お別れ動画
『RA-TIO:生存比率』と動画配信プラットフォームとの公式契約終了が近づき、世界中を席巻したインフルエンサー旋風が幕を閉じようとしていた。組織の大部分の人間にとって、それはようやくスポットライトから消え、再びトンネルの中の幽霊に戻れることを意味していた。
しかし、会議室の空気はどこか奇妙だった。
「チッ」
凛は椅子の背もたれに寄りかかり、長い指でイライラしたようにボールペンを回しながら、野球帽を深く被り直した。
「なんで契約がよりによって今終わるわけ? 任務に戻って、あの退屈な残党どもを掃除して……リズム感のかけらもない雑魚どもと向き合うと思うだけで、反吐が出るわ」
口では文句ばかり言っていたが、この期間中、凛はカメラの前で今田と「交流」する日常にすっかり慣れてしまっていたのだ。体制に戻るということは、再びあの冷酷で理性的、私情を挟まない執行官に戻ることを意味する。
彩静は傍らで、静かにスナイパースコープを磨いていた。無表情な顔、肩にかかる茶色のポニーテール、その瞳は死んだ水面のように穏やかだ。
「私はどっちでもいい」
彼女はいつものように冷ややかな声で言った。「カメラの前でもトンネルの中でも、私の目的は一つだけだから」
だが、スコープを磨く動作が普段より三拍子ほど遅く、その指先にわずかな名残惜しさが宿っていることに、誰も気づかなかった。
「ヘヘヘ……」
場違いな笑い声が、重苦しい空気を破った。部屋の隅でスマホを見ながらニヤけている今田だ。
「通行人先輩、あんた脳みそのネット回線でも切れたの?」凛が眉を吊り上げ、殺気を含んだ視線を向ける。
「な、なんでもないよ!」今田は慌てて笑顔を引っ込めたが、口角の緩みは隠しきれない。
「ただ、考えてたんだ……契約が終われば、もう配信に映ることも、ネットで特定される心配も、ハリーに勝手に音声を消されることもない。つまり……」
彼は勇気を振り絞って凛を見つめ、珍しくいたずらっぽい目を向けた。
「これからは人目を気にせず、正々堂々と君に甘えたり……あわよくば『役得』を味わっても文句言われないってことでしょ? だって、もう観客はいないんだし」
「……死・に・た・いの!?」
凛の顔は一瞬で耳の付け根まで真っ赤になり、机の上にあった記録簿を今田に向かって投げつけた。しかし、今田は今回、それを鮮やかにかわしてさらに満面の笑みを浮かべた。
ミナトが手を叩き、全員を落ち着かせた。
「よし。ハリーが最終回のプランを立てた。終わるからには、ファンに一生忘れられない『グランドフィナーレ』を届けてやろう」
モニターには、いくつかのキーワードが表示された。
ハリー(ディレクター): 『僕が君たちのために用意したカーテンコールの脚本だよ。この動画のテーマはたった一文字――「真」だ。』
1. 武装を解いた24時間:
戦術解説も実戦演習もなし。起床から就寝までの一日を記録する。朝の寝起きの凛の寝癖や、彩静の大阪の実家での断片的な生活、そしてカメラマンがいかにしてこの二人の「死神」の間で生き延びているかを映し出す。
2. 無防備な本音トーク:
ハリーが設計した「真実の告白」コーナー。ユーザーが最も知りたがっている質問に、音声カットなしで答えなければならない。
3. 最後の鉄道駅での別れ:
ラストシーンは、黒い列車が入線する瞬間。カメラに向かって正式に別れを告げ、そのままトンネルの闇へと消え、完全にZERO-DELAYの身分へと戻る。
会議が終わり、今田は廊下で凛を呼び止めた。
「凛」
彼はもう彼女を「Rちゃん」とは呼ばず、怯えるような口調も使わなかった。
「最後の動画を撮り終えたら……僕の本音を聞いてくれるかな?」
凛は足を止め、彼に背を向けたままバッグの紐を強く握りしめた。
「……もし録画中に変なこと言ったら、本当に殺すからね」
彼女は振り返らなかったが、今田には真っ赤になった彼女の耳が見えていた。暗がりの中、彩静が静かに二人の後ろ姿を見つめ、ライフルを握る手を一瞬強く締め、それからゆっくりと緩めた。寂しさと優しさが混ざったような微笑を浮かべて。
『RA-TIO:生存比率』の公式SNSアカウントが、**「ご視聴ありがとうございました。契約終了に伴い、全11話で完結します。最終回は明後日配信」**という短い投稿を出すと、ネット上は騒然となった。一時間足らずでコメント数は20万件を突破した。
【SNSの反応】:
• 「たった11話!? なんでだよ! アニメのワンクールより短いなんて耐えられない!」
• 「毎日、カメラマンがRちゃんに毒づかれるのを見るのが生きがいだったのに……」
• 「これ生存解説チャンネルじゃなかったの? 恋愛日常アニメの最終回を見てる気分なんだけど」
• 「公式頼む、課金するからカメラマンがヒモ生活を送る姿を最後まで見せてくれ!」
中には「百万人の署名活動」を始める過激なファンもいたが、ZERO-DELAYの強力なファイアウォールの前では、その声が届くことはなかった。
ネット上の悲鳴とは裏腹に、東京本部の整備室は「決戦前夜」のような集中力に満ちていた。
**零次**は煙草をくわえ、ドア枠に寄りかかって彼らを見ていた。最後の一回は「日常撮影」だが、各自が持ち込んでいるものは全く日常的ではなかった。
「おい、凛。お前はVLOGを撮るのか、それともメドゥーサの本部を強襲するのか?」
零次は、凛がバッグに詰め込んでいるセラミック製の折りたたみナイフやフラッシュバンを指さした。
「うるさいわね、白髪おじさん」
凛は不機嫌そうに答えた。彼女は今日、珍しく淡い色のパーカーを着て、いつもの野球帽を被っていた。見た目はただの頑固な17歳の少女だ。
「ハリーが『真実』の日常を撮るって言ったのよ。私にとっては、これを持っているのが日常なの」
彼女はカメラのバッテリーをチェックしている今田を盗み見た。その瞳に複雑な感情がよぎる。契約終了は、この期間中に時折見せていた「女の子」の部分をしまい込み、再び冷たい仮面を被らなければならないことを意味していた。
「通行人先輩、撮影が始まったら……」凛は言いかけて、帽子のつばを強く押し下げた。「……やっぱりいい。あんたがまぬけ面してたら、画面の外に蹴り飛ばしてやるから」
「わかってるよ」今田は笑った。今日は妙にリラックスしている。彼にとってこの11話の経験は夢のようなもので、ようやく「カメラマン」という重責から解放され、いつでも凛の側にいられる助手の立場に戻れるのだ。
彼は歩み寄り、窓際で静かに座っている**彩静(小A)**を見た。彼女は今日、長い髪を柔らかなサイドポニーに編み、ハリーが用意した小道具――猫の絵がついた魔法瓶を手にしていた。
「小A、準備はいい?」今田が優しく尋ねる。
「うん……」彩静が顔を上げる。茶色の瞳には今田の姿が映っていた。彼女はこの数日間、ハリーの言う「本音コーナー」について考えていた。ミナトと口論している凛を一瞥し、それから今田を見て、消え入りそうな声で言った。
「カメラマンさん……最後の一回、……綺麗に撮ってくださいね」
『諸君、カメラのカウントダウンを開始する』
映像が始まると、そこにはもう単一の揺れる画面はなかった。**「一人称視点」と「固定された三人称視点」**が交互に切り替わる。それは、かつてない親密さと別れの儀式を感じさせる手法だった。
お馴染みのBGMが流れ、画面がゆっくりと明るくなる。
【視角一:早朝の廊下(一人称視点)】
カメラは今田の視点だ。彼がこの期間過ごしていたマンションのドアを開ける。朝の光が廊下を照らしていた。
「おはよう、Rちゃん。今日が最後の撮影だね」
今田の声は明るいが、隠しきれない名残惜しさが混じっている。
向かいのドアに凛が寄りかかっていた。今日は珍しく帽子を被らず、短い髪を自然に下ろしている。彼女が顔を上げてカメラを見たとき、鋭い瞳をよぎったのは殺気ではなく、淡く戸惑うような寂しさだった。
「……おはよ、カメラマン」
凛は低く答え、すぐに視線を逸らした。「最後の日なんだから、まぬけな面して撮ってたら、本当に『永久に配信停止』にしてやるんだから」
隣のドアも開いた。撮影のために大阪から東京に来ていた彩静が、ゆったりとした白い部屋着姿で現れる。
「隣同士っていいよね」今田がカメラに向かって呟く。
「おはようございます、カメラマンさん」彩静はカメラに小さく会釈した。頬が朝の赤みを帯びている。「それじゃあ……行きましょうか。最後の任務(撮影)へ」
【視角二:夕暮れの公園(三人称視点)】
場面が切り替わり、カメラは公園の小道の向かい側から三人の姿を捉える。
夕陽が空をオレンジ色に染めていた。三人は古びた木のベンチに並んで座っている。
• 凛は左側に座り、パーカーのポケットに手を突っ込み、地面の落ち葉を蹴りながら足を揺らしている。今日は驚くほど静かで、今田の鈍さを突っ込むこともない。遠くで遊ぶ子供たちを優しく見つめるその瞳は、視聴者の心を締め付けた。
• 彩静は右側に座り、猫の魔法瓶を握りながら遠くの線路を見つめている。相変わらず氷のように冷静だが、その清廉な空気の中には、世界と繋がったような温もりが混じっていた。
• 今田は真ん中に座り、重いカメラを膝に乗せて目を閉じ、最後の数分間の平凡な陽光を楽しんでいた。
そこには戦術的な指導も、銃声もない。ただ風に揺れる葉の音と、時折響く電車の音だけがある。
コメント欄はかつての喧騒とは違い、静まり返っていた。
• 「今まで見た中で一番美しい日常アニメの最終回だ」
• 「帽子を脱いだRちゃん、あんなに優しい目をしてたんだ……」
• 「カメラマン、お疲れ様。女神たちの別の顔を見せてくれてありがとう」
• 「このベンチに、ずっと座っていてほしい……」
「ねえ」凛が沈黙を破った。
今田が目を開けて彼女を見る。「どうしたの?」
「別に」凛は自分の靴の先を見つめ、数秒の沈黙の後、小さな声で言った。「……この11話、あんたの技術、少しだけ上達したわね。本当に、ほんの少しだけだけど」
「褒めてくれてありがとう、Rちゃん」今田が満面の笑みを浮かべる。
彩静が隣で水を一口飲み、二人の方を見て微かに微笑んだ。
「今日の空気……なんだか少し、甘い気がします」
夕陽の残光がベンチの三人を黄金色に縁取る。このお別れ配信の視聴数はプラットフォームの歴史を塗り替え、画面は感謝のスパチャ(Donate)で埋め尽くされていた。
**彩静(小A)**がカメラに向かって体を少し乗り出し、この11話の中で最も優しく、はっきりとした正面からの微笑みを見せた。
「今まで『RA-TIO』を応援してくれて、ありがとうございました。私は口下手ですけど、皆さんのコメント……全部見ていました。私の狙撃を、そして……こんな私を好きになってくれて、ありがとう」
そう言って、彼女はカメラに向かって丁寧に一礼した。
すると今田が、数万件のコメントの中から置かれた一通のメッセージを無意識に読み上げた。
「『Rちゃん、カメラマンの肩に寄りかかってくれないかな? これが見られたら、俺の人生に悔いはないよ』」
最後の一文字がこぼれた瞬間、空気が凍りついた。今田は自分が何を読んだかに気づき、顔を引き攣らせて隣の凛を見た。
「あ、いや……今のはただ読み上げただけで! 僕が頼んだわけじゃなくて! 本当に!」
今田は冷や汗を流して手を振ったが、すでに凛の鉄拳を覚悟していた。
しかし、予想に反して。
凛は怒ることも、ナイフを抜くこともなかった。彼女は少し首をかしげ、いたずらっぽく、挑発的で、それでいて言葉にできない温情を含んだ瞳で今田を見つめた。それからハリーのカメラに向かって、「やってやろうじゃない」と言わんばかりの視線を送った。
次の瞬間、普段は肩に触れるだけで顔を赤らめるツンデレ教官が、自然な動作で体を傾け、今田の肩に頭を乗せた。
ネット上は一瞬で狂乱の渦に。
「!!!」
「何が起きたんだ!? 幻覚か!?」
「演技じゃない、このRちゃんの表情は本物だ!」
今田は**「物理的にフリーズ」**した。
石のように固まった体で、肩にかかる軽い重みと、凛の髪から漂うかすかな香りを感じていた。脳内は真っ白で、配信中であることすら忘れてしまう。
激増するアクセス数に、凛は小さく笑った。
「これ、今まで私を綺麗に撮ってくれたご褒美よ」
彼女は目を閉じ、耳元で聞こえるか聞こえないかの震える声で囁いた。「……今回だけよ。動かないで、通行人先輩」
その隣で、彩静はいつものように魔法瓶の水を飲み、**「地上最強の背景」**としての、淡々としつつもどこか寂しげな表情を浮かべていた。ハリーはその瞬間を逃さず、ZERO-DELAYの歴史に残る一枚をキャプチャした。
三人が黒い列車に向かって歩き出す前、ハリーの茶目っ気たっぷりな声が響く。
『待って! 契約は終わりだけど、ディレクターの僕が「本音コーナー」をキャンセルした覚えはないよ!』
画面にパーカー姿のハリーが現れ、三人に際どい質問を投げかける。
ハリー: 「カメラマンさん。君とRちゃんの関係をどう定義する?」
今田: (硬直しながら)「戦場での、絶対的な信頼を置くパートナー! そして……私生活でも、最高の親友です!」
ハリー: 「Rちゃん、身長とIQ、どっちが高い?」
凛: 「ハリー、あんた天才をバカにしてるの? 身長は155センチだけど、IQは157よ! IQの方が勝ってるに決まってるでしょ!」
ハリー: 「小A、狙撃は君とRちゃん、どっちが上手い?」
彩静: 「当然、私です」
迷いのない、事実を述べるだけの冷静な声。凛は「環境が違うでしょ……」と小さく毒づくだけだった。
本音コーナーが終わり、三人は低く唸る黒い列車へと向かう。
車内に入る直前、今田が振り返った。夕陽が彼の影を、後ろに立つ二人の少女と繋ぎ合わせる。
「番組は終わりますが、僕たちの物語は、今始まったばかりです。さよなら、皆さん」
【信号切断 ―― RA-TIOチャンネル オフライン】
契約終了の最初の夜、東京本部は驚くほど静かだった。
休息室へと続く薄暗い廊下で、凛が突然足を止め、後ろを歩く今田を呼び止めた。
「ねえ、通行人先輩。もうカメラも観客もいないけど……さっきのベンチでの『フリーズ』は何よ。私の頭がちょっと乗ったくらいで、頭の回線ショートしちゃったわけ?」
今田は足を止め、月光の中で小さく見える凛を見つめた。少しだけ「役得」を喜ぶ気持ちが、確かな帰属意識へと変わる。
「だって……凛だって休みが必要なんだな、って初めて感じたからさ」
今田は鼻をこすりながら、静かに笑った。
彩静が二人の側を通り過ぎ、ポニーテールを揺らす。彼女は立ち止まらず、すれ違いざまに彼にだけ聞こえる声で言った。
「明日の打ち上げ……私の水、注ぐの忘れないでくださいね」
物語は再び暗いトンネルへと戻っていく。だが、三人の「リズム」は、以前とは全く違うものになっていた。




