優しく撫でて
ティータイムの時間、零次の専用オフィスの中。
この部屋は常に冷徹で整頓されており、必要な書類とタクティカルタブレット以外、余計な装飾はほとんどない。しかし、控えめなノックの音がその厳格さを打ち破った。
「入れ」
書類の山から零次の声が響く。相変わらず感情の籠もらない口調だ。
ドアが開くと、そこには少し遠慮がちな表情の凛が立っていた。彼女は私生活でよく着るゆったりとしたフーディーとジーンズに着替えており、手には丁寧にデザインされた紙箱を抱えている。
「師匠……休憩時間だよ。零が、何か食べた方がいいって」
凛の声は普段より少し低く、わずかに震えていた。彼女はゆっくりと零次のデスクまで歩み寄り、紙箱を置いた。
零次は顔を上げ、冷ややかな瞳でその箱を一瞥した。中に入っているのは、市内の有名なスイーツ店の「チョコレート・ブラックフォレストケーキ」だ。その重厚な甘さと高カロリーな点心は、身体データの精密な判断に影響を与えるため、彼が普段なら絶対に口にしないものだった。
彼は数秒間、沈黙したまま何も言わなかった。
その時、凛は零次が予測だにしなかった行動に出た。
彼女はデスクを回り込み、怯えながらも温もりを求める子猫のように、零次が目を開けた瞬間、軽やかにその膝の上へと跨ったのだ。そして彼の頸窩(首筋)に顔を埋め、両腕で零次の腰を強く抱きしめた。
その手慣れた様子は、彼女が今田の胸に飛び込む回数よりもずっと多く、京都時代、二人が毎日こうして親密に過ごしていたのではないかと疑わせるほどだった。
零次の体は猛然と硬直した。彼の脳内では、物理的に突き放すか、あるいは語気鋭く叱責するかといった対応策が高速で計算された。しかし、彼は結局何もしなかった。ただ、この子猫が懐に収まるのを許したのだ。銀灰色の髪がわずかに乱れ、零次の耳たぶには珍しく淡い赤みが差した。
「おい……」零次はついに小さく声を漏らした。その口調には、珍しく困惑が混じっていた。「何か食べろと言ったのはお前だろう? なぜ抱きついている」
凛は答えず、ただ体をより深く預けた。彼女は零次の体から伝わる異常な高温と、冷たい外殻の下に押し殺された、死のような疲弊を感じ取っていた。
「動かないで」凛の声がこもった響きで漏れる。「師匠……体がすごく熱いよ。さっきの病気のせい?」
零次は「オーバークロック」という真実について答えることができなかった。腕の中の少女が寄せる信頼、その純粋で混じりけのない気遣いに、冷酷な「死神」は稀に見る居心地の悪さを感じていた。
彼の銀色の睫毛が揺れ、ついに一本の手を伸ばした。小動物をあやすように、優しく凛の背中を叩く。
「……決まりに反する」
彼は低く言ったが、その声に威厳はなく、むしろ隠しきれない優しさが漂っていた。
凛は顔を上げ、大きな瞳で零次を真っ直ぐに見つめた。その瞳の端には、さきほど泣いた後の赤みがまだ残っている。彼女はチョコレートの箱を開け、その中の一つのダークチョコレートを指差して命じた。
「食べさせて。さっきの近接格闘の練習で死ぬほど疲れたんだから」
零次は彼女を見つめ、最後には心の内で溜息をついた。彼は細長い指でその精緻なチョコレートをつまみ上げた。その動作はどこかぎこちない。
「……今回だけだ」
「口を開け」
零次の声は、ずいぶん穏やかになっていた。
凛は素直に口を開け、零次は慎重にそのチョコレートを彼女の口へと運んだ。甘美なチョコレートが舌の上で瞬時に溶けていくが、彼女の胸にある苦しみまでは消せなかった。
零次は彼女を見つめ、瞳の中の冷たさが少しだけ和らいだ。
「馬鹿め。このケーキは甘すぎる。お前の味覚訓練には毒だぞ」
オフィス内のエアコンが微かな稼働音を立てる。この小さな空間は、外の世界の硝煙とカウントダウンから完全に隔離されているかのようだった。
身長180センチの零次は、オーバークロック後の疲労で体は硬くなっていたが、依然として頼もしい山のようだった。凛は熱源を求める小動物のように彼の膝に跨り、その広い胸に頭を預けている。
零次がわずかに頭を下げれば、彼の顎はちょうど凛の頭頂部――シャンプーの香りが漂うそこ――に乗せることができたが、彼はその衝動を抑えた。ただ一定の距離を保った、年長者としての慈愛を維持し、片手で彼女の背を抱き、もう片方の手でチョコレートを持っていた。
凛はスイーツを食べながら、オフィス内をとりとめもなく見渡し、デスクの隅にある極めて目立たない場所で視線を止めた。
そこには、少し色褪せた実物の写真が一枚置かれていた。デジタル全盛の時代において、このような紙の写真は格別に貴重なものだ。
写真の中の若い頃の零次は相変わらず冷峻だが、彼の隣には黒い長髪をした、太陽のように明るく笑う女性が立っていた。彼女の瞳には、零次とは対照的な、生命に対する情熱的な活力が宿っていた。
「師匠、あれは誰?」
凛は細い指を伸ばし、その写真を指差した。「今まで一度も話してくれなかったよね」
チョコレートを摘んでいた零次の手が空中で止まった。その瞬間、凛は彼の心拍数がわずかに乱れるのを感じた。
「彼女は、静江だ」
零次の声は低く掠れており、遠い場所から届いたかのように、十年の歳月を越えた重みと疲労を帯びていた。彼はチョコレートを置き、視線を写真の奥へと、すでに存在しない過去へと向けた。
「彼女は俺の最初の搭档だ。俺と同じように、『武器』として作り上げられた人間だった。だが、あの事故で……俺は彼女を守りきれなかった」
凛は、零次の体から伝わる冷たさを感じた。
「彼女は……あなたの『目的地』なの?」
凛は静かに尋ねた。
零次は長い沈黙の後、ゆっくりと目を閉じた。凛の背を叩いていた手の力が、無意識のうちに強まる。目の前の少女が、今ここに生きていることを確かめるかのように。
「いいえ。彼女はもう、どんな地図の上にも存在しない。だが、彼女はこの飛行機の航路を俺に残してくれた。凛、お前は彼女に似ている……あるもののために全てを燃やし尽くせる執念が、そっくりだ」
零次は顔を伏せ、今度こそ、凛の頭頂部にそっと顎を乗せた。それは極めて稀な、防衛本能を解いた姿だった。
「だから、お前だけは……二枚目の写真にはさせない」
オフィス内のエアコンが微かな唸りを上げる。この空間は、外の残酷なカウントダウンから切り離されていた。
零次は静江への追憶に耽り、指先にはまだ写真の縁の感触が残っていた。しかし、突然胸にずしりと重みを感じた。
見下ろすと、さきほどまで問い詰めていた凛が、いつの間にか規則正しい寝息を立てていた。
四時間にわたる極限の特訓と、精神的な激しい起伏。この張り詰めていた子猫は、師匠の聞き慣れた体温を感じたことで、完全に回線が切れた(シャットダウンした)かのように夢の世界へ落ちていた。
零次は腕の中で眠る少女を見つめ、瞳の中の冷徹さが完全に崩壊した。彼は仕方なく溜息をつき、壊れ物を扱うかのような手つきで、極めて静かに動いた。まず、凛の白いスニーカーを脱がせて横に置き、彼女を横抱きにして、オフィスの隅にあるソファへとそっと寝かせた。
彼は身を屈め、凛のゆったりとしたフーディーを整え、乱れた黒髪を耳の後ろにかけた。そして再び立ち上がり、オーバークロックの影響でズキズキと痛むこめかみを押さえ、軽くストレッチをしながら、再び写真を見つめて沈思に耽ろうとした。
「コン、コン」
形式的なノックが二回。直後にドアが勢いよく開いた。
「零次執行官! 司令部から届いたデータの確認を至急……」
若い女性職員がタブレットを抱えて飛び込んできたが、言葉を最後まで発することなく、その場で固まった。
彼女の目の前の光景は、あまりに衝撃的だった。
普段は隙のない身なりをしているはずの零次が、今はやつれた様子で体を伸ばしており、その傍らには目を閉じ、無防備な姿で服も少し乱れた17歳の少女が横たわっている。さらに決定的なのは、少女の靴と帽子がソファの脇に脱ぎ捨てられていることだ。それはまるで、何か「説明のつかない事態」が起きた直後の現場そのものだった。
職員の顔は一瞬で真っ赤になり、視線は零次とソファの凛の間を激しく彷徨った。手元からタブレットが落ちそうになる。
「……あの、失礼、しました! お邪魔でしたか?」
彼女は息を呑み、禁断の秘密を知ってしまったかのような恐怖の形相で告げた。「わ、私、何も見てません! すぐに出ていきます!」
「おい! ま、待て! お前が思っているようなことではない!」
戦場では弾丸の軌道さえ正確に計算する「死神」が、今、人生で見たこともないような狼狽を見せていた。彼はどうしていいか分からず宙で手を動かし、慌てて声を潜めながらも、支離滅裂な言い訳を口にした。
「違う、断じて違う! 彼女はただ特訓で疲れ果てて、寝てしまっただけだ! 俺はただ、手助けを……」
「服の着替えを手伝っていたんですか? 分かってます、執行官……」
職員は後ずさりしながら頷いた。その瞳には「死神がこれほど小さな子に興味を持っていたなんて」という確信が満ちている。
「いや、分かっていない! 聞け、これは正常な師弟関係の……」
零次の氷のような顔に、珍しく薄い赤みが差していた。彼はソファで幸せそうに眠り、口をモゴモゴさせている凛を振り返り、かつてないほどの頭痛を感じた。
これは、彼が任務を引き受けて以来、最大の「墜落事故」かもしれない。
その時、廊下から野性味のある、気取った笑い声が聞こえてきた。
ミナトが壁に寄りかかっていた。どうやら、少し前から外で観劇を決め込んでいたらしい。彼はオフィスの中で弁解の余地もなく立ち尽くす零次を見て、肩を震わせて笑っていた。
「先輩、皆があんたは死神に会いに行くなんて言ってるけど、まさか死ぬ前に警察署へ行きたがるとは思わなかったよ」
暁はミナトの隣に立っていた。相変わらず無表情ではあったが、零次の狼狽ぶりを見て、口角がわずかにピクリと動いた。




