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ZERO-DELAY  作者: WE/9
外来者

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6/19

暗流はうねる

病室には刺すような薬品の匂いはなく、代わりに雨上がりの森を思わせる清涼なミストが漂っていた。自動化された計器が、鎮魂歌のように静かで規則的な電子音を刻んでいる。


ミナトは窓際のベッドに横たわり、バイオ修復テープで巻かれた右腕を枕に、窓の外を流れる青い光の残像——夜を切り裂く高速環狀鉄道を眺めていた。隣のベッドからは、規則的なバイタルサインの音が聞こえてくる。


「なあ、新堂」


湊は視線を向けないまま、静まり返った室内で少し枯れた声を絞り出した。


「爆発に吹き飛ばされたあの瞬間、あんたのリズム、神楽でも踊ってるみたいにバラバラだったぜ。最高にダサかった」


「……黙りなさいよ、ミナト」


隣から、負けず嫌いなアキラの反論が返ってきた。息切れはしているが、そのツンとした態度は健在だ。


「どこかのAIの権限がロックされて、骨董品みたいに反応が遅れなければ、二階のクズどもなんてさっさと片付いてたわ。それに、あんたの援護だって、油の切れたお掃除ロボットみたいにギクシャクして見てられなかったわよ」


「それは、あんたが吹っ飛んだ放物線をコンマ数秒で計算してたからだろ。あんた、見た目より重いんだよ」


「誰が重いって? 一回死んでみる?」


暁は憤然と寝返りを打ったが、肩の傷に障ったのか、小さく息を呑んだ。二人の間に短い沈黙が訪れ、モニターに映し出される二つの鼓動だけが、空気の中で重なり合って跳ねていた。


「……ありがと」


枕に顔を埋めたまま、暁の小さな声が漏れた。「あんな火線の中で……突っ込んできてくれて……ありがとね」


湊は一瞬呆然とした。あの鉄の女が急に柔らかくなるとは思わなかったのだ。何かジョークでも返そうと顔を向けたが、暁の姿を見た瞬間、言葉を失った。


今の彼女は、トレードマークの赤いバイザーを外していた。普段は刃のように鋭く、体制の信徒らしい冷徹な審判を宿した瞳は、疲労のせいか僅かに伏せられ、長い睫毛が白い頬に淡い影を落としている。


バイザーという盾を失った彼女の顔は、驚くほど素朴で、精緻で、そして普段は絶対に見せない脆さを孕んでいた。傷ついた額には半透明のパッチが貼られ、深い藍色の髪が耳元で落ち着かなげに揺れている。医療機器の淡い青光に照らされた彼女は、火海で命を刈り取る執行官ではなく、夜の中に迷い込み、ようやく温もりを見つけた少女のようだった。


湊はその横顔を見つめ、元警察官としての、規則的なリズムに対する執着が狂うのを感じた。それは戦闘時の高揚ではなく、胸を締め付けるような、切ない震えだった。


——俺、こいつに惚れたんだな。


湊が視線を外す間もなく、脳内がフリーズしている中、自動ドアが無音で左右にスライドした。


白いタクティカルブーツが室内へと踏み込む。


工場で誰よりも人を殺し、心拍を停止寸前まで遅らせたはずの白鷺零次シラサギ・レイジが、シンプルな黒のタートルネックとパンツという軽装で立っていた。その姿は異常なほど清々しく、体に傷一つない。唯一の「医療の証」は、手首に貼られた小さな丸いパッチだけだった。


「口喧嘩をする余裕はあるようだな。追悼式の予約はキャンセルしておこう」


零次は二人のベッドの間に歩み寄った。言葉は相変わらず氷のように冷たいが、その視線は湊と暁を等しくなぞり、バイタルが安定していることを確認していた。


「先輩……その体質、マジでバケモノですね。誰よりも突っ込んでた癖に」


湊は慌てて視線を逸らし、今の気まずさを隠そうとした。


零次は湊の軽口を受け流し、暁の枕元に歩み寄ると、長い指先でベッドのサイドレールを軽く弾いた。


「新堂、バイザーのひびは新品に換えられるが、吹き飛んだ頭にパッチは当たらないぞ」


「うるさいわね! 次はもっと硬いのを申請するわよ!」


暁は枕で顔を半分隠し、大きな瞳だけで零次を睨みつけた。だが、その頬は「心配」されたことへの気恥ずかしさで赤らんでいる。


直後、零次の表情から温度が消え、室内の空気は一瞬で氷点下まで下がった。


「一つ、先に伝えておくべきニュースがある。ゼロがバックグラウンドで総署とアトランタの通信ログを傍受した」


零次の声が極めて低くなり、危険な気配を纏う。


「アトランタ支部から正式な回答が届いた。彼らは『41』という軍事AIなど開発したこともなければ、東京へシステムを派遣した事実もないそうだ」


湊は弾かれたように体を起こした。腕の傷に鋭い痛みが走る。


「どういうことだ……? じゃあ、あの戦場で命令を下し、俺たちを殺しかけたあの機械は……一体どこから来た?」


「アトランタ製ではない、ということだ」


零次は窓の外、深いトンネルの出口を見つめ、瞳を冷たく光らせた。


「システム内部の何者かが、勝手に『創造』し、投入した幽霊ゴーストだ」


零次はベッドの二人を見つめ、余計な慰めは口にせず、携行していた黒いケースから二つの物を取り出し、それぞれのサイドテーブルに置いた。


湊に渡されたのは、緑と白のコントラストが映える新型のロングパルスライフルだった。セラミック合金を用いた流線型のボディに、緑のエネルギーラインが安定した光を放っている。グリップは湊の癖に合わせて調整済みだ。


「パルスが少しイカれてたろ。これは俺からのプレゼントだ」零次は冷淡に告げた。


暁に渡されたのは、真新しいバイザーだった。レンズはルビーのように透き通った赤、だがバンドは純白。その強烈なコントラストは、体制の鋼鉄の規律の下で、傷つきながらも純粋な心を隠し持つ暁そのものだった。


「二度と壊すな」零次は短く言い残した。


最強の執行官は礼を言う隙すら与えず、背を向けると、鋭くも颯爽とした後ろ姿を残して自動ドアの向こうへ消えた。


退院当日。湊と暁は私服に着替える暇もなく、最上階の司令室へと緊急招集された。


重厚な鋼鉄の扉が開くと、室内には息が詰まるような重苦しい空気が満ちていた。上座で苦虫を噛み潰したような顔の総司令を筆頭に、零次、そしてあの日の任務に参加した他のチームリーダーたちも顔を揃えている。壁のホログラムスクリーンは最高機密レベルにロックされ、隅の方でゼロのアイコンが苛立たしげに明滅していた。


総司令は指を組み、火の海から生還した精鋭たちを見渡した。


「今回の奥多摩での被害は、本来避けられたものだった」


司令の声には抑えきれない怒りが滲んでいた。彼が手を振ると、スクリーンに各国のオペレーション計画表が表示された。


「当初の計画では、ニューヨーク支部の『7号』が戦術リンクを行うはずだった。現時点で世界最強の防御力を誇る支援AIだ」


暁は新しいバイザーを頭に載せ、眉をひそめた。


「それがどうして、効率一点張りの『41』に変わったんですか?」


「金が動いたからだ」


司令は鼻で笑い、銀行の送金履歴と暗号通信の記録を投げ出した。


「内部の高層——リソース配分を担当する数人の参謀が、正体不明の組織から巨額の賄賂を受け取っていた。彼らは7号の調達命令を勝手に差し止め、ニューヨークには『支援不要』の偽情報を送った。その上で、41に偽装した出所不明の悪意あるシステムを起動させたんだ」


湊は拳を握りしめた。工場の連鎖爆発の惨状が脳裏をよぎる。


「つまり……連中の標的は、最初から組織『N』じゃなかったってことか?」


「その通りだ」総司令は立ち上がり、鋭い眼光を放った。「連中の狙いは、**『ZERO-DELAYの排除』**だ。意図的に歪められた指揮ロジックを用い、零次を含む六つのユニットすべてを奥多摩の火海に葬り去ろうとした。これはミスではない。我々に対する『処刑』だ」


司令室に死のような静寂が訪れる。エージェントたちは怒りに満ちた視線を交わした。


『僕のソース追跡によれば』スクリーンのゼロが口を開いた。珍しく冗談めかした口調ではない。『41を装ったシステムのコード記述スタイルは……台北の事故現場で見つかった残存コードと、89%の確率で一致しました』


その言葉に、湊と暁の心は底知れぬ深淵へと沈んだ。自分たちを殺そうとしているのは外の悪党ではなく、組織の内部に潜み、世界の環状鉄道を支配する幽霊なのだ。


「金を積まれた参謀どもは隔離尋問中だが……」


総司令は背を向け、冷徹な組織図を見つめた。「闇が深すぎる。総署内部の風向きが変わり始めている。私は今、誰も信じられん」


彼はタバコに火をつけ、揺らめく煙の中で密命を下した。


「表向きには、これは単なる汚職と指揮上のミスとして処理し、静観を装う。だが、私は裏でニューヨーク支部の友人と連絡を取った。7号とゼロを秘密裏に接触させ、性能交流を行う。41が本当に台北の悲劇に関わっているなら、黒幕はトップシステム同士の紐付けを何より嫌がるはずだ」


司令は少し声を和らげ、手を振った。


「苦労をかけたな。今回の任務に携わった全員に強制休暇を与える。寮に戻れ。私の許可なく黒い列車ブラックトレインには乗るな」


深夜の基地は、いつも以上に静まり返っていた。湊はゆったりとした黒のフーディーに着替え、窓の外を眺めていた。遠くのトンネルでは、黒い列車が音のない鋼鉄の巨獣のように行き交っている。休暇中だというのに、頭から離れないのは零次の遅くなった鼓動、そしてデータに隠れた「幽霊 41」の存在だ。


「こんな状況で、寝れるわけないだろ……」


湊は低く呟き、部屋を出た。習慣的に隣を伺うが、暁の部屋のドアからは一筋の光も漏れていない。


「もう寝たのか?」体制を守れとうるさいあの女も、さすがに疲れ果てたのだろう。湊はそう思った。


だが、彼は知らなかった。その時、暁は部屋にはいなかったのだ。


薄暗く、湿り気を帯びた空気の中に、電撃の後のような焦げ臭さが漂っている。


暁は私服姿で、深い藍色の長髪を後ろで束ね、手にはあの赤いパルス拳銃を握りしめていた。彼女はすべての監視ノードを回避していた——ゼロが裏で開けてくれたバックドアだ。彼女は特製の檻の前に立ち、床に胡坐をかいた「信使メッセンジャー」を冷ややかに見下ろした。


「おい」暁の声が狭い空間に響く。「『N』について知っている情報をすべて吐き出しなさい」


「信使」は顔を上げた。無精髭の浮いた顔に、嘲るような笑みを浮かべる。


「へぇ……ZERO-DELAY様も、こんな小娘に尋問させるほど落ちぶれたのかよ? なぁ、お嬢ちゃん。なかなかの別嬪だし、体つきもいい。どうだ、俺がここを出たら、俺の女にならないか? 極上の快感を教えてやるぜ」


「黙りなさい!」


暁は猛然と銃を構えた。チャキリ、と弾が装填される音が静かな牢内に響く。


黒々とした銃口を見つめながら、信使は両手を広げ、笑みを少し引かせたが、不敵な態度は崩さなかった。


「無駄な真似はやめな。俺が知ってるのは、ボスの正体が極めて謎めいているってことだけだ。あいつは影みたいなもんでな。現れる時はいつもジャミング装置を纏ってる。俺たち組員ですら、あいつの素顔を見たことは一度もない」


彼は壁に寄りかかり、目を閉じた。


「取引の詳細については……死んでも言わねぇ。あんたたち体制の猟犬ごときじゃ、あいつの尻尾は永遠に掴めないぜ」


「……っ、この!」


暁は赤い銃口をさらに格子へと近づけた。銃口の紅光が彼女の怒りに燃える瞳を照らす。だが、のらりくらりとした男の態度に、これ以上は無意味だと悟らざるを得なかった。


この無力感。


これが、自分が命を懸けて守ってきた「体制」の限界なのか。高層は寝返り、指揮系統は乗っ取られ、仲間は死にかけ、唯一の証言者すら口を割らない。


中央ロビー。深夜の照明は最小限のセーブモードに落とされていた。大理石の床には、二つの巨大な石像が映し出されている。絶対的な秩序の象徴である純白の執行官、そしてクリーンアップ行動を象徴する漆黒の死神。


その台座には、冷酷な四大原則が刻まれていた。


1. 開槍を許可する


2. 理性を保て


3. 冷静さを保て


4. 人間性を保て


湊は一人ベンチに座り、この四つのパラドックスを見上げていた。手元では零次から送られた緑と白の新型銃を弄び、指先が無意識に銃口をなぞる。今の状況は崩壊した音源トラックのようだ。汚職、浸透する幽霊、そんな中で自分たちは「理性を保て」と強いられている。


「こんな時間に、『リズム狂』がお悩みかしら?」


暁の冷ややかな声が背後から届いた。彼女はシンプルな黒のパーカーに着替え、バイザーは外している。牢獄で怒りに燃えていた瞳は、今は少しの疲労を湛えていた。


湊は振り返らず、ただ笑った。


「第四原則(人間性)と第一原則(開槍)が正面衝突したら、この像はどう選ぶのかなと思ってな。それより新堂、あんたの部屋の明かり、ずっと消えてたぜ。どこかで隠密任務シークレット・ミッションでもこなしてきたのか?」


暁は彼の隣に、つかず離れずの距離で座った。二人は前方の虚空を見つめる。


「……少し、確かめたいことがあっただけよ。司令は賄賂だ、41は幽霊だって言ったわ。私は今まで、この制服こそが絶対的な正義だと思ってた。でも今は……この皮(体制)が、腐り落ちようとしている気がするの」


「腐った部分は切り落とす。それが俺たちの専門だろ?」湊は彼女に向き直り、強い眼差しを向けた。「だが、もし腐っているのが黒い列車のコントロール室そのものだったら、あんたはまだ、その列車に乗り続けるか?」


暁は長い間、沈黙した。信使の嘲笑、零次の止まったような鼓動、そして牢獄で一線を越えそうになった自分。


彼女は立ち上がり、二人は並んで宿舎区へと歩き出した。廊下のセンサーライトが二人を追うように点き、背後で速やかに消えていく。先ほどお互いがどこへ行き、何をしていたか——湊のロビーでの思索、暁の牢獄での尋問——二人はそれ以上、問い詰めることはなかった。


暁の自室の前で、彼女は足を止めた。


ポケットから、あの新しい赤白のバイザーを取り出す。それを装着する直前、彼女は湊の方へ向き直った。その素顔の瞳には、かつてないほどの決意が宿っていた。


「ミナト。私は、私の正義を執行する。たとえそれが、体制の望む正義でなかったとしても、最後までやり抜くわ」


彼女はバイザーをカチリと装着した。鋭い紅光が再び彼女の視線を遮り、冷徹な執行官という鎧で彼女を包み込む。


「あんたはどうするの? 崩壊したリズムの中で、どうやって主導権を取り戻すつもり? ……あんたの答えを期待してるわ」


彼女は小さく頷き、「おやすみなさい」と短く告げた。


自動ドアが無音で開き、そして重々しく閉じた。


湊は誰もいない廊下に立ち、ドアの隙間から消えていく赤い光の残像を見つめていた。彼は自分の心臓の位置を軽く叩き、低く独り言を漏らした。


「答え、か。……そんなもん、俺のリズムが間違えたことなんて、一度もねえよ」




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