それでも話してしまった
窓の外の雨音はとうに止み、今は軒先から時折滴る水の音が、静寂を一つ、また一つと叩いている。
凛の部屋の中、空気はひどく冷え切っていた。彼女はベッドに横たわり、眉をきつく寄せ、無意識にシーツを掴んでいる。戦場では無双を誇る彼女だが、今夜、逃れることのできない悪夢に囚われていた。
夢の中で、凛は虚空に浮かぶ白い回廊に立っていた。回廊の果てには、ミナト、暁、今田、彩静、零、さらにはミッチェルやハリーまでもがいた。だが現実とは違い、彼らは全員彼女の対極に立ち、無表情に、ただ沈黙して彼女を見つめていた。
凛は彼らを呼ぼうとしたが、声が出ない。
さらに彼女を恐怖させたのは、背後の回廊が時間の経過とともに一節ずつ崩落し、消えていくことだった。彼女がかつて誇りとしてきた、「九条凛」としての過去が、虚無へと帰していく。
「嫌……」
背後の道が消え続けるのをただ見ていることしかできず、最後には足場を失い、彼女は真っ逆さまに落ちていった。
場面は目まぐるしく変化する。
京都の古びた中庭、血に染まったトンネル。白と黒が交互に明滅し、目眩を誘う。
やがて、全ての光景が澱み、沈殿した。
気づけば、彼女は真っ暗な大陸に立っていた。光もなく、音もなく、ただ果てしない荒涼とした地。
その時、見覚えのある後ろ姿が目に映った。
「師匠!」
漆黒の中心に、零次が立っていた。
だが、彼はいつもとは全く違った。夢の中でも刺すように白いはずのスーツは、今はどす黒い血に染まり、この闇の中で終わりのない殺戮を繰り広げてきたかのようだった。
凛はなりふり構わず零次の方へ駆け寄り、彼の怪我を確かめようとした。しかし、飛び出した瞬間に透明で強固な壁が虚空から現れ、彼女をその場に叩き伏せた。
「師匠! 零次! こっちに来てよ!」
凛は狂ったように壁を叩き、指の関節からは血が滲んだ。
その時、余光が別の方向から零次へと駆け寄る一人の少女を捉えた。
凛は息を呑んだ。その少女の姿は自分と酷似していたが、その動きには自分にはない自由が溢れていた。
壁に阻まれた凛とは違い、その少女は壁をすり抜けた。 まるで幻影のように、生死と体制を隔てる境界を容易く越えて。
凛はただ呆然と壁の向こう側に立ち、その少女が零次の側へ歩み寄るのを見守るしかなかった。
漆黒の大陸の果てに、微かな光が差した。
零次はゆっくりと手を伸ばし、左手で壁を抜けた少女を、右手で十歳ほどの幼い少年の手を引いた。
「師匠……行かないで……」
凛の声が震える。零次の背中を見つめる。
零次は最後まで一度も振り返らなかった。彼はその二人を連れて、ゆっくりと、だが確かな足取りで光の深淵へと歩んでいく。凛には決して届かない、遥か遠い「目的地」へと。
「師匠――!」
凛は勢いよく跳ね起きた。
冷や汗がパジャマを濡らし、心臓が胸の中で狂ったように脈打っている。部屋は依然として暗く、窓から微かな月光が差し込んでいるだけだった。
彼女は激しく肩で息をし、無意識に自分の両手を見た。
壁も、血も、去り行く後ろ姿もそこにはない。
だが、暗闇に置き去りにされた恐怖は、刺青のように彼女の魂に深く刻まれていた。屋上で零次とミナトが交わした、あの「全てを背負い込んだ」ような表情が脳裏をよぎる。
凛は両足を抱え込み、膝に顔を埋めた。暗闇の中で、押し殺した嗚咽が漏れた。
凛は部屋を飛び出し、裸足で冷たい廊下を駆けた。夢の窒息感が心臓を掴んで離さず、この建物にまだ人の気配があることを確かめずにはいられなかった。彼女が無意識に向かったのは最高層、今夜零次とミナトが語り合っていた場所だった。
同じ頃、ミナトは自動販売機で買った缶コーヒーを手に、疲れ切った足取りで寄宿舎へ戻ろうとしていた。夜型人間の彼は、このコーヒーで寝付けない夜をやり過ごそうとしていたが、視界の端を細い影が通り過ぎるのを見た。
「凛?」
薄いパジャマ一枚で屋上へ走っていく凛を見て、ミナトの脳内に警報が鳴り響いた。メドゥーサの刺客か、あるいはあの子が今の冷たい態度に絶望したのか。彼はコーヒーを放り出し、すぐさま後を追った。
屋上の鉄扉が風に吹かれてギィギィと音を立てている。
ミナトがプラットフォームに駆け上がると、高い手すりに腰掛ける凛の姿があった。身を縮め、白い小さな足を虚空に不安げに揺らしている。今にも風に攫われ、闇の深淵に落ちてしまいそうだった。
「凛……?」ミナトは声を震わせ、足音を殺して近づいた。
凛が勢いよく振り返った。月光が彼女の端正な顔を照らし、長い睫毛には大粒の涙が溜まっていた。頬を伝う涙の跡は、微かな光の中で壊れそうなほどに美しい。それは普段、鉄の仮面を被っている彼女が、初めて他人の前で見せた絶望の空洞だった。
だがミナトだと気づくと、防御本能が働いたのか、彼女は素早く顔を拭った。悲しみの表情を無理やり押し殺し、いつもの刺々しい態度を取り繕う。
「大丈夫か?」ミナトが歩み寄り、隠しきれない懸念を口にする。
凛は長く沈黙した。風が彼女の短い髪を乱す。眼下の灯りを見つめながら、掠れた声で話し始めた。
「師匠の夢を、見たの……」
彼女は断片的に語った。血まみれの白いスーツ、越えられない壁、そして誰かを連れて去っていく零次の背中。
「ここ数日の……あんたたちの様子も、車の中の空気も、零がさっきこっそり書き換えたバイタルモニタのデータも……」凛は顔を向け、最後の一縷の願いを込めてミナトを射抜いた。「師匠は……行っちゃうの? 任務じゃなくて……二度と戻ってこない場所に?」
ミナトの胸に、重い槌が振り下ろされたような衝撃が走った。あの子の直感がこれほどまでに鋭いとは。
彼は凛の傍らに立ち、零次がよくやる不器用で優しい仕草を真似て、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の頭をそっと撫でた。凛は今回、その手を振り払わなかった。それどころか、力を失ったように、ミナトの手のひらに頭を預けた。
ミナトは遠くを見つめ、激しく葛藤した。
今真実を告げれば、彼女はこの一ヶ月を崩壊の中で過ごすことになる。
だが告げなければ、その日が来たとき、不意打ちの絶望があの子を壊してしまう。
「凛……」ミナトは低く呼びかけた。考えていた。このわずか十七歳の、悪夢の余韻の中にいる少女に、「一ヶ月」という残酷な期限を告げるべきかどうか。
天台のドアの陰で、今田が静かに壁に寄りかかっていた。凛のために持ってきた上着を握りしめたまま、踏み出せずにいた。
彼は凛の泣き声を聞いた。「去り行く夢」の話も。
彼はうつむき、才能はないが零次に鍛えられ傷だらけになった自分の両手を見つめた。
「なんだ……みんな、同じことを怖がっていたんだな」今田は苦笑し、その瞳に静かな決意を宿した。
その瞬間、屋上の風の音が消音されたかのように静まった。
ミナトは凛の問いにすぐには答えず、顔を向け、半開きの鉄扉の陰を鋭く睨み据えた。
「出てこい、今田。ここまで来たんなら、隠れる必要はない」
今田はぎゅっと体を固くしたが、ゆっくりと影から姿を現した。赤くなった凛の目、そして険しい表情のミナト。不安が顔に滲んでいる。彼は異変を感じてはいたが、零次の「期限」については、まだ曖昧な恐怖の段階にあり、真実の核心には触れていなかった。
ミナトはこの二人の若者を見た。自傷に近いほど鋭い直感を持つ天才と、平凡ながら驚異的な靭性を持つ守護者。
『今言わなければ、あと数日は悩みなく過ごせるかもしれない。』ミナトの脳裏に迷いがよぎる。だが、今田の不安そうでいて清らかな瞳と、凛の「壊れてでも真実を知る」という強情な意志を見たとき、隠し通すことこそが最大の残酷だと悟った。
二人に本当の成長を促すため。あの白いスーツの引き継ぎが唐突になりすぎないため。そして何より……零次の最期の時間を、この子供たちが揃って見送れるように。
「行くぞ。俺の部屋だ」ミナトの声には、拒絶を許さない命令の響きがあった。
十分後、ミナトの自室。
凛は今田の持ってきた上着にくるまり、ソファの隅で丸くなっていた。今田は落ち着かない様子で椅子に座り、膝の上で手を弄んでいる。
ミナトは掃き出し窓の前に立ち、内線電話をかけた。
「暁か、俺だ。起きてくれ、俺の部屋に来い。そうだ……今すぐだ」
ほどなくしてドアが開き、濃い色のナイトローブを羽織り、長い髪を微かに乱した暁が入ってきた。彼女は起こされたことへの僅かな苛立ちを湛えていたが、室内の異様な空気、特に凛の涙の跡を見た瞬間、その瞳は極めて冷静で鋭いものへと変わった。
暁はミナトを見た。「ミナト、何があったの?」
ミナトはすぐには答えず、テーブルへ歩み寄って全員に白湯を注いだ。自分の分だけを除いて。彼は三人をぐるりと見渡した。零次が最も目をかけ、そしてZERO-DELAYの最後の希望である三人。
「今夜、お前たちに一つ話を。本来なら零次先輩は、自分が『墜落』するその瞬間まで隠し通すつもりだった話だ」
ミナトは深く息を吸った。心臓が胸の中で重く打っているのを感じる。凛の瞳が次第に収縮し、今田が茫然とし、暁が不祥な予感に表情を強張らせるのを見守った。
「いいか。これから話すことは、この部屋を出た後、誰一人として零次先輩の前で悟られるな」
静まり返った部屋に、ミナトの声が断頭台の刃が落ちる音のように響いた。
「あと一ヶ月だ。一ヶ月後、死神は地獄へ帰る」




