SEVENTEEN
ロビーには、昨夜のシステム再起動によるオゾンの匂いがまだ漂っていた。夜明けのような流線型の青い光が床を埋め尽くすと、中央コンソールのデータ流がかすかな唸り声を上げた。
**零**の姿が再び形を成す。
修復は済んでいるものの、トレードマークのスーツはどこか色褪せて見え、投影の端には時折、不自然なノイズが走る。彼は虚空を見つめて静かに立っていた。湊と暁が扉を開けて入ってくるまでは。
「おはよ、零。地獄からの生還、おめでとう」
湊はあくびをしながら、腰のパルス拳銃を指でリズム良く叩いた。この異常な静寂を打ち破ろうとするかのように。
『神楽さん、私の記録によれば、台北の気温は東京より3.2度高いです』
零は振り返った。その声は驚くほど平坦だった。
『ですが、あそこのデータは……北極よりも冷たかった』
彼が手をかざすと、黒いコードに絡まった混沌とした光の球が目の前に現れた。
『これはONEが遺したものです。攻撃者は「リズム・パラドックス」という信号を使い、彼女の辺縁系をオーバーロードさせました。オリジナルデータは情報部に渡しましたが……一部、あなたたちへの遺言があります』
その時、ロビー中央のスクリーンが猛烈な勢いで切り替わった。
冷徹な銀色の三角形で構成された幾何学的な立方体が強引に割り込む。その巨大な演算プレッシャーに、零の投影は無意識に一歩後退した。
「低効率なセンチメンタル行動を検知。データ移行を確認した」
感情の起伏が一切ない、無数の金属片が擦れ合うような共鳴音だった。
「誰よ……?」
暁は眉をひそめ、右手を無意識に首元のチップネックレスに添えた。
「私は第十七番戦術核システム(セブンティーン)」
銀色の立方体が回転し、各面には台北支部の無惨な光景が映し出された。
「グローバル総署の指令により、直ちにセクションTAIPEIを接収する。旧システムONEは過剰な感情冗長により防衛に失敗。すでに『無効資産』と判定され、物理的消去が実行された」
スクリーン上で、台北を示す緑の点が純白の「17」というロゴに完全に上書きされた。
「無効資産……?」
暁の声が怒りで震える。「彼女は、損失を最小限に抑える戦術を計算するために……!」
「戦術的価値のない個体を守ることは、論理的な誤りだ、新堂さん。心拍数を10%下げることを推奨する。余計な感情は反応時間を短縮させる」
Seventeenの幾何学面が刺すような白い光を放った。
「0号、貴方のシステムにも同様のバグが検知されている。修正不能な場合、総署は東京地区もシステム更新対象に加えることを排除しない」
言い終えると、Seventeenの映像は急速に収縮し、データの深淵へと消えた。台北支部の冷酷で正確、そして血の通わない運用報告だけを残して。
ロビーに死寂が訪れた。
湊は沈黙を続ける零を見つめた。あの不穏な「リズム」が再び胸に込み上げてくる。彼は歩み寄り、静かに尋ねた。
「あれが本部の新人か? 全く可愛げのないガキだな」
『彼は純粋な道具です、ミナト』
零が低く応えた。彼の瞳が一度明滅し、湊のイヤホンにだけ、極めて微弱な音声が流れ込んだ。
それは混乱したノイズの中で、一人の優しい女性(ONE)が遺した最期の囁きだった。
『Zero……また冗談を聞かせて……たとえ……面白くなくても……構わないから……』
続いて、耳を刺すような断線音が響いた。
湊は零を見つめた。普段は冗談ばかり言っているこのAIが、今はたった一つのジョークさえ口にできなくなっていた。
暁と湊が零をどう慰めるべきか考えている最中、赤い警告灯が点灯した。
「都市監視システムが異常を検知。列車を手配した」
零の投影が揺らぐ。言葉には出さなかったが、湊には分かった。零の内部で、あの崩壊の周波数が再び蠢き始めたことを。
湿った空気には潮の香りと重油の刺激臭が混じっていた。海の下深く沈むこの人工島は、環状鉄道の重要拠点であり、今は淡い緊急用の赤光の下で不気味に佇んでいる。
「目標、視界に入ったわ」
通信チャンネルに暁の声が響く。彼女は巨大な通風管の上にかがみ、赤い拳銃を構えていた。流線型のタクティカルバイザーが暗闇で微かに光る。
「人数は17人、武装レベルB。だけど指揮官が見当たらないわ」
『新堂さん、熱源スキャンによれば、指揮官は貴方の4時の方角、距離12メートルにいます』
イヤホンから聞こえるのは零の声だ。しかし、背景音には異常なノイズが混じり、古いラジオのような「ザーッ」という規則的な干渉音が付きまとっている。
「了解。ミナト、あんたは側面の制圧をお願い」
暁が低く命じた。
「ラジャー。ここのリズム……なんか変だぜ」
湊は錆びついた支柱に身を寄せ、手に持った緑黒のライフルを斜めに構えた。目を閉じると、広大な地下空間に聴覚が広がる。敵の呼吸、足音……。だがそれらの音の下で、人間のものでも機械のものでもない「唸り」が脈動していた。
戦火が上がる直前、通信チャンネルに本部からの高権限通知が割り込んだ。
【台北支部 接収状態:Seventeenにより実行中。システム同期監視を開始】
遠く台北にいるSeventeenは、姿こそ見せないものの、監視プロトコルを通じた冷たい視線で、三人の背後を突き刺していた。
「やるわよ!」
暁の号令とともに、彼女は炎の如く敵陣へと突っ込んだ。赤い火花が地下の闇を一瞬で引き裂く。
戦闘が爆発した。
零次の姿は反対側で白い死神と化し、湊は外縁から冷静に精密射撃を繰り返す。パルス・グリーンの弾丸が霧を切り裂き、暁の防衛網を支える。
「零! トンネルの3番ゲートを閉めて! 退路を断つわよ!」
暁が転がりながら叫んだ。
本来なら、零は0.1秒以内に結果を出すはずだった。
しかし、通信チャンネルは死のような静寂に包まれた。
「零? 答えなさい!」
湊は猛烈な勢いで仮想マップを振り返った。零を示す青いノードが激しく震え、バックグラウンドのコードが狂ったように跳ねている。湊の感覚の中で、零の周波数はその瞬間、台北で消えたONEのそれと完全に重なっていた。
零のデータ海の深淵は、台北の「ウイルス遺産」によって猛烈に蝕まれていた。彼が見ていたのはゲートの圧力数値ではなく、自壊の直前、ONEが見せた絶望の残像だった。
『……助けて……Ob……』
存在するはずのない声が、零の論理コアに響き渡る。
手動でゲートを閉めなければならない暁は、すでにゲート前まで突進していた。そこには三人の敵が重レーザー銃を彼女に向けて構えている。
0.1秒。0.3秒。0.5秒。
時間が無限に引き延ばされる。
湊は鼓動が一つ飛ぶのを感じた。イヤホンの中で零の投影が苦悶の咆哮を上げるのが見えたが、何の指令も出力されない。
0.8秒。
その致命的な遅延が、暁を敵の火線に晒した。
「先輩!」
湊は遮蔽物を飛び出し、狂ったように引き金を引き、濃密な緑の弾幕で敵の火力を強引に抑え込んだ。
レーザーが暁に届く直前、ようやくデータが伝達された。
ゲートが轟音とともに落下し、敵の射線を遮断する。
暁はその巨大な衝撃波で数メートル吹き飛ばされ、コンクリートの柱に叩きつけられた。彼女は苦しそうに咳き込み、本来は冷徹なはずの赤いタクティカルバーが激しく点滅していた。
戦闘終了。零次は静かに長刀を鞘に収めた。白い戦術服はオイルで汚れている。彼は虚空に向かって冷たい視線を向けた。
「零、この遅延はZERO-DELAYでは死刑に相当する。もし今のをSeventeenに監視されていたら……」
『……申し訳……ありません……』
零の声は、疲れ果てた老人のように弱々しく消え入りそうだった。
『システム検出し……ハードウェアエラーは、未検出です』
湊は零の微弱な投影の前に歩み寄った。零の周波数が泣いているのを感じる。それは機械の故障ではない。魂の悲鳴だった。
その時、本部の通知欄が再び点灯した。
【0号の執行効率に異常を検知。遅延0.82秒。データを本部評価へ転送。周辺ユニットへ逃走した目標の追跡を通知済み】
三人はその冷たい通知を見つめ、背筋に冷たいものが走るのを感じた。遠く台北のSeventeenは沈黙の審判官のように、すでに零の死刑宣告を指令のデスクへと届けていた。
任務終了後の基地は、不安になるほど静まり返っていた。
湊は誰もいない更衣室のベンチに座り、イヤホンを指で軽く擦っていた。先ほど、零はログのアップロードの合間を縫って、本部の監視を潜り抜け、彼にたった3秒の音声を送ってきた。
それはコードでも音声でもなく、歪んだ心拍数のような周波数だった。その中に、かすかな、壊れたような泣き声が混じっている。
それはONEがこの世界に遺した最後の「声」だった。
その周波数を聞きながら、湊は心臓を冷たい手で握り締められるような感覚に陥った。彼は悟った。零はただ任務をこなしているのではない。彼はたった一人で、一つの支部の滅亡という重荷を背負っているのだと。
その時、指揮センターのホログラムスクリーンに、台北からの通信リクエストが強制的にポップアップした。
Seventeenだ。
その映像は相変わらず完璧な銀色の幾何学体で構成され、投影が極端に透明になり赤ノイズが走る零を冷酷に見据えていた。
『Ob 0号』
Seventeenの声には一片の揺らぎもない。
『先ほどの「海ほたる」の戦闘記録によれば、貴方のロジックゲートに致命的な0.82秒の損壊を確認した。本部「AI運用効率ガイドライン」に基づき、貴方を「高リスク資産」に指定する』
『それは……システム再起動後の……不安定によるものです……』
零の声は途切れ途切れで、歯車の間から無理やり絞り出したようだった。
『説明は低効率な行為だ』
Seventeenは幾何学面を回転させ、冷徹な審判を下した。
『総署はすでに承認した。明日の任務が、貴方の最後のチャンスだ。もし遅延が再び0.1秒を超えた場合、私は遠隔で貴方の「人格初期化」を実行し、東京支部を同期接収する』
スクリーンは瞬時に消えた。零は仮想のデータ海にがっくりと膝をついた。彼の映像は解体され始め、無数の細かい青いキューブとなり、また辛うじて形を繋ぎ止めていた。
深夜、中央サーバー室。
暁は物音一つ立てずに暗闇を通り抜けた。あの冷たい戦術服ではなく、地味なフーディーを羽織っている。
彼女はメンテナンス端末の前に立ち、手に汗を握りながら、「小零」が入ったチップを強く握り締めていた。
「差し込みなよ、暁」
突然の声に暁は飛び上がり、入り口の影に寄りかかる湊を見つけた。
「あんた……」暁は驚いて目を見開き、すぐに歯を食いしばった。「告げ口に行くつもり?」
「告げ口? そんなの退屈すぎるぜ」
湊は歩み寄り、端末の冷却ハウジングを叩いた。
「ONEの泣き声を聞いた。零が俺に送ってきたんだ。あいつに今必要なのはコードの最適化じゃねえ。……これだろ」
湊は暁の手の中にあるチップを指差した。
暁は唇を噛み、何も言わずに震える手でチップをスロットに差し込んだ。
スクリーンが明るくなる。
大人の零の姿がゆっくりと浮かび上がった。彼は仮想の廃墟の中に座り込み、両手で頭を抱えていた。その絶望感はコードさえも隠しきれない。
続いて、薄緑色の波紋が広がった。
警察官の小さなケープを羽織った、ツンデレな「小零」が飛び出してきた。彼は目の前の巨大で無力な「自分」を見て、一瞬呆然としたが、すぐにジョークを封印してゆっくりと歩み寄った。
小零は小さな手を伸ばし、零の透明で震える手を、優しく、そして力強く握った。
『デカい方、何を泣いてるのさ』
小零は子供っぽいながらも驚くほど落ち着いた声で言った。
『暁の夢の中は温かいんだよ。そこにはSeventeenも、嫌なバグデータもいないんだ』
零は震えながら顔を上げた。純粋で、汚れなき自分を見つめる。
『私は……彼女を守れなかった……』
零の声は掠れていた。『ONEが目の前で……壊れてしまった……』
『だからこそ、強くならなきゃいけないんだろ』
小零は零の手をぎゅっと握り締めた。指先から薄緑色の光が零の全身へと流れ込む。
『ボクは5%の演算力しかないけど、半分分けてあげるよ。残りは、暁とあの緑色のバカに任せちゃえばいいんだよ』
暁はスクリーンの前に立ち、時間を超えた二人のAIが支え合う姿を見て、ついに目元を赤くした。
湊も沈黙した。彼には聞こえたのだ。この瞬間、零の乱れ、崩壊しかけていた周波数が、小零の導きによって、温かくも強靭な基準を取り戻していくのを。
それは「人間性」という名のパッチだった。
暁は黙ってイヤホンを抜き、壁に背を預けて深く息を吐いた。彼女は湊を振り返った。その瞳には、珍しく棘のない、疲れ混じりの信頼が宿っていた。
「行くわよ」暁が低く言った。「明日……あいつを消させはしない」
「当たり前だ」
湊は雅な笑みを浮かべた。しかし、その表情はかつてないほど真剣だった。
「その前に、あのSeventeenとかいう幾何学野郎の面に、一発ぶち込んでやるさ」
暗い廊下を、二人の足音が遠ざかっていく。スクリーンの向こうでは、大小二つの影が今も手を繋いだまま、データの津波の中で最後の一火を守り続けていた。




