時間がない!
模擬戦の翌朝、本部は肌寒い空気に包まれていた。
**湊は、まだ鈍く痛む脇腹をさすりながら、自動販売機でコーヒーを二缶買った。振り返ると、同じように眠そうな顔をした今田**と目が合い、二人は一瞬きょとんとした。
「湊先輩……凜を見かけませんでしたか? メッセージを送ったんですけど、返信がなくて」今田はボサボサの頭を掻きながら言った。
「奇遇だな。俺も今日は曉を見てないんだ。リーダーまで行方不明か? さっき射撃場を覗いたが誰もいなかった。あの射撃馬鹿がいないなんて、奇跡に近いぜ」湊は微かに眉を寄せた。その雅痞な微笑みには、わずかな不安が混じっている。
二人は寮、トレーニングルーム、さらには食堂まで基地中をひっくり返して探したが、結局、至る所に存在するシステムに頼るしかなかった。
「零、頼む。あの二人の特級戦力はどこへ行った?」
『目標信号を検知』零の音声がホールに響く。『地下48階、シミュレーションルーム03。備考:彼女たちは外部からの通信リンクをすべて拒絶している』
【地下48階:シミュレーションルーム03】
湊と今田が重厚な防音扉を押し開けたとき、目の前の光景に二人は息を呑んだ。
そこは純白の仮想空間だった。凜は肌身離さず持っていた黒いキャップを脱ぎ、黒髪を少し乱れたポニーテールに結んでいた。湿ったグレーのスポーツタンクトップ一枚になり、白い肌は激しい運動によって病的なほど赤潮を帯び、全身が水に飛び込んだかのように汗でびっしょり濡れている。
そして彼女の向かいには、同じく汗まみれになりながら、氷のように冷徹な眼差しをした曉が立っていた。
二人は純粋な近接格闘訓練を行っていた。
「もう一回!」凜が咆哮した。足取りは少し浮ついているが、突進する速度は依然として凄まじい。
曉は何も言わず、身を翻すとリーチの差を活かして正確に凜の手首を掴み、鮮やかな背負い投げで凜をデジタルの床に叩きつけた。
――ドォォン!
これで何度目のダウンだろうか。傍らのデータディスプレイには、『訓練継続時間:02:14:35』と冷徹に表示されていた。
「……っ!」凜は床を支えながらフラフラと立ち上がった。その瞳に宿る執念の火は消えるどころか、ますます激しく燃え上がっている。身長や体質が天性のものであることは分かっている。だが、近接戦の防御動作すら満足にできないのなら、157の知能などただの空論に過ぎない。
湊と今田はただ静かにドアの前に立ち、誰も邪魔をしようとはしなかった。これは、天才がひしめくこの部隊において、最も稀で、最も真実味のある「平凡な努力」だった。
「休憩だ」曉は息を切らす凜を見て、ようやく動きを止め、自ら右手を差し伸べた。
凜は一瞬呆然としたが、すぐに摩擦で真っ赤になった手で曉の手のひらを握り返した。性格も背景も異なる二人の執行官が、この瞬間、言葉を超えたある種の黙読(あうんの呼吸)に達した。
凜は曉から渡されたエナジードリンクを受け取ると、一気に煽った。そして鋭い視線を入り口に向け、相変わらずの毒舌を放った。
「ちょっと、そこの観光客二人! 見てて楽しいわけ? 的にされて撃たれたい?」
「まさか、リーダー」湊は歩み寄ってくる、同じく汗まみれで頬を紅潮させた曉を見て、心臓が不意に跳ねた。彼は初めて、曉の「非戦闘状態」における、あの無防備でボロボロな美しさを目撃したのだ。
曉は湊の前まで来ると、彼の手にあるコーヒーを無造作に受け取った。冷たいボトルを頬に当て、心地よさそうに短いため息をつく。
「湊」曉は彼を見つめた。その瞳には、かつてないほどの真剣さが宿っていた。「零次の言う通りよ。私たちに『あと一歩』はない。次の無差別襲撃が起きたとき、敵は二度目の引き金を引かせてはくれないわ」
湊は曉の強い眼差しを見つめ、それから傍らで疲れ果てながらも不屈の意志を見せる凜を見た。そして、いつもの不敵な笑みを収めた。
「どうやら……俺も特訓を始めなきゃな。じゃなきゃ、早晩あんたたちレディに置いていかれちまう」
静まり返ったシミュレーションルームに、金属の床へ滴る汗の音だけがはっきりと響く。
湊は女性陣の成長を見守りながら、胸の内に稀な焦りを感じていた。曉には体術と爆発力があり、凜には射撃の天賦と知能がある。だが自分はどうだ? 自分の核は「リズム感」と「戦場干渉」にある。それは相手がいて初めて磨かれる技術だ。基地内を見渡しても、神出鬼没の零次か忙しいAIを除けば、自分のリズムについてこられる高強度のスパーリング相手は見当たらない。
一方の今田は、さらに困惑していた。自分の両手を見つめる。特技と言えるものは何もなく、欠点なら全身にある。この「どこを伸ばせばいいか分からない」という恐怖は、敵と対峙するよりも彼を不安にさせた。
その時、**零**の金属質な声が重苦しい空気を破った。
『諸君の休暇を邪魔して申し訳ないが、**ハリー(Harry)**からニューヨーク支部を通じて緊急要請が入った。「跨国清算行動」への支援として、特級執行官一名と機動小組一組が必要だ。データ分析の結果、諸君が現在組織内で最も条件に合致している』
【出発の瞬間:拳と我に返る心】
「任務」という二文字を聞いた瞬間、曉の瞳が微かに揺れた。ミッチェルの死について、彼女の心には未解決の遺品のメッセージが常に引っかかっていた。そのわずかな動揺が、彼女の格闘の構えに0.5秒に満たない隙を作った。
――フッ!
一陣の風が吹く。曉は驚愕した。そのわずかな空白の間に、凜の包帯が巻かれた小さな拳が、鼻先にまで迫っていたのだ。
曉は反射的に手を上げ、正確にその拳を受け止めた。拳と掌がぶつかり合う振動は、この二時間の特訓が決して無駄ではなかったことを証明していた。
「……上達が早いな」曉は手を下ろすと、口調を任務時の冷徹なものへと戻した。「だが、任務だ。行くぞ」
凜は防がれたことを悔しがるどころか、特訓以来初めての満足げな笑みを浮かべた。それは、ついに「特級」の影に触れられるという自信の表れだった。彼女は振り返り、呆然としている今田を見た。
「ちょっと、どん亀先輩! いつまで人生哲学に浸ってるの? さっさと荷物をまとめなさい。アタシの黒い列車は待ってくれないわよ」
「あ、はい! すぐに!」今田は怒鳴られて首をすくめると、慌てて寮へと駆け出した。
【廊下:任務と「ハネムーン」】
曉は振り返り、まだ特訓相手に悩んでいる湊を見た。
「湊、行くわよ」曉は短く力強く言った。それは彼女が戦場で最も使い慣れた命令の口調だった。
曉が自分に向かって歩いてくるのを見て、湊の寄せていた眉が瞬時に解けた。運動後の赤みが残る曉の頬と、疲れながらも戦意を取り戻した深藍の瞳を見つめると、悩みなどどこかへ吹き飛んだ。代わりに、あの馴染み深い、少し意地悪な微笑みが浮かぶ。
「イエス、マム。新堂長官」湊は軽快な足取りで隣に並び、曉の耳元で低くからかった。「ところで、二人で海外に行くのはこれが初めてだな……。もしかして組織も粋な計らいをして、ニューヨークへの新婚旅行でもプレゼントしてくれたのか?」
曉の足がわずかに止まり、頬が先ほどの訓練後よりも少し赤くなったように見えた。彼女は振り返らず、ただ声を潜めてこう返した。
「……ニューヨークの無差別襲撃から生きて帰れたら、好きに呼びなさい」
専用機は万メートルの雲海を滑らかに切り裂き、機内の光が不意に変化した。青い環境照明が、眩しく温かな黄金の光へと取って代わられた。
続いて、スクリーン上に無数の複雑な黄金の幾何学コードが点滅し、ベースボールキャップを被った十歳前後の少年のホログラムが飛び出してきた。彼は器用に口笛を吹くと、人間を超越した機敏さと賢明さを瞳に宿らせた。
「曉、湊、久しぶり。九條執行官、今田執行官は初めまして。僕はニューヨークの7号AI――**ハリー(Harry)**だ」
凜はストローを噛みながら、スクリーンの中の少年を凝視した。平庸な者を見下すような瞳や、絶対的な自信に満ちたオーラは、まさに「男版の自分」だった。
「これが噂の……東京本部が黄金の警報を鳴らした瞬間、全世界の戦術コアを乗っ取るっていう最強AI?」凜は信じられないといった風に呟いた。「ただの帽子を被ったガキじゃない」
「演算速度に限れば、君の157の知能より0.0001秒は早いよ、九條執行官」ハリーはスクリーン越しにウィンクし、すぐに真剣な表情に戻った。
【ブリーフィング:メドゥーサの牙】
ハリーは仮想スクリーンに複雑なネットワーク図を展開した。中心にはある名前が記されている。――「メドゥーサ(Medusa)」。
「今回の任務の対象について、君たちに馴染みがないわけじゃない」ハリーは図の関連箇所を指した。「メドゥーサは、前回の東京での少女誘拐事件の真の黒幕だ。N組織はアジア圏におけるただの代理人に過ぎなかった。君たち四人はその救出作戦の直接の遂行者だ。組織の『因果追跡原則』に基づき、君たちにはメドゥーサへの最終清算を行う優先権がある」
曉は座席の背もたれから身を乗り出した。瞳の奥に冷たい戦意が宿る。孤児を商品として扱うその組織は、彼女にとって決して許し難い絶対的な悪だった。
「ニューヨークで何を企んでいるの?」曉が低く問う。
「ミッチェルが生前に遮断した『データ・ブラックマーケット』を再開しようとしている。ニューヨーク支部は既にマンハッタン下端にある秘密拠点を特定した」ハリーは指で仮想のテーブルを軽く叩いた。「メドゥーサは対AI訓練を受けた傭兵団を抱えている。僕たちが求めているのは、最高峰の『肉眼射手』と『直感の指揮官』だ」
【上空の戦前準備】
「どうやらこのハネムーンは、血生臭いものになりそうだな」湊は軽く笑うと、座席の横にあるタクティカル・タブレットをチェックした。
「構わないわ」曉は窓の外を見た。地平線にニューヨークの灯りが見え始め、彼女の深藍の髪を照らしていた。「ミッチェルの仇が討てるなら、どこへだって行く」
後部座席では、今田が必死にハリーの提供する地図データを記録し、凜は不機嫌そうにハリーを睨みつけていた。
「おい、ガキAI」凜は挑釁的に眉を上げた。「そんなに自信があるなら、ニューヨークではネットが断線しないくらいの戦術ナビを見せてみなさいよ。アタシを失望させないで」
「安心しなよ、九條」ハリーのホログラムが消える直前、神秘的な微笑みを浮かべた。「空港にはとっておきのサプライズを用意してあるから」




