターゲット捕捉。視界よ」
彩静の指先がトリガーのテンションを感じ取る。その表情は専注し、冷酷。狙撃手・佐藤彩静の真実の顔。
「九条、チョコ一箱分よ」
スコープの中、標的の頭部とレティクルが重なる。彩静の呼吸が完全に止まり、世界は銃身を抜ける風の音だけになった。
「ターゲットロック。青、配置完了」
「能書きはいいから、さっさと撃ちなさいよ!」凜の叫びが届く。
――ドォン!
鈍い衝撃音と共に、フェンスを越えようとした男は一瞬で動力を失い、地面に崩れ落ちた。銀色の閃光――凜がほぼ同時に飛び出し、銀色の手銃で二発、トドメを刺した。抵抗の可能性は完全に断たれた。
東京の街角で、わずか十分足らずで繰り広げられた電撃戦は、誰に知られることもなく完遂された。
『スキャン確認。敵対反応消失』**零(ZERO)**の声が四人のイヤホンに響く。いつもの電子的な嘲弄を含んで。
『先ほどの弾道演算と戦術貢献度に基づき、本任務のMVPは遠距離精密打撃を提供した彩静に与えられるべきだ』
「黙りなさい、零!」凜は手銃を収めながら空を殴った。「どう考えても現場指揮官の私がMVPでしょ? 私の誘い込みがなきゃ、彩静に視界なんてなかったんだから!」
『私の演算に「情緒的な補償」は含まれていない、九条執行官』零が追い打ちをかける。
そこへ今田が封鎖線から駆け寄ってきた。土埃を払い、遠くの摩天楼を見上げて大きく手を振る。
「お疲れ様、彩静! 助かったよ、また基地でな!」
千メートル以上離れた場所から、彩静はスコープ越しに今田の無邪気な様子と、零と喧嘩している活発な凜を見つめていた。
「……また、あとで」
彩静は小さく応え、通信を切った。喧騒が消え、世界は再び風の音だけの静寂に戻る。
彼女は天台の縁に座り、強風に髪をなびかせた。任務は成功したが、下界の賑わいと、寄り添って歩く二人の背中を見ていると、淡い孤独が潮のように押し寄せてくる。
自分は狙撃手。影から仲間を守る盾であり矢だ。けれど終わってみれば、あの笑顔や賑やかさは自分とは無関係な場所にあるように思えてしまう。無表情の裏にあるのは、人見知りで輪に入り方が分からない少女の素顔だった。
「チョコ……か」
凜の言葉を思い出し、彼女は少しだけ俯いた。冷たい風の中で、頬がほんのりと赤く染まっていた。
【会議室】
会議室の大画面で、戦闘のプレイバックが止まった。彩静の狙撃、凜の銀色の閃光、今田の確実な援護。その**「化学反応」**に、威圧的だった高層たちも沈黙した。
「零次がいなくなっても、この『子供たち』は独り立ちした猟犬のようだな」警察官僚の老人が頷いた。「神宮寺司令、君の編成案を承認しよう」
神宮寺司令は煙草を消し、立ち上がった。
「よし。では正式に布陣を発表する。まず戦力の主軸となる日本組は、『一狙撃二突襲』の三名一組を基本とする。私の絶対条件は、凜、今田、彩靜を同じチームにすることだ。この三人の連携は、かつてのRA-TIO時代からの絆も含め、頂点にある」
「そして台北組が機動部隊として加わる」台北の林司令が言葉を引き継いだ。「台北組は二人一組で日本組をサポートする。つまり、一つの基幹ユニットは五人編成となる」
「台北の明と星玲は到着したか?」湊が零に尋ねる。
『地下ホームに入線した。明執行官は、東京の自販機にお気に入りのエナジードリンクがないと文句を言っている』
湊は思わず吹き出した。明と星玲の合流は、東京支部にとって最大の強心剤だ。
会議が終わり、高層たちが去った後、神宮寺司令は窓辺に立ち、集結する部隊を見下ろした。
「神楽、新堂。戦力は揃った。だが忘れるな、Wが見せた『ゲーム』を。奴らが権限を返したのは、恐怖からではない。時代遅れのデータなど、もう不要だからだ」
「どういう意味ですか?」暁が冷たく問う。
「奴らは待っているんだ。世界中に『ZERO-DELAYの敗北』を見せつける時をな」神宮寺は曇天の空を見上げた。「行きなさい。戦友たちと会っておけ。落ち着いてコーヒーを飲める午後は、これが最後になるかもしれん」
【休息室】
休息室に入ると、ソファにだらしなく寝そべる星玲と、装備を整える明の姿があった。
「よお、隊長さんたち!」星玲が手を挙げ、暁を見た。「暁、ずいぶん強くなったって? 大戦の前に一手、手合わせしない?」
「星玲、今、暁に消されたら、明日の作戦会議の戦力が減るぞ」湊が苦笑して割って入った。
両都市の頂点がこの狭い空間に集結した。星玲は不意に、テーブルで銃を弄る凜に目を留めた。彼女は探るような笑みを浮かべて歩み寄る。
「あなたが九条凜?」
「そうだけど。台北の執行官が私に何か用?」凜は刺々しく応じた。
「いいえ。ただ、あなたはどこにでもいる可愛い女子高生にしか見えなくてね。噂の『日本最強の射撃天賦』とは結びつかない。本当にそのプレッシャーの中で撃てるの?」
「可愛い……?」凜は鼻で笑い、銀色の手銃を電光石火の速さでホルスターに収めた。「戦場でメデューサの頭をスイカみたいに割る私を見たら、そんな言葉、二度と出なくなるわよ」
強気な凜に、星玲は思わず吹き出した。「面白い。今回の協力、楽しめそうね」
一方、明は今田と話しつつ、隅で静かにスコープを磨く彩静を見た。
「君が佐藤彩静さんだね。台北支部の明だ。よろしく」
「……よろしく」彩静は無表情に頷く。
「君は大阪から来たんだよね?」明は少し声を潜め、好奇心に満ちた目で聞いた。「本部の噂でね、大阪にはコードネーム『青』っていう化け物が隠れてるって聞いたんだ。一キロ先のマッチ棒を撃ち抜く、感情のないロボットみたいな奴だって……どの部署にいるか知ってる?」
一瞬、空気が凍りついた。隣の今田が気まずそうに彩静を指さした。
「明執行官……彼女が、その『青』ですよ」
「……は?」
明は口を開けたまま固まった。目の前の、清らかでどこか人見知りな雰囲気の少女と、その横にある殺気立った狙撃銃を交互に見る。
「き、君が、あの伝説の? 数々の極端な標的を仕留めてきた天才?」明の声が裏返った。
「……職務ですから」彩静は視線を逸らし、頬を微かに赤らめた。「それに、私は化け物じゃありません」
「ごめんごめん!」明は慌てて手を振り、湊を振り返って苦笑した。「湊、東京支部の風水はどうなってるんだ? 17歳の少女が極限射撃の天才で、こんなに大人しそうな子が大阪最強の殺し屋……台北支部がすごく正常に思えてきたよ」
「これが『能ある鷹は爪を隠す』ってやつさ、明」湊が笑って肩を叩いた。「ようこそ、日本一厄介なチームへ」
再会の空気に笑いが混じるが、皆分かっていた。国境を越えた戦力が集結したということは、メデューサとの最終決戦へのカウントダウンが、正式に始まったことを意味していた。




