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ZERO-DELAY  作者: WE/9
多忙な生活

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48/102

頻発する不測事態

エンジンが咆哮を上げ、空っぽの通りに響き渡る。ブルックリンの普段の喧騒は消え、そこには不気味なほどの死寂が広がっていた。


「ハリー、そっちの状況はどうだ?」ジュニア・ミッチェルが、放置されたドラム缶を避けるためにハンドルを激しく切りながら叫んだ。


『ご安心を、執行官。』車載スピーカーからハリーの自信に満ちた声が響く。『ニューヨーク交通システムの最高権限は掌握済みです。現在、このエリアの公式発表は「ハリウッド映画のロケ現場」。監視カメラの映像はすべて事前録画の爆破エフェクトに差し替えました。警察も市民も近づきません。ここは我々 ZERO-DELAY の独壇場ホームです。』


ハリーの仮想スクリーン上では、当初執拗に追いすがっていたメドゥーサの車列が、ニューヨークという複雑な迷宮の中で、見えない手に解体されるようにバラバラにされていた。


「前方交差点、左折。三、二、一……今だ!」


ハリーの指示に合わせ、ジュニアが完璧なサイドスライドを決める。オフロード車は狭い一方通行の道へ飛び込んだ。直後に追随していた三台の黒いジープが追いつこうとした瞬間、信号が赤に変わり、路上の自動ボラードが跳ね上がった!


ガシャァン! ドォォン!


後続の敵車は回避できず、コンクリートの柱に激突した。


『第一グループ、クリーニング完了。』ハリーが淡々と告げる。


次のブロックでも、ハリーは路障を巧みに操り、メドゥーサの長い車列を強引に寸断していった。


「よし、俺たちの番だ。」


**ミナト**がルーフの天窓を押し開け、特製の消音拳銃を構えた。その眼差しに、あの雅痞がぴなリズムが戻る。ハリーが敵車を暗い路地へ孤立させるたび、湊は正確に引き金を引いた。


プシュ、プシュ。


弾丸が後続車のタイヤとドライバーの肩を貫く。直後、待機していた数台の黒い清掃車クリーナートラックが影から現れ、残骸を迅速に回収してトンネルへと消えていった。


車を捨てて逃走を図ったメドゥーサの兵士たちが路地に逃げ込めば、そこには既に伏兵となっていた**ニューヨーク特警(NYPD SWAT)**が待ち構えていた。


「ははっ! これが噂の『ビッグデータ捜査』ってやつか?」**今田イマダ**が車内のモニターから消えていく赤点を見つめ、驚きに目を見開いた。


「黙りなさい、モブ先輩。」**リン**が忌々しそうに鼻を鳴らしながら、マガジンを装填し直す。


「これは演算の美学よ。あんたみたいな脳みそ断線男には理解できないでしょうね。」


しかし、彼女の強張っていた肩は明らかに緩み、無意識のうちに今田の方へ一センチほど身を寄せていた。


**アオ**は依然としてバックミラーを見つめていた。彼女の視線は、先ほど消えたあの少年の方向を捉えて離さない。あのレベルの狙撃手が、こんな単純な交通戦略で処理されるはずがないことを、彼女は知っていた。


オフロード車はブルックリン橋を渡り、マンハッタンの灯りへと向かう。


『脅威レベル、5%まで低下。』ハリーの声が軽やかになる。


『おめでとうございます。無事に「ロケ」はクランクアップです。……ですが、たった今東京本部から緊急の暗号通信が入りました。神宮寺ジングウジ司令がオンラインです。かなり機嫌が悪そうですよ。』


ジュニアが舌打ちし、シガーの吸い殻を吐き出した。「どうやら、この『自主制作映画』の件で、プロデューサー(司令)にお説教を食らう時間らしいな。」


【ZERO-DELAY ニューヨーク支部:最上階司令室】


ニューヨーク支部の司令室は、東京の禅のようなミニマリズムとは異なり、摩天楼が林立する圧倒的な圧迫感に満ちていた。窓の外には繁栄しながらも冷徹なマンハッタンの夜景が広がっている。


細縁の眼鏡をかけ、隙のないスーツを纏った鋭い眼差しの黒人男性がコントロールパネルの前に立っていた。ニューヨーク支部の司令官、**スタック(Stock)**だ。彼はタブレットの戦術データを繰りながら、極めて理性的で知的なオーラを放っていた。


湊、アキラ、凜、青、今田の五人が入室すると、大画面には東京からの中継映像——今にも雨が降り出しそうなほど険しい表情の神宮寺司令が映し出された。


「諸君、お初にお目にかかる。ここの指揮官、スタックだ。」


スタックは眼鏡を押し上げ、磁気のある落ち着いた声で言った。彼はジュニアを振り返り、微かに頷く。「旧友よ、苦労をかけた。これからの話にニューヨークの内部事務は含まれない。外でコーヒーでも飲んでいてくれ。」


ジュニアは肩をすくめ、数人の部下を連れて退室し、重厚な鋼鉄のドアを閉めた。


室内には六人だけが残った。画面の中の神宮寺と、現場の日本人メンバー五人だ。


沈黙が十秒間続き、神宮寺の低く威圧的な声が響いた。


「湊、曉。お前たちは『指揮系統』という言葉を知らないほど未熟だったか? 独断でのロケーション切断、ゼロへの越権連絡、未開発区域への侵入……。ハリウッド映画の孤独なヒーローにでもなったつもりか?」


曉は唇を噛み、右手で無意識にネックレスを隠した襟元を押さえた。湊はいつもの微笑を消し、背筋を伸ばしてこの嵐を受け止める覚悟を決めていた。


続けて神宮寺の視線が、後方の三人の若者へ向けられた。その語気はさらに厳しさを増す。


「そして残りの三人——凜、青、今田。後輩でありながら、前輩の規律違反を制止するどころか、一緒になって暴走したというのか? 全盤的な戦術援護もないまま、青を一人地上二百メートルの制高点に残し、二人の射撃手だけで敵の車列に突っ込むなど……正気の沙汰ではない。」


「司令、それは……」凜が食い下がろうとしたが、神宮寺の眼光に射抜かれ、言葉を飲み込んだ。


「ハリーがあの子たちと一緒に無茶をして、ニューヨーク中の交通網を駆使してバックアップに回らなければ……」神宮寺が机を激しく叩き、スピーカーから爆音のような衝撃が響いた。


「今頃ブルックリンのゴミ捨て場に、五人分の棺桶を並べることになっていたんだぞ!」


室内は窒息しそうな死寂に包まれた。今田は息をすることさえ恐れ、青は長いポニーテールで表情を隠すように俯いた。


「第四原則:人間性を保て。」


湊が静かに口を開き、膠着を破った。「司令、あなたは教えてくれました。それが組織の最終防線だと。新堂 弦が遺した情報はメドゥーサの脅威に直結しています。これは私事ではなく、将来のクリーニング行動を予見するためのものです。最も危険なリズムを選びましたが、我々は最も重要な『真実』を持ち帰りました。」


「真実だと?」神宮寺が鼻で笑った。「持ち帰ったのはメドゥーサの敵意と、落ちぶれた男の遺言だけだ。今、お前たちの軽率な行動のせいで、ニューヨーク支部の情勢は極めて過敏になっている。」


画面の中の神宮寺の表情は依然として険しかったが、湊と曉の意志を前に、殺人的な威圧感も微かに和らいでいった。彼は若くも頑固な顔ぶれを見つめ、最後には深くため息をついた。


「……いいか、これが最初で最後だ。警告処分一回。次は二度とないと思え!」


それだけ言い捨てると、神宮寺は自分の決心が揺らぐのを恐れるかのように、返事も待たずに通信を遮断した。画面は真っ暗になり、室内の重苦しい空気も霧散していった。


パタン。


鋼鉄のドアが開き、スタック司令が両手をポケットに突っ込み、優雅な足取りで入ってきた。彼は眼鏡を直し、虚脱したような今田と凜を見て、ニヤリと笑った。


「あいつ(神宮寺)はああいう性格だ。」スタックは軽い調子で言った。「よほど非道なことをしでかすか、取り返しのつかない重大な損失を出さない限り、あいつがお前たちのような精鋭を本当に辞めさせることはないさ。」


その言葉を聞き、ようやく若手三人は心底安堵した。今田は膝から崩れ落ちそうになり、凜はいまいましそうにキャップを深く被り直して、自分が冷や汗をかいていた恥ずかしさを隠した。湊と曉は視線を交わし、「やはり」という暗黙の了解を共有していた。自分たちの師は、何だかんだで身内に甘いのだ。


一行が司令室を出て、開放的な整備ロビーへと向かうと、壁一面の巨大なプロジェクションスクリーンに、驚きつつも温かい光景が映し出された。


スクリーンの中では、雅痞な青年姿の 零 (Zero / Ob) が、大容量のデータ通信を介してニューヨークのサーバーに半身を「突っ込んで」いた。彼は怨念のこもった表情で、ハリー (Harry / 7号) の両頬をむぎゅーっと揉みしだいている。


「湊のやつ、遠隔で連絡してくる時はいつもロクなことがない。最初から答えなきゃよかったよ……」


零はお母さんのような小言を言いながら、端正な顔を歪めて不安を露わにしていた。


「それにハリー、君もだ! なぜ彼らを止めなかった? ここはニューヨークなんだぞ、何かあったら海を越えて僕がデータを回収しなきゃいけないんだ。心配したんだからね!」


「わかった……わかったから……。みんな無事に帰ってきたでしょ?」


ベースボールキャップを被ったハリーは頬を引っ張られて声が変になっているが、必死に零の手を振り払おうとしていた。


「計算能力が高いからって、君のベビーシッターをしてるわけじゃないんだ。離してよ、先輩!」


「離さない! 次に湊が暴走する時は事前に僕に知らせると約束するまでね!」


世界最強の計算能力を持つ二つの AI システムが、これほど人間味に溢れた、ある種幼稚な「海を越えたやり取り」をしている姿を見て、出自の真実に沈んでいた曉の口角が、自然と微かに上がった。


「ふぅ……生き返った。」今田はその愛くるしい光景を見て、ようやく肩の力が抜けた。


「モブ先輩、ようやく神経系が繋がったわけ?」凜は相変わらず毒づくが、声は明らかに軽やかだった。彼女は二人の AI を見ながら密かに考えた。(師匠も司令も本気で怒ってないなら……後でマンハッタンにスイーツでも食べに行ってもいいわよね?)


青は静かに傍らに立っていた。無表情ではあるが、零のハリーに対する気遣いを見て、その瞳には柔らかな光が宿っていた。


午前中の驚天動地の騒ぎは、このシュールで温かい空気の中で、ひとまず幕を閉じた。


ブルックリンでの激しい衝突を受け、当初突撃を予定していたメドゥーサの拠点は短時間で無人となり、残存勢力はすべて撤収したことが判明した。緊迫していた任務日は、思いがけず目的を失った「空白の一日」となった。


しかし、その平穏は無償ではなかった。


「座りなさい。」曉の声には拒絶を許さない響きがあった。


「ただの擦り傷だ、過敏すぎるよ、曉。」湊はいつもの微笑みを浮かべ、鈍く痛む左腕を動かそうとした。乱戦の中、曉を庇った際に跳ね返った破片が彼の腕を浅くない深さで切り裂いていたのだ。動きは滑らかだが、曉の鋭い眼光は、彼の筋肉に生じている微かな硬直を逃さなかった。


「もし明日、その腕を使えなくしたいなら、そのまま立っていればいいわ。」


曉は無表情のまま彼の肩を掴み、強引に部屋へと押し込んだ。動作は強引だが、救急テープを剥がす彼女の指先は、かすかに震えていた。


その頃、別の組は凜に率いられて本部を出ていた。


「いい、遊びに来たんじゃないからね。」凜はキャップを深く被り、冷ややかに言った。「ハリーの情報によれば、近くの地下駐車場にメドゥーサが撤収した痕跡がある。調査に行くわよ。ついでに……」彼女は言葉を切り、行列の絶えない有名なスイーツ店に視線を投げた。「……ついでに補給品を買って帰るわ。」


「補給品って、あの限定のストロベリームースのことですか?」今田が小声で突っ込むと、凜の殺人的な視線が飛んできた。


「……はい! 監視カメラの死角、きっちりチェックします、先輩!」


青は黙って二人の後ろを歩いていた。彼女の目は絶えず周囲の高層建築を走査している。「休日」とはいえ、狙撃手としての本能が彼女を休ませない。特に、あの深紺色の髪をした少年の影が脳裏から離れなかった。


部屋には淡い消毒薬の香りが漂っていた。湊はベッドのヘッドボードに身を預け、曉が丁寧に手当てする様子を見つめていた。その時、彼のプライベート端末が白い光を放った。**白鷺 零次シラサギ・レイジ**の専用チャンネルだ。


湊が通話に出ると、画面には象徴的な白髪、そして相変わらず淡漠ながらも優雅な表情をした零次が現れた。


「ニューヨークでかなり派手にやったらしいな。神宮寺が太平洋を飛び越えて殴りに行こうかという勢いで怒っていたぞ。」零次の声に感情は読み取れなかったが、非難の色は微塵もなかった。


「先輩、お説教はなしですか?」湊が苦笑する。


「その必要はない。教条よりも、私はお前たちの直感の方を信じている。もしその真実が命を賭けるに値すると思うなら、行け。」


零次は少し間を置き、画面越しに隣に座る曉へ視線を向けた。声が少しだけ柔らかくなる。


「曉、迷うな。『遺言』に縛られる必要はない。新堂 弦はもう死んだ。今、お前が兵器か人間かを決めるのは、隣にいるその男と、お前自身だ。」


曉は顔を上げ、師であり友でもある最強の戦力を見つめた。強張っていた肩の力が少し抜ける。「……ありがとう、零次。」


「ゆっくり休め。せっかくの空白の一日だ。平凡な味を楽しんでおけ。」


零次は淡々と告げると、通信を切った。


一方、凜が大きなスイーツの袋を抱えて店を出ると、今田がノート PC を広げ、駐車場の入出庫記録を分析していた。


「凜先輩、このエリアの記録は綺麗にクリーニングされています。でも……」


今田が言い終わる前に、最後尾を歩いていた青が突如足を止め、右手を無意識に腰へと伸ばした。


「どうしたの、青先輩?」凜が異変に気づく。


青は答えなかった。彼女の視線は道路の向かい側にある公衆電話ボックスの傍らに釘付けになっていた。深紺色のパーカーを着た人物が背を向けて立っている。その人物がわずかに横を向いた瞬間、冷徹な横顔と、曉と生き写しの紺色の髪が露わになった。


その人物は青の視線に気づいたかのように、口角を微かに釣り上げると、マンハッタンの雑踏の中へと瞬時に消えていった。


「……あいつだ。」青が低く呟く。その瞳には、かつてないほどの動揺が走っていた。


街に瞬時に凍りつくような殺気が立ち込める中、凜は零次の弟子としての決断力を見せた。その鋭い瞳はコンマ一秒で戦闘モードへと切り替わり、手には限定スイーツの袋をしっかりと握りしめていた。


「ハリー、デリバリー(ニューヨーク支部支援チーム)に連絡! スイーツは駐車場の入り口に置いておく。ジュニア・ミッチェルのクソジジイに『出前』を受け取りに来るよう伝えなさい!」


凜は指示を出しながら、スイーツの袋を正確に隠し場所へと放り投げた。それは任務を最優先するという信号だった。


解散スプリット!」


凜の号令と共に、三人は火花が散るように四方へと散った。戦術的直覚に従い、凜は青を近くの制高点へと送り、視界を確保させた。今田は顔を青ざめさせながらも凜の背中にしがみつくように追い、二人は青が外壁を登り切ったのを確認すると、あの紺色の影が消えた方向へと追撃を開始した。


『エリアスキャン中……垂直方向へ移動する不明な信号をキャッチ。青、気をつけて! 敵のメンバーの一人が、そちらへ向かって急速に上昇中よ。』


青はエアコンの室外機を足場に、屋上へと駆け上がった。狙撃銃を構えた瞬間、向かいのビルの影で火花が散った。


パァン!


二発の弾丸が空中でかすれ合うように交差した。青は流弾を首を傾けて避け、冷徹な視線を維持する。見えた。向かいの貯水槽の陰、あの紺色の髪の少年が、機械のような冷笑をこちらに向けていた。


地上では、凜と今田が狭い路地ダークアレイへと踏み込もうとしていた。その時、ハリーの珍しく驚愕した声が響く。


『小天才、止まって!』ハリーがモニターに無数の熱源反応を投影した。


『今回のターゲットは、もしかしたら君かもしれないわ、凜! 外側に留まって、絶対に入っちゃダメ! 路地の中は高周波振動刃を装備した近接戦闘部隊で埋め尽くされている。これは、君のような射撃手を仕留めるために用意された罠よ!』


凜は突進を止め、路地入り口の赤外線センサーからわずか十センチのところで踏み止まった。


『凜、第一推奨は「撤退」よ。』ハリーの声が厳しくなる。『君が引けば、この大規模な信号の露出を利用して、潜伏しているメドゥーサのコアノードを逆探知できる。これが戦術上の最適解ベストソリューションよ。』


撤退?


強情な凜にとって、その言葉は辞書に存在しない。しかし、隣で汗だくになっている今田を、そして休息中の湊と曉を思い、銃を握る手が迷いを生じた。


だが、戦場は決断を待ってくれない。


――ドォォン!!


高空から二発目の重厚な狙撃音が、開始の号砲のように響き渡った。青と敵の「フクロウ」による死神のデュエットが始まったのだ。


「……ハリー、あんたは撤退が最適解だって言うの?」


凜の瞳に獰猛な光が宿った。彼女は腰の予備マガジンに手をかける。


「でも教えてあげたわよね。ZERO-DELAY の第一原則は『開槍を許可する』。目的はたった一つ――目標の排除よ。」


凜は撤退を選ばなかった。真正面からの突破を選んだのだ。同時にハリーはバックグラウンドで狂ったように演算を開始し、この混乱の中で凜を生き残らせるための「生存リズム」を探し始めた。


路地の奥から、金属が摩擦し合う音が聞こえてくる。それは高周波振動刃が起動する際に発する特有の低鳴——死神が歯ぎしりをするような音だった。


凜は路地の入り口に立ち、深く被ったキャップのツバが寒風に微かに震えた。彼女はかつてない圧力を感じていた。これは仮想演習シミュレーションでは決して味わえない、本物の殺気だ。


「これまでの私は、いつも湊先輩や師匠の後ろで『第二終結点』を務めてきたけれど……」


凜は低く呟き、瞳は次第に冷たく、そして集中していく。「これからは、私自身がリズムの起点にならなきゃいけない。」


彼女は顔を上げ、青ざめながらも踏み止まっている今田を見据えた。


「今田、青先輩のところへ行きなさい。」


凜の指示は短く、力強い。


「えっ? でも、凜先輩は?」


今田は呆然とし、伏兵の潜む真っ暗な路地を見つめた。「一人で入るつもりですか? 戦術論理に反します!」


「いいから。一人死ぬより、二人死ぬ方が最悪でしょ。」


凜は自嘲気味に口角を上げ、拒絶を許さない強情な口調で言った。


反論しようとする今田の口を、凜は一歩踏み出して左手で乱暴に、だが真っ直ぐに塞いだ。手のひらに伝わる今田の急な呼吸と体温を感じながら、彼女の瞳は一瞬だけ和らぎ、すぐにまた鋭さを取り戻した。


「行きなさい。青先輩は極限の対峙中よ。死角を監視する人間が必要なの……彼女には、あんたが必要なのよ。」


凜はパッと手を離し、闇へと背を向けた。二度と今田を振り返ることはない。今田はその場に立ち尽くし、細身ながらも凛然とした背中を見つめた。それが、このツンデレな少女が示した最後の手向けであることを、彼は悟っていた。


「……必ず、生きて帰ってくださいよ、凜先輩!」


今田は奥歯を噛み締め、青のいる制高点へと狂ったように走り出した。


【路地の深淵:AI と人間の最終確認】


暗闇の中、凜は一人で進む。ライフルをセミオートに切り替え、指を軽くトリガーに添える。呼吸の頻度が倍加し始めた。高圧環境下でのみ発動する、彼女特有の「極限射撃」のリズムだ。


『小天才、敵の近接ユニット計八名を検知。距離四十メートル。』


ハリーの声が通信チャンネルに響く。それはいつもの軽快さを失い、重苦しい質感さえ帯びていた。


『忠告しておくわ。統計された歴史データによれば、単独での路地突入の生存率は 15% 未満。今すぐ背を向ければ、信号機や障害物を利用して、三秒以内に絶対安全な撤退ルートを構築できる。』


「ハリー、あんた、いつからそんなに口うるさくなったの?」


凜は静かに答え、その足取りに迷いはなかった。


『私は君の師匠(零次)と「地獄」で会う約束をしているのよ。』


ハリーの声に、AI らしからぬ感情の波が混じる。


『その時に、あそこでこれ以上誰かの魂を見ることなんて、お断りだわ。』


凜は足を止めた。前方の影の中から、振動刃を手にし、光学迷彩を纏った数人の姿が浮き上がる。


『凜、本当に決めたの?』ハリーの声に、最後の確認が込められる。『撤退するなら、今しかないわ。』


凜は顔を上げ、キャップのツバをクイッと直した。その瞳には 17 歲の少女らしい意地と、戦場を支配する統御力が宿っていた。


「ハリー、私のリズムについてこれないなら、視界から消えなさい。」


彼女は凛とした美しさを含む微笑を浮かべた。それは、実戦で初めて師匠・零次の口調を真似たものだった。


「地獄なんて場所に、今のところ行く予定はないわ。」



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