死神の信物
「彼……逝っちゃったよ。」
凛の声が公開チャンネルに響いた。かつては刃のように鋭く、活力に満ちていたその歌声のような響きは、今や今にも消え入りそうな煙のようにか細い。通信の向こう側で、零は絶対的な沈黙に陥り、ニューヨークのハリーもホログラムの動きを止めた。背景に流れる微かな電子ノイズだけが、この最強の執行官への黙祷を捧げているようだった。
トンネル内の硝煙はまだ晴れきっていないが、全員の頭上を覆っていたあの圧倒的な圧迫感はすでに消えていた。メデューサの脅威は去り、そして、限界まで燃え上がった白いエンジンは、ついに目的地でその火を落としたのだ。
作戦終了から二時間後、本部の廊下は針一本落ちても聞こえるほど静まり返っていた。
湊、暁、凛、そして今田。四人の体にはまだ乾かぬ血痕と戦火の硝煙が残っており、彼らはあの見慣れた執務室のドアの前に立っていた。
ドアには「執行官――白鷺 零次」というプレートが掲げられ、冷ややかな蛍光灯の下で鈍く光を放っている。
暁が一歩前に踏み出した。その指先は微かに震えている。彼女は零次の最後の言葉を思い出していた。壁際の隠し金庫の前へ行き、深く息を吸い込むと、自分でも予想だにしなかった暗証番号を入力した――彼女自身の「誕生日」だ。
「ピッ――」
金庫が音を立てて開いた。中には山積みの金塊も機密書類もなかった。ただ一冊、綺麗に綴じられた退職届(名前の欄には零次の署名があるが、日付は空欄のまま)と、数枚の海外行きの航空券。それを見た暁の瞳から、ついに涙が溢れ出した。彼は最初から、彼らがこの「体制」から逃げ出すための道を用意していたのだ。
同じ頃、湊が執務室のドアを押し開けた。
デスクの上には、真新しい白いスーツが一着、そして標準装備を遥かに凌駕する性能を持つ、高度にカスタマイズされた銃が一丁、整然と置かれていた。
「あの野郎……最後まで、俺たちが虐められないか心配してたのかよ。」
湊は低く呟き、スーツの生地を指先でなぞった。彼は理解していた。これは単なる遺品ではない。零次が自らの手で継承させた「意志」なのだと。
今田はその傍らに立ち、音もなくデスクへ涙を落とした。彼はその銃を見つめ、零次が自分を警察から引き抜いた時に言った言葉を思い出していた。
『この世界に、平凡な警官はこれ以上必要ない。だが、良心を持った影は必要だ。』
そして凛は、零次のデスクの一番左側にある引き出しへと真っ直ぐ向かった。
そこは普段、零次が彼女に触れることを厳禁していた場所だった。震える手で引き出しを引くと、そこには一通の白い封筒が静かに横たわっていた。表面には零次の力強い筆跡でこう書かれていた。
『俺の最高に騒がしい弟子へ』
凛は封筒をきつく握りしめ、指関節が白く浮き出た。彼女は、トンネルの中で零次が最後に自分の髪に触れた時の、あの冷たい温度を思い出していた。
「クソ師匠……」凛は唇を噛み、声を震わせた。
「暗証番号が暁さんの誕生日で……引き出しに手紙まで残して……。こんなことで、勝手に行っちゃったこと、許してあげると思ってるの?」
執務室の照明がセンサーで自動的に点灯した。
壁の時計は変わらずカチカチと時を刻み続けている。まるで、この航路は墜落してしまったけれど、守られた乗客たちは皆、無事に目的地へ辿り着いたのだと告げているかのように。
夕陽が東京のスカイラインを、惨烈なまでのオレンジ色に染め上げていた。凛は一人、ZERO-DELAY 本部の屋上に立っていた。強い風が彼女の黒い長髪を乱し、手に持った白い封筒をガサガサと鳴らす。
彼女は深く息を吸い込み、震える指で手紙を開封した。
「俺の最高に可愛い弟子へ:
お前がこの手紙を読んでいる頃、俺はおそらく華麗な墜落事故で仕事を終えているはずだ。
まず、最初にハッキリさせておきたいことがある。ここ二年の間、お前にあの妙な限定版スイーツを買い与えるために、俺の給料がどれだけ飛んでいったか分かってるか?
請求書を見るたびに、俺は弟子を育てているんじゃなくて、お菓子好きの小さなお姫様を供養(接待)してるんじゃないかと思ったよ。それから、外で見境なく誰彼構わずキレるその性格、本当に心配だった。時々思うんだが、お前のその人並み外れた弾道計算の知能は、情緒と引き換えに手に入れたものじゃないのか? お前の脳みそ、ネット回線が切れてるんじゃないのか? 俺が後ろで尻拭いをしてやらなきゃ、今頃お前は京都の名門のジジイ共に一生幽閉されていただろうよ。
さて、愚痴はここまでだ。これ以上書くとお前の機嫌が悪くなりそうだからな。
ここからは本題だ。
お前はずっと不思議がっていたな。なぜ俺がいつも遠くを見つめているのか。そこには、かつて『後藤 静江』という女がいた。俺の最初の相棒であり、俺のような冷徹な男を許容し、一生を誓い合った唯一の女だ。
あの頃の俺は今の俺と同じで、速く走り続けさえすれば死神の影を振り切れると信じていた。だが、あの事故が彼女を奪い、俺の中から『人間』としての部分を奪い去った。
生き残った俺は、止まることのできない機械のようになった。……九条の家の、あの息の詰まる屋敷で、お前の瞳の中に宿るあの『強情さ』を見つけるまでは。
凛、お前を救い出したのは、実は俺の私心なんだ。お前を見ていると、まだ何も失っていなかった頃の自分を見ているようだった。
お前をただの静江の影として見ているんじゃないかと怖くなったこともあった。だが、長く過ごすうちに分かった。お前はお前だ。椎茸のことで俺と喧嘩し、スイーツを食べて短くも優しい笑顔を見せる、九条 凛だ。
お前は、壊れかけた俺の余生の中で、最も温かい帰着点だった。
封筒の中に写真がある。17歳の俺と静江だ。それを今、お前に預ける。このフライト、俺は一足先に降りる。残りの道、俺の代わりにあの平凡な景色を見てきてくれ。
いいか、飯はちゃんと食え。好き嫌いはするな(特に椎茸、少しは試してみろ)。
お前の多分好きな師匠、白鷺 零次 より」
便箋の間から、一枚の古びた写真が滑り落ちた。写真の中の少年は英気に溢れ、隣の少女は花のような笑顔を浮かべていた。
凛は写真をきつく握りしめ、涙が一滴、また一滴と便箋に落ちて、零次の力強い筆跡を滲ませた。屋上の風は相変わらず強く、彼女は顔を上げ、誰もいない空に向かって叫んだ。
「クソ師匠! 最後まで椎茸食べろなんて……あんなもん誰が食べるかよ!」
彼女はその場にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。夕陽が完全に地平線へと沈んだその瞬間、声を上げて泣き崩れた。
それは彼女が17歳の年に受け取った、最も温かく、そして最も残酷な真実だった。
夕陽の最後の一閃が、凛の手にある便箋の縁を金紅色に縁取っていた。
凛が手紙を仕舞おうとした時、封筒の仕切りの中にまだ厚みがあることに気づいた。慎重に指を入れると、中から数枚のものが出てきた――あの古い写真とは対照的な、色彩の鮮やかなポラロイド写真だった。
一枚目は、零次と二人の弟子の写真。写真の中の零次は相変わらず無表情だが、その両手は凛と今田の頭の上に置かれている。今田は少し間抜けな笑顔を浮かべ、凛は迷惑そうに零次の手を払いのけようとしている。喧嘩腰ながらも温かい温度が、写真越しに伝わってくるようだった。
二枚目は、零次と暁、湊の写真。暁は端末に集中し、湊は零次の肩に腕を回して缶コーヒーを手にしている。零次の口元には微かな、本当に微かな弧が描かれていた。それは、古い戦友の前でしか見せない無防備な表情だった。
三枚目は、四人全員と零次の集合写真。ある作戦の後のささやかな打ち上げの時のものだ。照明は暗いが、全員の瞳には光が宿っていた。
凛は一枚一枚めくっていき、最後の一枚で指が止まった。
それは以前、訓練が終わった後の午後のこと。凛が体力限界と精神的な重圧(零次がいなくなることを悟った不安)から、零次の執務室で寝入ってしまった時のものだ。
あの時の彼女は、零次の胸に丸まり、怯えた子供のように彼の服の裾を掴んで、疲れ果てて眠っていた。
写真の中の零次の瞳には、普段のような他人を寄せ付けない冷徹さも、戦場の殺気もなかった。
彼は顔を伏せ、この上なく優しく、慈しむような眼差しで腕の中の凛を見つめていた。片手は彼女の後頭部をそっと守るように添えられ、まるでこの世で最も尊く、そして壊れやすい宝物を抱いているようだった。
それは、「執行官」白鷺 零次の顔に、彼女が一度も見たことのない表情だった。一人の男が、自分に残された最後の人性と温もりを、最愛の少女へ惜しみなく注いでいる姿だった。
「……あんな風に、私のこと見てたんだね。」
凛は写真をきつく握りしめ、涙で相紙を濡らした。彼女はようやく理解した。なぜこの男が、自分の我儘に対していつも沈黙を選んでいたのか。なぜいつも黙って、全ての暗闇を自分の代わりに受け止めてくれていたのか。
彼は「道具」を育てていたのではない。命を懸けて、「家族」を守っていたのだ。
凛はその写真の束を胸に押し当てた。もう消えてしまった体温を感じようとするかのように。彼女は顔を上げ、星が瞬き始めた夜空を見上げた。白鷺 零次の航路は終着点に達したけれど、ZERO-DELAY の物語、そして彼が遺した意志は、彼に守られた者たちの心の中で今まさに燃え上がろうとしていた。
これは終わりではない。新しい戦いの始まりだ。
「白鷺 零次。……ありがとう。」
凛は静かに呟いた。その声に、もう弱さはなかった。ただ鋼のような強い決意だけが宿っていた。




